第13章 「ドミナントな白人性」を越えて
−近代日本の2つの顔−

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要約

19世紀後半、日本の周辺では欧米列強がアジア進出を狙ってしのぎを削っていた。1853年にペリーが来日したのも、アジア進出政策の一環である。ペリー来航は徳川幕府を揺るがしたが、一般に思われているほど幕府は無知・外交音痴だったわけではない。幕府による外交戦の成果の一つが六度にわたる遣外使節派遣であり、使節団の副使村垣淡路守範正が日記を遺している。

 日記から、村垣は日本と違って厳格な身分秩序や儀式がないアメリカを礼のない国と断じ、女性が公の場に姿を現すことをいぶかしがっていたことがわかる。しかし村垣は総じて日本は日本、アメリカはアメリカという意識が明確で、諸制度や社会のあり方、技術に驚きはしても、それを単純に拒絶または崇拝することはない。アメリカのよいところは学んでいけばよいという冷静な考え方であった。私たちは村垣の視点を異文化にも動じない堂々とした態度ととらえるべきだろうか、それとも封建的な考えから抜け出せない頑迷な態度とみるべきだろうか。

 明治以降の日本は政治・社会の諸制度から文化や生活習慣にいたるまで西洋化し、人類の普遍的価値とされる西洋文明の枠組み、「ドミナントな白人性」に包摂されていったといえる。19世紀後半のドミナントな白人性は、西洋文明の普遍性を唱えながらも非白人の国が白人性に同一化することを拒否した(帝国型ドミナントな白人性)。しかし、日本は西洋文明を輸入して近代化し、白人と肩を並べるべく努力を続けた。他方でアジア諸地域や過去の日本に対しては、西洋文明の輸出者として、白人が非白人をみるような軽侮のこもったまなざしを注ぐ。他国や過去の日本を非西洋文明だと軽侮することと、理想としての西洋文明と現在の日本を引き比べて批判することは、ドミナントな白人性が生んだ構造に支配されているという意味では同根で、現在も私たちの考え方の基本である。

 現在は多様な文化を受け入れようという風潮にあるが、その基盤には当然のこととして指摘すらされない「普遍的」な価値観の共有があり、その担い手は依然として白人および白人のつくった構造だと考えられる(多文化型ドミナントな白人性)。このことに無関心なまま多文化主義や文化の相対化を受け入れるのなら、また異文化を考察する際、無意識にしろ「保護すべきもの」か否か、線引きしているのなら、近代日本がアジア諸地域に対して西洋文明の輸出者として振舞ったことと同じになるのではないだろうか。現在の日本が白人性を背景とする西洋文明を習得した結果であること、同時に日本人が決して白人と同一化できないことは、日本人が白人研究に取り組む際に不可欠な要素である。

用語解説

感想

結局、村垣淡路守の態度をどう評価すべきなのでしょうか。

コメント それは自分で答えを見つけてください。


文化にはそれぞれの価値があるという議論、多文化型ドミナントな白人性を指摘して白人支配の構造を考察するという議論は、アメリカの先住民やアフリカ系の人々、アボリジニには適応できるが、日本については必ずしも同じようには適応できないのはなぜなのでしょうか。多様な文化を受け入れ、白人支配の脱構築をすべきとするなら、白人文明を受容する前の社会のままでよかったという極論にいたるのは、日本もアメリカの先住民も同様だと思うのですが。

コメント 日本人と先住民は同じ歴史・権力構造の中にいるわけではないからね。なんでも同じと考えれば、別だけれども。


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