第18章 多文化主義のなかの白人性
−オーストラリアの多文化主義論争から−

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要約

オーストラリアは1960年代より悪名高い白豪主義を廃止し、同化主義を否定した多文化主義政策を採用したことで、多文化主義国家の代表格となった。しかし同国は80年代より多文化主義論争を経験し、それは97年に極右政党「ワン・ネイション党」を結成したポーリン・ハンソンをめぐる論争で頂点に達した。これに対し国内では、多くの国民が多文化主義と非差別的移民・先住民福祉政策の維持を求め続けた。他方、こうした極右政党の発生は、白人性後退・動揺への不安から生じるのではないか、という議論も出てきた。

この点に関してシドニー大学の文化人類学者ガサン・ハージは、次のように批判する。非白人の文化・言語を尊重し、白人性の脱中心化を進めるように見える多くの多文化主義者は、実は多文化主義を道具として、オーストラリアでの白人の支配的地位を従前同様に堅持しようとする「ナショナリスト」なのである。

彼の主著『ホワイト・ネイション』での指摘はおおまかに言うと次のようなものである。多文化主義政策は、ほとんど白人国民支配者側のイニシアチヴで導入されたものと考えられており、文化の多様性も白人オーストラリア人の考える許容範囲内でのみ認められる。国民国家は白人性を基準にした差別体系であり、国民は白人性の基準に従いランク付けられる。そして当然ながら、非英語系移住者の国民は周辺化される。白人に管理される対象である彼らは、多文化主義論争の蚊帳の外にいるのだ。

したがって、現行の多文化主義「政策」ではなく、現在の多文化共生の「現実」を素直に認め、白人幻想を捨て、多文化な現実に白人が同化する必要がある。これは、管理主義的な「持つことの多文化主義」から「現にある多文化主義」への動きである、とハージは言う。

ハージの主張に関して、彼がほとんど語らないもう一つの厄介な問題に気付くべきである。それは、多文化主義が自由、平等、民主主義などのリベラルな価値を土台に成立したことであり、それが「多文化主義のリベラルなパラドクス」を生みだし、多文化主義を白人支配のための道具にしてしまうということである。多文化主義は、社会的弱者の生活や文化・言語の保護が確立し、市民権や人権意識が確立している民主主義社会でのみ可能である。しかし、そのようなリベラルな価値は白人のみが生みだし、実現したものである以上、白人文化が第一義的な重要性を持つ。よって白人の優位性を論じる議論は跡を絶たないであろうし、白人支配の動揺へのしぶとい抵抗は当面続くだろう。

用語解説

感想

23世紀くらいになって(それまで人類が存続していれば)、近代以降にヨーロッパが世界の覇権を握ったように、例えば中国が世界の覇者になって、白人がつくり出した価値とはまったく別の価値をつくったら、やっとアジア人に対する差別もなくなるのだろうか。でも今度はアジア人以外が、同じように底辺にランク付けされるかもしれないし・・。なかなかうまくいかない難しい問題だけれども、私が生きている間に、白人男性を頂点にした人間のランキングシステムのピラミッドが、少しでも崩れて、待兼山くらいよくわからないものになってほしい。ピラミッドもだいぶ崩れているのかもしれないけれど、人々の心の中には今もはっきりあると思う。

コメント 人間の価値観は驚くほど変わらないけど、他方で、驚くほど変わることもあるし。中国人だっていろいろやと思うしね。


私がよく感じるのは、美意識の白人性だ。日本人の女の子は特に、美容整形をしたり、彫りが深く見えるメイクをしたり、少しでも白人の顔に近づこうと必死だ。そういう私も、自分の顔のなかで、標準的白人顔に照らし合わせて、それに似通っていないところにコンプレックスを持っている。しかし自分本来の顔や身体が他の人種のそれと違っているから劣等感をもつというのは、本当はすごく悔しいのである。(私個人の気持ちの持ち方も大いに関係するのだけれど)私や他のアジアやアフリカの女の子が、他の人種と比べるのではなく、自分こそが一番美しいと思える世界になって欲しい。

コメント 本当やね。自分らしいことを追及するのは大変やけど、それのほうが生きていて楽しいように思います。強くならないといけないけど、自然にそうできると、楽でいいね。


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