第1章 ドンとパット

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真夜中の電話

ここでは、第1章の最初の項目を例としてあげておきます。

二〇〇七年二月一九日、卒業生歓送会を終えて帰宅すると、玄関の電話が鳴っている。オーストラリアからその日二度目の国際電話。最初の電話を取った家内が「パットから」、と言うと同時に受話器を取った。オーストラリアはこの時もう二〇日だった。

ドンは私のオーストラリア史の恩師、パットはその奥さん。二人とは二〇年以上の付き合いです。師弟関係というよりは、友人や義理の親子のような感じです。ドンと知り合ったのは、私が首都キャンベラにあるオーストラリア国立大学に留学していたとき。ドンは私の修士論文の指導教官でした。毎週火曜日に会って研究の進行状況を報告しました。一〇分程度で終わる会話の最後に、修士一年目にはいつも、「図書館に行け」と言われました。しかし、二年目にはいつも「図書館に行くな」と言われるようになります。一年目のアドバイスは、ランケ的な実証史学を重んじるドンらしい。二年目のアドバイスは、論文執筆中でも史料を読み続ける私が論文を完成できないのではないかと心配してのことでした。

ドンは、「一九世紀以降について信頼に値するオーストラリアの歴史を書くことはできない」と公言する人で、学生たちの間では頑固で有名でした。しかし、まったく色合いの違う私の歴史をおもしろいと思ったらしく、自由に研究を進めさせてくれました。ドンの指導を受けていたときには、研究以外の話はしませんでしたが、ドンが退職し、私が日本に帰国して大学の職についてから、本格的な付き合いが始まります。

歴史研究の方法についてドンから学んだことはあまり多くはありません。しかし、教師としてのドン、その生き方から多くを学びました。ドンの退職後、私だけではなく、私の妻と娘も、毎年二人の家に泊まりました。二人だけでなく、その親族とも親密なつきあいをしています。ドンとパットは私がオーストラリア社会へ入る手助けをしてくれました。また、二人は私がオーストラリア世界を見る最も大きな窓であり、架け橋でもありました。二人と知り合えて本当に幸運だったと思います。

電話はドンの死を伝えるものでした。一度目の電話で家内はそのことを聞いていましたが、パットは私にも直接、話を伝えたかったようです。三〇分ほど受話器を握っていたのですが、内容はほとんど思い出せません。ドンに最後に会ったのは二〇〇六年の八月末、首都キャンベラの空港にケアンズから戻る二人を迎えに行ったときです。そのとき、私はキャンベラ郊外のクックにある留守中の二人の家にいつものように泊まっていました。いつものように研究をするためです。空港にはパットの車で行きました。帰宅後、私が作った料理をドンはおいしそうに食べてくれました。

そのドンともう会うことはありません。

その他の項目は、戦争から歴史戦争まで、日曜のロースト、メルボルンから、公務員の大移動、引退生活はローン・ボウリングを満喫、バナナ兄弟パジャマ着て、ねずみ男、ブルースホール結婚、幽霊地名辞典です。

感想


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