鉄道旅行者のためのオーストラリア史


先住民アボリジナルの時代(〜1788)

 オーストラリアの先住民であるアボリジナルは、近年の研究によりオセアニア系モンゴロイド、オーストラリア・グループに分類される。今から約5万年前、アボリジナルの先祖は、東南アジアスンダ大陸から島をつたって、パプア・ニューギニアやオーストラリア大陸、タスマニア島を含んだサフル大陸へと移動してきた。現在でもアボリジナルの間では、祖先がカヌーにのって海を渡ってきたという神話が語り継がれている。サフル大陸へ移動後、海岸沿いから内陸部へと居住地を広げ、約1万6000年かけてサフル大陸最南端、現在のタスマニア島に到達した。その時点での人口は35万人強と推定される。

流刑植民地の時代(〜1850)

 1788年、初代総督アーサー・フィリップは囚人・入植者とともにオーストラリアに到着し、現在のシドニー中心部から数km南のボタニー湾に植民地を建設した。オーストラリアの流刑植民地時代の始まりである。1793年には最初の移民団が到着する。植民地の規模が拡大し、入植者の数が増えるとともに、囚人・入植者と先住民の間でたびたび争いが起こるようになった。炭鉱の発見や羊毛の生産などによって、オーストラリアの各地に開拓は広がった。また、入植地から広まったと思われる伝染病によって、1830年代までは入植者を上回っていた先住民の人口は激減していった。

ゴールドラッシュ・自治植民地の時代(〜1901)

 1851年、ニューサウスウェールズとヴィクトリアで金が発見され、ゴールドラッシュが始まる。ゴールドラッシュによって、1850年代以降、オーストラリアでは自由移民の数が急増した。自由移民の出身地は多くがイギリスであったが、ヨーロッパ諸国、南北アメリカ、中国などからも多くの人々が渡ってきた。自由移民たちは金鉱地へと向かい、多くの町が建設された。
 ゴールドラッシュによって引き起こされたオーストラリアの長期の経済成長は、1880年代の終わりにクライマックスをむかえた。そして、1890年代に入ると、オーストラリア経済は深刻な危機に見舞われる。経済の崩壊は、社会や政治の改革を求める運動の引き金となり、ナショナリズムの高まりや反アジア人意識を生み出した。これらの動きにより、イギリスの自治領となっていた各植民地を統合して連邦国家を創設する運動が高まり、1901年1月1日にオーストラリア連邦が成立した。
 オーストラリアにおける最初の公共の鉄道は、1854年にサウスオーストラリアのPort ElliotとGoolwaを結んだ11qの馬車鉄道である。蒸気機関車を用いた鉄道は、同年にメルボルン、翌年にシドニーで開業した。植民地政府がほとんどの鉄道建設の責任を負った。1870年代末から1880年代初頭が、そのピークであり、1871年から1891年にかけての20年間で鉄道の総延長は、1657qから15290qへと急増した。

メルボルンのターミナル駅の様子(1854年) シドニーのターミナル駅の様子(1856年)



連邦の時代(〜1945)
 
 1901年のオーストラリア連邦結成後も鉄道の建設は活発に行われた。1901年段階で20241qだった総延長は、1921年には38491qへと拡大し、1941-42年には43771qにまで達した。これをピークにして、総延長は減少していくことになる。戦時中には、ガソリンの配給制と自動車生産の制限にともない、都市近郊路線と地方路線双方の利用が増大した。1945-6年には、地方の鉄道利用者が約4700万人を記録し、そのピークに達している。

シドニー中央駅(1932年) ハーバーブリッジ(シドニー)と電車(1936年) フリンダース・ストリート駅(メルボルン、1900年前後)



現代(1945〜)
 
 1950-60年代には、約2500万人の利用者数を維持していた地方路線は、1970年代初頭における支線の大規模な廃止にともない、利用客数が約1300万人以下(1974-5年)に減少した。また、貨物輸送と旅客輸送の双方で自動車との競争に苦しみ、各州の鉄道は大規模な赤字を計上している。

シドニー中央駅構内(1995年) ハーバーブリッジ(シドニー)と電車(戦後 フリンダース・ストリート駅(メルボルン、戦後)