第14章 労働者たちの世界
−二つの恐慌−

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要約

オーストラリアにおける主な恐慌は、1890年代と1930年代に起きた。1890年代に起きた恐慌のとき、失業者が増加して、労働組合も弱体化し、経済活動は大幅に縮小された。女性、子供、青年や農村部でも影響を受け、過酷な状況に陥った。しかし、貧困者を救済するための福祉政策は未発達で、多くは失敗に終わったため、収入が恐慌以前に戻るのは、1900年代までかかった。

1930年代の恐慌は、世界規模の経済危機で、1890年代以上の打撃を受けた。当初政権についた労働党政府も手をこまねいているだけで機能せず、失業手当も存在しなかった。その後保守新党の統一オーストラリア党が政権についたが、状況は悪いままだった。1932年の中頃には、失業率は30パーセントにまで達し、貧富の差も拡大した。

しかし、1930年代の恐慌はその後に、公共政策に影響を与えた。恐慌時、保守派の主張への不満から、経済運営組織の近代化を求める人々の立場を強固なものにした。そして恐慌での経験は、40年代に社会福祉給付金の広範囲にわたる確立にも影響を与えた。

用語解説

感想

1930年代の恐慌は、世界恐慌として知っていたけれど、オーストラリアでは1890年代にも恐慌が起こっていたことは知らなかった。30年代の恐慌によって、公共政策においてはプラスの影響を受けたけれど、1890年代の恐慌の経験で学んで、30年代の恐慌で生かされたことは何もなかったのだろうかと思った。それほど30年代の恐慌が大きかったのだろうけど、労働組合や政策も未発達だったのだろう。

コメント 1890年代には今の日本の銀行のようにオーストラリアでも多くの銀行が破綻したけれど、1930年代には金融システムはしっかりしていたよ。銀行経営者たちは、その教訓を生かしたんだ。バブルの崩壊があっても、経営さえしっかりしていれば、大丈夫ということだよ。


この章で注目したいのは恐慌がその後のオーストラリアに与えた影響である。それはまさに公共政策に対するものであり、恐慌時に物価が下落するのは当然であるとする保守派への不満が、ケインズ学派の政策受け入れを喚起し、経済運営組織の近代化を求める人々の立場を強固なものにした。このように、恐慌はあらゆる意味において分水嶺となったのであった。

コメント 歴史における事件の持つ意味でしょうか。


福祉政策は今では国がやって当然のことですが、その仕組みは人々が福祉の必要性を痛感し、求め始めて国がその役割りを果たすようになったことに気づいて、時代や世界の仕組みや体制が違えば当たり前ではないということに改めて気づかされました。経済など世の中が一体化して便利なことは多いですが、一方で一部で起こった事で世界中がパニックに陥る現代のもろさも考えました。

コメント うーん。文章をちゃんと書いて。


1890年代の恐慌はオーストラリアに大きな影響を与えたと考えられている。なかでも連邦の結成はその最たるものであろう。恐慌下での人々の生活を考えれば、彼らが多くの社会改革を望んでいたことが容易に納得できる。また、社会的弱者を救済する政策の失敗は恐慌の影響を一層大きなものとしたようだが、アボリジナルや移民といった人々はどのように暮らしていたのだろうか。そして新たな国家が作られていくのをどのように見ていたのであろうか。

コメント 中国人は権利を剥奪されていくにもかかわらず、連邦結成に期待を抱き続けていたようです。小泉首相を支持し続ける多くの日本人のようですね。多くの人間は合理的な損得勘定というよりも、ムードで動いていきます。90年代恐慌は、とりわけ中産階級に打撃を与え、「不安な階級」は安定を求めて連邦結成に進みます。


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