第3章 流刑囚も立派な国民

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ナショナル・シンボルとしての流刑囚

この章では、流刑植民地として始まったオーストラリアという国にとって、流刑や流刑囚、監獄というものが現在どういう意味をもつかについて考えています。今回の例は最後の項目からです。これも修正前の原稿で、情報が少し多く詰まっています。

 最近の古文書館や国立図書館では、歴史家よりも一般の人々の数が圧倒的に多い。人々は、自分の、あるいは家族のルーツを求めて、先祖探しの作業に没頭している。古文書館のほうも、歴史家の相手はそこそこに、新たな顧客にサーヴィスの重心を移した。

 現在のオーストラリアは、アイデンティティの時代を進んでいる。多文化社会の中で、各エスニシティに属する人々は、集団としての独自のアイデンティティを主張している。これに対し、これまで社会の主流にあり、自分自身の存在について問う必要のなかったイギリス系の人々は、アイデンティティの喪失に悩むようになった。イギリスが故郷であり、イギリス文化とオーストラリア文化が一致した時代は終わったのである。オーストラリアという国を、自分のものだと想像することがますます困難になりつつある。かなりの数の人々が、自分の血縁者や家系に、アイデンティティのよりどころを求め、家族の歴史を構築しようとするようになった。

かつては、自分の家系が流刑囚につながっていることは、恥ずべきこと、隠すべきことだと考えられていた。しかし、できるだけ古い過去に、自分とオーストラリアのつながりを求める人々にとって、祖先に流刑囚を見つけることは、金鉱脈の発見に等しくなった。シャーリーは、私の先生の家に二週間に一度来る掃除の女性だ。彼女は、曾祖父母に三人の囚人を持ち、その一人は雌鳥と卵を盗み一四年の流刑となり、一八三八年にオーストラリアに到着。残る二人はウェールズから衣類を盗んだために流刑になったという。シャーリーは、家族の記憶から消えていた歴史を、国立図書館で何日もかかって調べ上げたのだ。

マニング・クラークやA・G・L・ショウ、ロブソンなどの歴史家は、かつて流刑囚をけちなこそ泥の集団として、また、犯罪者階級として描いた。歴史学の世界でも、このような囚人に対する否定的な見方は、近年の研究によって修正されつつある。最近の歴史家は、流刑囚を普通の労働者と変わらない人々として見る傾向が強い。

スティーヴン・ニコラスらの研究によると、囚人の熟練労働者の割合は、イギリスの労働者の場合よりもいくぶん高く、識字率もイギリス労働者の平均を上回っていた。ポーシヤ・ロビンソンによれば、囚人女性にとって、オーストラリアは成功の機会に満ちた土地であった。囚人女性たちは、建国の母として、実業家として、積極的にこの機会を活用し、イギリスにいた場合よりも幸せな生活を送った。

このような新しい歴史像は、流刑植民地の過去を建国神話の一部として、流刑囚を自分の祖先として、流刑をナショナル・アイデンティティの一部として取り入れることを容易にしているのである。流刑囚についての語りは、ナショナリズムという軸の周りを、常に回転しているのである。

この章のその他の項目は、監獄ツアー、俳優座公演「我らが祖国のために」、ジェントルマンのスリ、ボタニー湾、流刑囚は最も優れた移民、11歳の少女への死刑判決、マクウォリー総督、アボリジナルの少年、堕落した売春婦です(チェスターの街を想起させる、ロックスのチューダー・ロッジは今はありません)。

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