エピローグ

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エピローグ

最後は本を下のような感じで閉めていますが、本の結びというのは難しいものです。これからも書きたい本を書くことができれば、幸せです。私は褒められて育つタイプ(腐りかけかもしれませんが、犬の眼でもいれよか。上方落語より)なので、厳しい批判はいりません。では、エピローグをお楽しみください。

娘に言わせると、私はかなりのオーストラリア「おたく」らしい。もちろんそれには反論のしようがありません。今回も十分におたくぶりが発揮できていれば、満足なのですが、どうでしょうか。おたくでもあるのですが、一応歴史家でもあるので、オーストラリアについて文章を書くときには、一生懸命、事実を確認しようとします。自分や出会った人についても同じです。それでも間違いがあれば、どうか訂正してください。

それから、この本をきっかけに、オーストラリアの歴史やオーストラリアの社会に関心を抱いていただければ、そのうれしさは言いようもありません。この本が好きになられたなら、『オーストラリア歴史の旅』(朝日選書)はきっと気に入っていただけると思いますし、体系的にオーストラリア史を知りたい方は、『オーストラリアの歴史』(有斐閣)をお読みください。ちょっと宣伝です。それから、どうか、大阪大学文学部西洋史のホームページは、必ず訪れてください。無料で私の美声が聞けたりします。映像もあります。かっこよすぎたら、ごめんなさい。

もう一つ、本書を書く上で気をつけたのは、事実が歴史として取り上げられることの意味をできるだけ伝えることです。E.H.カーは、事実が歴史的事実となるまでには、歴史家たちによる取捨選択の過程があることを示しました。しかし、それ以上に、事実が歴史的に事実となるまでには、それを取り巻く文化的なコンテクストや背景があります。そこに注意を向けるようにしました。勝手な解釈のところもあるでしょうが、というよりも、解釈は勝手なものです。はい。でも、オーストラリアで経験する、一つ一つの行為や出来事には、異なる歴史的・文化的な背景があり、それを理解し、解釈しようとすることで、他者との結びつきはだんだんと太くなっていくように思います。

もちろん、オーストラリア社会も不変ではありません。また、日本社会も不変ではありません。また、グローバル化する世界の中で、ますます多くの人がマージナルマンやマージナルウーマンとなっていくでしょう。そういったことは、本書のような作業を無意味にするのではなくて、さらに豊かにしていくように思います。流動化する文化、社会的コンテクストの中で、私たちは生きていきますし、それに対処していくことが大切だと思います。私の娘は、小さなころ自分のことをキャンベラ・ガールだと言っていました。私の演習には海外生活のほうが長い帰国子女が数人います。こういう人たちも『猫に紅茶を』の続編の書き手になってくれる日がくれば、最高です。


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