オーストラリア辞典
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Transportation

流刑


 流刑はイギリスにおいて、17世紀から1868年まで刑罰として採用されていた。多くの囚人はアメリカやオーストラリアのイギリス植民地へ送られた。アメリカへの流刑は、1660年代に始まり、アメリカ独立戦争のため1776年に終了した。これに替わって、オーストラリアへの流刑が始まった。約25,000人の女性を含む約161,700人の囚人が1788年から1868年にかけてオーストラリアの植民地に到着した。1788年の第1船団に始まる流刑船の環境は一般的によいものだったが、第2船団の航海では多くの囚人が死亡した。1815年からは船医=監察官seurgean-superintendentを各船に同乗させて囚人の健康を守った。  

 囚人たちのうち4分の3がイングランド、スコットランド、ウェールズ出身で、残り4分の1弱がアイルランド出身者であった。そして数百人がインド、カナダ、その他のイギリス植民地出身であった。輸送された者の犯した犯罪で多いのは窃盗であった。約1,000人の政治犯にはスコットランドの殉教者Scottish Martyrs、トルパドルの殉教者Tolpuddle Martyrs、カナダの反逆者たち、チャーチストなどが含まれていた。囚人の約半数は、ニューサウスウェールズへ1788年から1840年にかけて送られ、さらに3,000人以上の国外追放者exileが1840年代に同地に送られた。ヴァンディーメンズランドは1803年から1853年に、西オーストラリアは1850年から1868年にかけて囚人を受け入れた。ニューサウスウェールズとヴァンディーメンズランドの白人による植民の初期に、囚人は主に公共事業に使役された。入植者への囚人の割り当ては1820年から1830年代に行われた。1840年から1850年代初めにヴァンディーメンズランドにおいては、様々な形の仮赦免制度がとられた。オーストラリアで再び犯罪を犯した流刑囚に課される刑罰には、体罰、独房監禁、重労働、女性に対しては女性工場への禁固、流刑囚入植地への輸送、極刑などがあった。

 ニューサウスウールズへの流刑は1840年に停止となったが、1848年に短期間再開されている。タスマニアへの流刑は1853年に廃止された。流刑が完全に廃止されたのは1867年で、最後の流刑船は1850年から遅れて流刑が開始された西オーストラリアへ送られた。

 西川俊紀1201