第5章 そして最後にアイリッシュ

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国民的英雄ネッド・ケリー

この章では、オーストラリアに息づく、あるいは青息吐息のアイルランド的伝統について述べています。例として、トップの項目を挙げておきます。

メルボルンからシドニー・ロードを北に向けて進路をとり、キャンベラに向かう高速道路を進むと、途中にグレンローワンの町があります。三回ほど立ち寄ったことがあります。メルボルンからキャンベラまでの旅程では、ここで昼食を取るのがお勧め。オーストラリアの国民的英雄、アイルランド系移民の子、盗賊ネッド・ケリーの巨像が見られます。この町はケリーが最後に逮捕された町で、その光景を再現した電動式劇場があります。

 ローマ・カトリックを信仰するアイルランド系移民は、第二次世界大戦に至るまで、イギリス的な主流文化に対抗できる唯一の抵抗勢力でした。キャッスル・ヒルの囚人反乱、ユリーカ砦の反乱、ネッド・ケリー、第一次世界大戦中の反徴兵運動などは、権威主義と支配者の不正に対する抵抗者の象徴として、反イギリス的なカトリック・アイルランド系移民の伝統の一部だとみなされてきました。しかし、それは、反イギリス的オーストラリア・ナショナリズムの枠組みの中で機能していたのです。

 戦後、非英語圏からヨーロッパ系移民が到来すると、共有するナショナリズムの枠組みの中で、カトリック・アイルランドの文化は、イングランド系の文化と混淆し、「典型的」オーストラリア文化と言われるものが生まれました。これが、現在しばしば、オーストラリアの主流文化、アングロ・ケルティック文化と呼ばれているものです。ユリーカ砦やネッド・ケリーは、今では主流文化を代表する歴史的アイコンになりました。

一見すると、ケリーに代表されるブッシュレンジャー(盗賊)には、アイルランド人が多かったように思われます。たとえば、ジャック・ドナフーは、バラッドに歌われ、虐げられた者の代表として歴史に名をとどめました。キャプテン・ムーンライトやタスマニアのブレイディ一味などもアイルランド人です。しかし、一九世紀のブッシュレンジャーに占めるアイルランド生まれの割合は二二%、これにオーストラリア生まれのカトリックを加えても三七%にすぎません。

ケリーがアイルランド人ならば、ケリーを捕らえた警官たちも多くがアイルランド人でした。一八七四年のヴィクトリアでは、警官の八一・七%がアイルランド生まれで、七二年のニューサウスウェールズでも、その割合は五九・七%に達していました。実際のアイルランド人は、権力を行使する側にも深く関わっていたのです。権力への抵抗者、アイルランド系カトリックというモチーフは、現実というよりも象徴的な意味合いが強かったのです。アイルランド系カトリックの貧困層は、不正な権力に追われながら、原野(ブッシュ)で生き延びるブッシュレンジャーに、共感を抱き、自分たちの代表だと考えました。ケリーは、最後で、最大のアイルランド系オーストラリア人のヒーローでした。

その他の項目は、そして最後にアイリッシュ、増えるアイリッシュ・バー、ユリーカ砦の反乱、家政婦は見た(こういう論文を書きたい)、よみがえる聖パトリック(ドロンボーも蘇りました。第1話にはグズラも)、7月12日は何の記念日?、労働とカトリックの同盟、ダニエル・マニックス、サンタマリア

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