第8章 白豪主義から白人性へ

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世界一困難な語学試験

この章は、私にとってはなんともなつかしいテーマです。学部学生のころに卒論のテーマとして決めたのが、白豪主義で当時の日本にはそれに関連する文書がなく、大変苦労して研究を始めました。今でもその当時集めた資料が大量に手つかずで眠っていますし、書きたかったことも頭の中にたくさん眠っています。これをもって棺桶に行くことになると思いますが。最近は白人研究が盛んになり、昔のテーマに復活の兆しがあります。例として挙げる項目は、第2番目の項目です。

 一九八二年、シンガポール航空で、生まれて初めてオーストラリアに到着。乗客の中のアジア系の人は、制服姿の日本人学生グループと私だけでした。すべての乗客は税関をフリーパス状態、そこで私だけが呼び止められ、荷物の検査が始まりました。学生グループは、なぜか税関まで来た出迎えの人物と立ち去り、下着から小物まで、すべての持ち物を調べる長い検査が始まったのです。ようやく終わっても、カウンター上に山になったものをバックに入れなおすのも大変。不快で仕方がありませんでした。貧しい国の庶民は、先進国へ旅行するとき、今でも世界中で同じような体験をしているのだと思います。

 一九世紀後半のオーストラリアは個々の植民地が必要に応じて、中国人やその他のアジア人の移民を制限してきましたが、連邦政府が成立したことで、一九〇一年に包括的な移民制限法が可決されました。これが悪名高い白豪主義の根幹です。移民制限法は、非白人を直接制限しませんでしたが、ヨーロッパの言語で五〇語の聞き取り試験を、私がされたように選択的に非白人だけに科すことで、事実上非白人の移民の完全排除を実現したのです。一九〇三年までは、このテストに四六人が合格しましたが、その後は六人が合格しただけです。一九〇九年以後は、誰一人として合格する者はいませんでした。まさしく世界で最も難しい語学試験でした。

 これに対しては、日本を含むアジア諸国の強い批判がありました。しかし、オーストラリアは頑として受け付けませんでした。ヴェルサイユ会議で、日本が提案した人種差別撤廃条項にも、オーストラリア代表のヒューズ首相が最も強く反対しました。合衆国もこれに反対していましたが、はるかに巧妙でした。オーストラリアは、かつての南アフリカのように、人種差別を国是とした国でした。

 こういう国にも変化は訪れます。新移民流入による国民構成の多様化、イギリスのEU加盟による関係の変化、日本がイギリスに代わって最大の貿易相手国になるなど、アジア諸国との経済関係の拡大、冷戦下で反共政策を推進する合衆国の人種差別政策への批判がその背景です。また、アジア人をターゲットとした移民制限を廃止しても、アジア系の人間が激増することはないと確信したことで、オーストラリア政府は、白豪主義政策を完全に放棄しました。それとともに、オーストラリアは多文化主義の優等生へと変身します。しかし、このような変身は、本当に突然起こったのでしょうか。これから二章にわたって、白豪主義の問題と多文化主義の問題を扱いたいと思います。

その他の項目は、人口増大かそれとも滅亡か(日本でもこう言う人が出てきそうです。床下知事、橋下知事、橋本知事なんかどうでしょう)、国際歴史学会議で先住民女性と、レッドファーン暴動、パームアイランド、クロナラ暴動(クロナラに行く途中、中国系の高校生と、ヨーロッパ系の高校生が、日本のアニメをめぐって激論をかわしていました。ヨーロッパ系の男の子はつかじのような)、アンザック・デイの復活、パトリシア・グリムショー、ポーリン・ハンソン批判、ファッション雑誌です。

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