第9章 オーストラリア国旗とアボリジナル旗のあいだ

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多文化主義社会と多文化社会

この章では、多文化主義の問題を扱いました。私はずっとオーストラリアの多文化主義については懐疑的で、人種主義には反対ですが、多文化主義の旗振りのような研究はしませんでした。他方で、現在の多文化主義へのいわれなき批判には抵抗を感じますし、多文化主義への幻滅とは全くかかわりがありません。それは歴史の一コマです。ただ多文化主義はもっと十分な分析を受ける必要があると思います。ここでは、多文化主義の定義に関わる項目を例として示しますが。内容はもう少しやわらかです。

 多文化主義という言葉は、人によって使われ方が様々です。単なるイメージで使われているときもあります。まず、この言葉について、私なりの説明をしたいと思います。

西洋諸国では一九七一年に、カナダが初めて多文化主義を国の政策として採用しました。多文化主義とは、第一に、国内における文化(とりわけ移民集団の文化)の多様性を認める政策です。また、この国の多文化主義政策を支える思想、あるいは多文化主義政策がどうあるべきかを問う思想も多文化主義と呼ばれます。混乱を避けるには、政府の政策を多文化主義政策、それに関連する思想を多文化主義と呼ぶのがよいでしょう。

間違ってはいけませんが、多文化主義はナショナリズムと対立する概念ではありません。多文化主義政策が、文化的多様性を前提に国民統合を推進もしくは維持しようとする政策だということは、カナダの例からも明らかです。カナダでは、フランス系ナショナリズムを強調していたケベック州が、この政策に対する最も強い批判者でした。

多文化主義政策を採用した諸国は、同化主義に代えて多文化主義的な国民統合を実現しようとしたのです。そう考えると、現在までの歴史的変化をもっとわかりやすく説明できます。多文化主義という思想が、国民国家の枠組みを超えていると夢想するところに誤りの根源があります。現在のところ、多文化主義は国民国家以上でもなく、それ以下でもありません。それが、多文化主義の強みであり、限界でもあります。

オーストラリアは、カナダにならって一九七〇年代に多文化主義政策を採用し、紆余曲折を経ながら現在に至っています。グローバリゼーションが急速に展開する中、つまり国家解体の圧力が強まる中、オーストラリアでこの政策が今でも維持されていることは、政策としての多文化主義はおおむね成功だったと言えるでしょう。もちろん、ナショナリズムを解体するというような、ありえない判断基準を持ち出せば別ですが。

第二の多文化主義は、社会が民族的・文化的に多様化している現実の状況を指します。こちらも混乱を避けるには、多文化主義的状況とか、多文化社会というふうに呼び分けたほうがいいでしょう。シドニーやメルボルンのようなオーストラリアの大都市は、明らかに多文化社会です。オーストラリア政府が、今後、多文化主義政策を放棄しようが、しまいが、この状況が変わるとは思えません。グローバリゼーションは、多文化状況を推進し、反多文化主義思想を醸成します。

例として選んだ項目が固いのを反省しています。その他の項目は、オリンピックの女王キャシー・フリーマン、アボリジナル旗を掲げて、多文化主義は失敗したのか?(ヨーロッパ人はイエスと答えるでしょう)、特急ガン号の由来、イタリア人は死んでもにぎやか、チャイナタウンの日本人町、ターバンの町ウールグールガ(バナナの町でもあります)、ヴェトナム料理はやっぱり鶉、ユナイティング教会です。、

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