オーストラリア辞典
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Whitlam, Edward Gough

ホイットラム、エドワード・ゴフ 


1916-
キュー、メルボルン、ヴィクトリア州、オーストラリア生まれ。
政治家、オーストラリア労働党党首(1967-1977)、オーストラリア連邦首相(1972-1975)。


 シドニーのノックス・グラマー、キャンベラのトロペア・パーク高校Tolopea Park High School、キャンベラ・グラマーで中等教育を受ける。シドニー大学の文学部(1938)と法学部(1946)を卒業。第2次世界大戦中の1941年から1945年には、オーストラリア空軍に入隊する。除隊後、1947年、ニューサウスウェールズで弁護士となった。

 ホイットラムが労働党に入党したのは1945年で、1950年に出馬するが、落選する。初当選は1952年の補欠選挙で、シドニー郊外のウェリワWerriwaから選出された。新興都市ウェリワから出馬したことは、オーストラリアの新興都市がもつ要望と問題に関する知識を彼に与えることになった。

 ホイットラムが議会に入ったのは、自由党・地方党の勝利が古い体制の労働党を根底から揺るがしている時であった。彼は反対勢力の抵抗に遭いながらも、労働党内での地位を固め、1960年にはアーサー・コールウェル党首の下で副党首、1967年には党首にまでのぼりつめた。彼は政権獲得をめざし、6ヵ年戦略を立てる。労働党の組織・構造の改造に着手し、党の綱領を書き換えた。また、支持層を広げるため、新興都市の中産階級の若年層に訴えた。これらは1969年までにほぼ成功した。激戦となった1969年の総選挙は、140もの公約を携えたホイットラム率いる労働党が、ホルト、ゴートン、マクマーンといった自由党の首相に対する優位を反映したものであった。それは次の1972年12月2日の労働党勝利を導いた。労働党による政権獲得は、1949年以来23年ぶりのことであった。

 ホイットラムはすさまじい速さで、公約した改革を実施していく。ホイットラム自身が1973年11月まで外務大臣を兼任し、対外問題にあたっていった。徴兵制を廃止し、ヴェトナム戦争から撤退した。南アフリカ共和国とのスポーツ交流を停止し、国連でアフリカ問題に関する投票を変えるなど、南アフリカ共和国に対するオーストラリアの態度を一変させた。また、中華人民共和国と国交を樹立した。1975年にはパプア・ニューギニアの独立を承認した。南太平洋フォーラムが促進され、人権と核兵器削減協定が批准された。オーストラリア、ニュージーランド、フィジーが国際司法裁判所で訴訟をおこした後、フランスは南太平洋での大気圏核実験を中止した。

 国内に関しては、学校への連邦出資、大学の授業料無償化を実施した。メディバンクとよばれる健康保険制度、母子・父子家庭への補助金支払いなどの社会福祉を充実させた。政府は芸術にも積極的な支援を行った。また、アボリジナルの土地所有権の存在を認め、男女同一賃金の原則の下で女性の地位は向上した。さらに、連邦結成以来オーストラリアの政策であった「白豪主義」は消滅することとなった。すでに移民制限法は廃止されていたが、ホイットラム政権下で、移民担当大臣に就任したアル・グラスビーにより、多文化主義への移行が言及された。

 しかし1973年の石油危機により世界が不況となると、改革の勢いも衰え始める。オーストラリアは石油危機の影響を直接受けることはなかったが、世界的な不況は、政策実施のために歳出が倍増したオーストラリア経済にダメージを与えた。また、1974年の総選挙で、労働党が上院で過半数を獲得できなかったことは、ホイットラム政権にとって痛手となった。この政治上・経済上の危機は、1975年10月予算関係法案を上院が否決した時、最高潮となった。上院・下院の間で、4週間にわたる論争が繰り広げられた。ホイットラムの戦略が成功しようとした時、総督ジョン・カーは、11月11日首相を解任、上下両院同時解散という形で、突然この危機を終結させた。これにより、ホイットラム政権は終わりを告げ、続く選挙でも、労働党は敗れた。

 その後、ホイットラムは野党として労働党の党首を務めるが、1977年12月の選挙で惨敗した後、辞任し、議会からも退いた。彼は連邦史上、最も長く労働党党首を務めた人物となった。1978年から1979年までオーストラリア国立大学の客員フェローとなり、1980年から1981年まで、同大学の初代ナショナル・フェローとなった。1983年には、ロバート・ホーク労働党首相により、ユネスコのオーストラリア大使に指名され、1986年までパリのユネスコへ派遣された。以後、さまざまな分野で活躍する。フィリピン、キプロス、ギリシア、イタリアから勲章を受け、1994年にはオーストラリア図書館・情報協会Australian Library and Information Associationからレドモンド・バリーRedmond Barry賞を受賞した。

 彼の主な著作は、The Truth of the Matter(1979)やThe Whitlam Government(1985)である。ホイットラムの政治に関する著作としては、Graham Freudenberg, A Certain Grandeur : Gough Whitlam in Politics(1977)やJames Walter, The Leader : A Political Biography of Gough Whitlam(1980)などがある。

 中西雅子00

 

経歴

功績(労働党のホームページ)

概略(政府のホームページ)