オーストラリア辞典
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Truganini, Trugernanner, Trugernini

トルガニニ、トルガニニー


1812?-1876
ドントラキャストウ海峡の西部、タスマニア生まれ。
最後の純血のタスマニア・アボリジナルと言われた女性。


 彼女はジョージ・ロビンソンを助け、タスマニアに残るアボリジナルを集め、フリンダーズ島に送るのに協力した。彼女自身もフリンダーズ島に行ったが、後に他のアボリジナルとともにタスマニア本島に戻された。他のフリンダーズ島に送られたアボリジナルが死ぬ中で、彼女は最後まで生き続け、その死はタスマニアのアボリジナルの滅亡だとして、世界の注目を集めた。

 トルガニニは、ブルーニー島周辺のアボリジナルの有力者の1人、マンガナを父として生まれたが、その子供時代にはヨーロッパ人たちの侵略が続いた。彼女の母は船員に殺され、伯父は兵士に射殺され、姉はアザラシ猟師に誘拐され、婚約者は彼女の目の前で殺された。そのような経験があるにもかかわらず、1829年にジョージ・ロビンソンにあって以来、彼女の夫となったウーラディとともにロビンソンに協力し、タスマニアのアボリジナルのすべてを集め、フリンダーズ島に送るのに協力した。1830年から1835年にかけて2人はロビンソンと息子たちのすべての遠征に参加し、ガイドとなり、言語や習慣を教えた。ロビンソンが残したその記録は、タスマニアのアボリジナルについての最も重要な史料となっている。

 1835年2人もフリンダーズ島に着き、指揮官となったロビンソンのもとで生活する。ロビンソンはアボリジナルの文明化を試みたが、その失敗は日々明らかになった。また多くのアボリジナルが伝染病により死亡した。1839年、ロビンソンがポートフィリップの先住民保護官に就任すると、それに同行した。しかし、彼女はロビンソンのもとを離れ、他の4人のアボリジナルとともに鯨猟師に合流した。ところが、1841年には、鯨猟師の殺害の罪で2人のアボリジナル男性は処刑され(ポートフィリップ最初の公開処刑)、トルガニニを含む3人の女性はフリンダーズ島へ戻された。1847年、フリンダーズ島のアボリジナルは46人に減少し、タスマニア本島にあるオイスター・コウヴへ再び移住させられた。

 1874年、トルガニニはその保護者であった、ダンドリッジ家の人々ともにホバート・タウンに移り住み、1876年5月8日に死亡した。彼女の死体は埋葬されたが、その意志に反して、1878年、タスマニアのロイアル・ソサエティによってその墓はあばかれた。政府は一般公開はせず、科学的な目的だけにその遺骸を利用することを許可したが、それはタスマニア博物館に置かれ、1904年から1947年まで陳列、公開されていた。その後タスマニアに生き残った「混血の」アボリジナルの強い抗議により、その遺骸は火葬にされ、その灰は1976年にドントラキャストウ海峡に撒かれた。

 彼女の白人の協力者として果たした役割、その侵略により受けたひどい痛みという2つの側面は、その解釈をめぐる歴史家の論議の的になった。

 藤川隆男00