オーストラリア辞典
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Turner, Ethel Mary

ターナー(ターナ)、エセル・メアリ


1872-1958
バルビー、ヨークシア、イングランド生まれ。
児童文学作家。


 1872年1月24日にイングランドで生まれた。商人であった父は彼女が2歳の時に死去した。そのため、彼女の母は工場の経営者のヘンリー・ターナーと再婚し、エセルと姉のリリアンLilianは養父の名前を名乗った。1878年に養父が亡くなると、翌年に一家はイングランドからオーストラリアに移った。エセルとリリアンはシドニーの女子高等学校に入学したが、在学中、2人で『アイリス』 Irisという雑誌を創刊し、卒業後は月刊誌『パルテノン』Parthenonを3年間にわたって共同で編集した。その雑誌は月に1,500部売れ、1人あたり年収50ポンドになった。エセルと姉は小説家になる計画を立てており、エセルは子供向けのページと大人向けの恋愛小説を書いていた。

 エセルは『イラストレイティッド・シドニー・ニューズ』Illastrated Sydney Newsに子供向けの記事を連載するようになり、後に、『タウン・アンド・カントリー・ジャーナル』 Town and Country Journalにも寄稿した。彼女は子供向けに多くの本を書いているが、最も知られている作品は、1894年に出版された『セヴン・リトル・オーストラリアンズ』Seven Little Australiansである。この本はロンドンで発売されると数週間で完売し、児童文学作家エセル・シビル・ターナーEthel Sybyl Turnerとしてのキャリアが始まった。この作品は現在ではオーストラリアの古典として、少なくとも11の言語に翻訳され、映画化やテレビ化もされている。家庭生活を理想化することなく、多くの家庭にあるような出来事と、オーストラリア独自の子供の生活を描いた作品として評価が高い。現在までに80度以上再版を重ね、英語版だけで200万部以上が売れている。

 エセルはさらなる名声を得るために、イングランドの文学サークルに加入することを勧められたが、シドニーから離れることを拒否した。その後、法廷弁護士のハーバート・レイン・カールーイスと1896年に結婚した。結婚生活は順調であり、1898年に娘が、1901年に息子が誕生した。彼女の作品には、このような幸福な生活と経済的な成功とともに、創作活動が少年少女向けの作品に制限されていることから解放されたいという感情も現れるようになる。

 第1次世界大戦時には、エセルは救急隊を組織し、徴兵制度のキャンペーンにも参加するなどした。1917年には『オーストラリアン・ソルジャーズ・ギフト・ブック』を編集した。また、禁酒運動にも取り組んでいた。戦時3部作において特に注目を引くのは、反ドイツ・ヒステリーに染まっていなかったことと、戦争への参加に積極的ではなかったアンザック兵への同情的な記述である。チャリティーにも多くの時間と金銭を費やした。彼女の最後の小説『ジュディー・アンド・パンチ』Judy and Punchは1928年に出版された。

 彼女は1958年にモスマンで亡くなり、北部郊外の墓地に埋葬された。高校卒業以来記していた日記からの抜粋が、1979年と1982年に出版されている。

 新林秀亮1201