オーストラリア辞典
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Watson, John Christian

ワトソン、ジョン・クリスチャン


1867-1941
ヴァルパライソ、チリ生まれ。
政治家、労働組合運動家、ニューサウスウェールズ下院議員(1894-1901)、連邦下院議員(1901-1910)、労働党党首(1901-1907)、第3代オーストラリア連邦首相(1904)。


 1867年、船乗りであったヨハン・クリスチャン・タンクとその妻マーサの息子として、チリのヴァルパライソで生まれる。ワトソンが生まれた時すでに両親は離婚しており、母マーサは、1869年にニュージーランドでイングランド人ジョージ・トマス・ワトソンと再婚した。ワトソンは10歳で学校を退学し、鉄道建設における雑用や義父の農場の手伝いをして働いた。その後、植字工となった彼は、19歳の時にシドニーへ移り住み、総督官邸の厩務員として働く一方、一時期は『デイリー・テレグラフ』紙や『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙などの植字工を務めた。ワトソンは印刷労働者組合会議で積極的に活動し、1890年にはシドニー労働組合会議への代議員を務めるなど、この頃から労働運動でその頭角を現し始めた。また、労働党の結成を積極的に支持し、1892年には労働組合評議会と労働党の議長を務めるようになった。

 1894年、ニューサウスウェールズ下院議員に選出され、8時間労働の徹底やスラムの解消に尽力し、移民制限などのいわゆる「白豪主義」政策にも関与した。ワトソンはこの頃から、マガウアンMcGowenやヒューズと並んで、初期オーストラリア労働党の中心人物となり、都市と地方の労働組合の結合に努めた。1900年に連邦労働党結成の中心人物として働き、1901年には連邦下院議員となった。同時に労働党党首として連邦議会での活動を指導することになった。1904年には、連邦初の労働党政権樹立を成し遂げ、自らは首相と大蔵大臣を兼任した。この時の政権は少数政権だったので、ディーキンの圧力によって数ヵ月で崩壊したものの、ワトソンは「新保護主義」をスローガンとするディーキンとの協調路線を党の方針とすることで、結果として強い影響力を維持した。その後、1907年に党首の座をフィッシャーに譲り、1910年の連邦議会選挙には参加せずに政界を退いた。ちなみに、この1910年の選挙によって労働党は大躍進を遂げ、ディーキン率いる自由党との二大政党時代を迎えることになる。現在まで続く労働党の地位があるのは、この時期のワトソンの功績によるところが大きい。

 政界引退後、ワトソンは多くの会社の役員を務め、全国道路運転車協会(National Roads and Motorists' Association, NRMA)の設立に貢献した。NRMAは現在オーストラリア最大の保険会社、自動車協会となっている。またオーストラリアの石油会社アンポルAmpolの設立にも貢献した。第1次世界大戦の勃発に伴う徴兵制導入をめぐる議論では、徴兵制への支持を表明したことによって、1916年に労働党から除名された。その後の選挙では、ヒューズやホウルマンの国民党を支持した。しかし、ワトソンは労働党除名後も、カーティンやマッケルら労働党の中心的人物との交友は続けた。1941年11月18日、妻と娘に看取られつつ、ダブル・ベイDouble Bayの自宅で死去した。晩年アンポル社の会長を務めていた彼の遺産は、3,573ポンドであった。彼の棺の埋葬には、クック、ガーディナー、カーティン、マッケルといった政治家が参加し、かつて彼を除名した労働党の総会も弔意を表明した。

 津田博司1201