● 日本の開国〜 ● 世界大戦期 ● 貿易からみる戦後 ● 〜現在


 
 日本の開国〜

 

オーストラリアから来日し、
第一高等学校(現在の東京大学)で
夏目漱石らを教えたジェームス・マードック
 日本とオーストラリアとの関係は、1831年、幕末の日本にオーストラリアの捕鯨船が寄港したことからはじまります。そして、1854年の日英和親条約締結で日本が鎖国を廃止し、開国した頃から、両国の接触が本格化しました。

 オーストラリアからは日本に興味をもつ人々や、宣教師や教師が来日し、布教活動をしたり、高等学校(現在の大学)で勉強を教えたり、日本の情報をオーストラリアへ伝えたりしました。さらに1870年代から80年代にかけて、博覧会や演劇を通じて、 日本ブームが引き起こされ、オーストラリアにおける伝統的日本のイメージが広められました。

 19世紀の終わりには移民としてオーストラリアに渡る日本人も現れました。

 1881年には、日本人が、西オーストラリア州の木曜島で真珠を採取するためにオーストラリアを訪れています。1913年には1740人もの日本人が、木曜島やブルームの真珠基地で真珠の栽培や採取を行っていました。また 、19世紀末〜20世紀始めにはクイーンズランドのサトウキビ産業に従事するためにオーストラリアにやってきたり、ヴィクトリア州に稲作を伝えた日本人もいました。

 しかし、連邦政府が白豪主義政策のもと、移民制限法を制定することで、移民数は減少していきました。1901年には3600人ほどいた日本人は、33年までには2080人まで減少しました。  
Topics ・・・ 高須賀穣 ・  ブルームでの真珠採集
 

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 世界大戦期

日本軍のサンダカン捕虜収容所
で亡くなった、
1787人のオーストラリア兵の
顔写真が並ぶ。
(キャンベラの戦争記念館にて)
 日本とオーストラリアは、第一次世界大戦中は共に連合国側に参戦しました。しかし、1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃によって、太平洋戦争が勃発すると、オーストラリアはアメリカとともに日本に戦線を布告し 、両国の関係は最悪のときを迎えます。

 日本軍はダーウィンやブルームを空爆し、シンガポールやパプアニューギニアなどでも激戦を繰り広げ、多数の犠牲者が出ました。また、収容所での捕虜に対する扱いはひどく、この戦争の間に捕虜になったオーストラリア兵の3分の1が、 処刑や栄養失調、病気のためになくなりました。そのため、日本兵による捕虜への虐待は、オーストラリア人に日本人の残虐なイメージを植え付けました。

 1945年8月の終戦までに、日本との戦争で死亡したオーストラリア人の数は1万7501人にのぼり、 この数はドイツとイタリアとの戦争で死亡した人数のほぼ2倍にあたるものでした。この戦争はオーストラリア人の心に深い傷痕を残し、 それからしばらくは多くの人々が日本に対して激しく憤りの念を抱いていました。

 一方、戦争が始まった時点でまだオーストラリア国内に残っていた日本人は、戦争が終わるまで収容所に入れられました。1944年3月にはカウラ捕虜収容所で日本兵が集団脱走を試みています。この事件では、1104人いた日本人のうち、247人がなくなり、オーストラリア側も、4人が死亡しました。そして、1945年に戦争の終結した後の1946年2月からは、ほぼ全ての日本生まれの在豪日本人は日本に強制送還され、オーストラリアにおける日本人共同体は事実上姿を消すこととなりました。  
Topics ・・・ カウラ収容所脱走事件 ・  ダーウィン空爆
 

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 貿易からみる戦後

Osaka Shosen Kaisha 1959/07

1959(昭34)年7月の
大阪商船の豪州航路の運航予定表。
オーストラリアとは1957年(昭32)に
日豪通商協定が締結された。
(写真は
「時刻表歴史館」http://www.tt-museum.jp
より 許可を得て転載)
  オーストラリアと日本の貿易が初めて行われたのは1879年のことで、オーストラリアから羊毛が輸出されました。その後、日本からは米と石炭を、オーストラリアからは羊毛を輸出する双方向の貿易が始まり、徐々に貿易量が拡大していきました。1930年代には羊毛の輸出先として、日本は第2位の貿易相手国になっています。

  第二次世界大戦を挟んで、両国の貿易関係は一時衰退します。しかし、1951年のサンフランシスコ条約により、オーストラリアはいち早く日本との国交を正常化させました。 そして1957年には日豪通商協定が締結され、以前にも増して活発な貿易が行われるようになりました。オーストラリアの石炭や鉄鉱石などの原料を輸入したことによって、日本の鉄鋼業は飛躍的に発展し、これは、日本の高度経済成長に大きく貢献しました。

 そして近年では、日本はオーストラリアにとって最大の貿易相手国となっており、2002年には、オーストラリアの日本への商品輸出は全体の19%、 商品輸入額では米国に次いで2番目で、商品輸入全体の12 %を占めています。
Topics ・・・ 日豪間の貿易
 

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 〜現在

日本人の海外旅行先と
オーストラリアを訪れる人の
国別割合
  現在、日豪両国政府の関係で最も重要視されているのが、日豪パートナーシップに関する1995年の共同宣言です。 この取り決めで両国は、より深い相互理解とともに、二国間、地域的、多国間の様々な範囲におよぶ共通の関心がある問題での 相互協力を推し進めることで合意しました。

 2001年には、21世紀の新しい国際社会の中で、日豪両国が協力して具体的に何ができるかを話し合う会議がシドニーで開かれ、 幅広い分野での政策を提言した「日豪の創造的パートナーシップのためのシドニー宣言」が発表されました。 この会議の成功に続いて、2002年には東京で「創造的パートナーシップのための日豪会議」が開かれ、最近の国際情勢の変化が、 東アジアや太平洋地域に与えた影響、オーストラリアと日本の両国がこの地域のパートナーとして果たすべき役割について話し合われました。

 また、民間レベルでも、各州と都道府県、また自治体や港町等の間で結ばれている姉妹関係は100を超えました。 そして、多数の合弁企業がオーストラリアに設立され、両国の人々が共に働くことも一般化しています。 近年は毎年80万人以上もの日本人観光客がオーストラリアを訪れています。このように、両国間の貿易や観光が盛んになったことで、 オーストラリアでは日本語教育に重点が置かれるようになり、現在、日本語は小学校も含め、大多数の学校で学習科目に取り上げられたりもしています。  
Topics ・・・ 日豪交流年2006 ・  日豪の姉妹関係 ・  オーストラリアの日本語教育
 

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