当研究室発行の刊行物を紹介します |
1号[1998年12月発行] | 【目次】 | |
2号[1999年12月発行] | 【目次】 | |
3号[2000年12月発行] | 【目次】 | |
4号[2001年12月発行] | 【目次】 | |
5号[2002年12月発行] | 【目次】 | |
6号[2003年12月発行] | 【目次】 | |
7号[2004年12月発行] | 【目次】 | |
8号[2006年8月発行] | 【目次】 | |
9号[2008年3月発行] | 【目次】 | |
10号[2009年3月発行] | 【目次】 | |
11号[2010年3月発行] | 【目次】 | |
12号[2012年7月発行] | 【目次】 | |
13号[2013年7月発行] | 【目次】 | |
14号[2015年3月発行] | 【目次】 | |
15号[2016年3月発行] | 【目次】 | |
16号[2017年3月発行] | 【目次】 | |
17号[2018年3月発行] | 【目次】 | 18号[2019年3月発行] | 【目次】 |
1号[1991年3月発行] | 【目次】 | |
2号[1991年10月発行] | 【目次】 | |
3号[1992年3月発行] | 【目次】 | |
4号[1992年10月発行] | 【目次】 | |
5号[1993年3月発行] | 【目次】 | |
6号[1993年10月発行] | 【目次】 | |
7号[1994年5月発行] | 【目次】 | |
8号[1994年10月発行] | 【目次】 | |
9号[1995年4月発行] | 【目次】 | |
10号[1995年10月発行] | 【目次】 | |
11号[1996年4月発行] | 【目次】 | |
12号[1996年10月発行] | 【目次】 | |
13号[1997年4月発行] | 【目次】 | |
14号[1997年10月発行] | 【目次】 | |
15号[1998年5月発行] | 【目次】 | |
16号[1998年11月発行] | 【目次】 | |
17号[1999年5月発行] | 【目次】 | |
18号[1999年11月発行] | 【目次】 | |
19号[2000年5月発行] | 【目次】 | |
20号[2001年12月発行] | 【目次】 | |
21号[2003年1月発行] | 【目次】 | |
22号[2003年9月発行] | 【目次】 |
■ 論文 | |
世阿弥がいた場所 −義持以前の御用役者の環境− | 天野文雄 |
江戸初期奈良能楽界の動向 | 宮本圭造 |
幕末大坂の惣年寄資料にみえる芝居記事 −『御用留』安政六年〜元治元年の記事を中心に− | 中川桂 |
ブラームとラインハルト −イプセンの『幽霊』をめぐって− | 大林のり子 |
ベネフィット興業にみる演劇的算盤勘定(続) | 三原文 |
セノグラフィとしての構成主義 −あるいはタトリンの劇場− | 永田靖 |
■ 講演 | |
21世紀の演劇の意味を求めて | 山崎正和 |
■ 第1回演劇学セッションの記録 | |
現代生活と演劇 | 太田省吾 |
■ 論文 | |
《弓八幡》成立の時と場 −『申楽談儀』の「当御代」と応永初年の義満をとりまく状況をめぐって− | 天野文雄 |
近世京都謡方の一翼 −西本願寺能肝煎・皆山氏をめぐって− | 小林英一 |
幕末大坂の惣年寄資料にみえる芝居の動向 −『御用留』慶応元年〜三年の記事を中心に− | 中川桂 |
結城孫三郎の「歌舞伎操り」 −明治・大正期の九世結城孫三郎− | 澤井万七美 |
無様な舞台 −ヴァージニア・ウルフ作『幕間』とペーター ・ヴァイス作『サド/マラー』における演出家像− | 平川大作 |
テーマと表現 −D・ルヴォー演出『ルル』に於ける映画的手法をめぐって− | 中司淳子 |
■ 第2回演劇学セッションの記録 | |
〈劇の場〉をめぐって −spaceとfield− | 毛利三彌 |
能の舞台と歌舞伎の舞台 | 権藤芳一 |
■ 論文 | |
足利義満の禅的環境と観阿弥の能 −観阿弥作の《自然居士》と《卒塔婆小町》をめぐって− | 天野文雄 |
進藤家の人々 −進藤家系譜稿− | 宮本圭造 |
記憶としての演劇 | 山下純照 |
オーソン・ウェルズ作品の語りの構造 | 木下耕介 |
Reception and Absorption | Nagata Yasushi |
Shakespeare in Stratford-upon-Avon, summer 2000 | Paul A. S. Harvey |
■ 共同研究:能の演出史研究(1) | |
《弱法師》演出の変遷 | 宮本圭造 |
『藤永』のアイ −『観世流仕舞付』の記事をめぐって− | 伊吹美保子 |
男物狂いの扮装に関する一試論 −黒垂と梨子打烏帽子の併用をめぐって− | 長田あかね |
《豊干》の演出をめぐる諸問題 | 天野文雄 |
観世流仕舞付』と『珍鋪能仕舞付』 −その享受をめぐって− | 中嶋謙昌 |
■ 第3回演劇学セッションの記録 | |
演劇による教育 | 山崎正和 |
高校演劇を見つづけて | 大笹吉雄 |
宝塚北高校 | 錦織久夫 |
日大鶴ヶ丘高校の場合 | 勝島譲吉 |
■ 論文 | |
《養老》の典拠と成立の背景 −『養老寺縁起』と明徳四年の義満の養老の滝見物をめぐって− [付論]能における対権力者意識についての覚書 −《養老》などの「君は舟臣は水」をめぐって− | 天野文雄 |
近代歌舞伎における「上方」へのまなざし | 澤井万七美 |
磐城の宝生沾圃 | 三ツ石友昭 |
領事フィッシャーの紐育裁判 −興行契約書の罠− | 三原文 |
解釈技法としての演技論(1) −スタニスラフスキイにおける劇とその外部− | 永田靖 |
Triadic Relationship of Theatre Performance: From the Viewpoint of Bunraku | Mori Mitsuya |
Interpreting Shakespeare -Who was Hamlet? | Christopher Innes |
■ 共同研究:能の演出史研究(2) | |
《仏原》の演出についての一考察 −天冠・舞衣の着用をめぐって− | 小川佳世子 |
『観世流仕舞付』にみられる《七騎落》の演出 −舟の作り物とワキのセリフをめぐって− | 川島朋子 |
《檜垣》の演出をめぐる二、三の問題 | 宮本圭造 |
■ 第3回大阪大学演劇学セッションの記録 | |
演劇教育の現在−その理論と実践(その二) −〈ディスカッション〉の記録− | |
■ 論説 | |
《泰山府君》の原曲名をめぐる諸問題 −世阿弥研究のために− | 天野文雄 |
■ 論文 | |
足利義持の治世と世阿弥 −義持と後小松父子との関係をめぐって− | 天野文雄 |
露月と宝生沾圃 −絵俳書を中心として− | 三ツ石友昭 |
大坂の惣年寄記録にみる能記事 −公私における能とのかかわり− | 中川桂 |
岡田八千代の研究 −蘆花作『灰燼』脚色の新しさ− | 井上理恵 |
中国文明戯・六大劇団聯合演劇について | 瀬戸宏 |
東京左翼劇場の理論と実践 −『全線』と『太陽のない街』の上演分析− | 正木喜勝 |
フセヴォロツキイ=ゲルングロスと「演劇史」の誕生 | 永田靖 |
■ 共同研究:観世元章の能楽改革(1) | |
明和改正謡本における『伊勢物語』関係曲 −新註との関係を中心に− | 橋場夕佳 |
観世元章の《鉄輪》 −明和改正の実態とその影響− | 中尾薫 |
明和の改正と「三読物」関係曲の演出 −《安宅》《正尊》《木曽》の小書などをめぐって− | 天野文雄 |
■ 論文 | |
《老松》の主題と成立の背景 −応永二十七年秋冬の義持の大患をめぐって− | 天野文雄 |
『花伝』物学条々の「舞かがり」 −増補との関連とそれが意味するもの− | 尾本頼彦 |
『花咲傳』を読む −近世狂言への視座− | 川上孝也 |
二人のスペンサー −科学と演劇の間− | 神山彰 |
無言劇『ズムルン』の劇構造 −欧米を旅するラインハルト演出− | 大林のり子 |
■ 共同研究:観世元章の能楽改革(2) | |
観世大夫元章と《関寺小町》 −『元章手沢本』習十番の書入をめぐって− | 橋場夕佳 |
小書「乏佐走」考 −後シテの装束をめぐって− | 長田あかね |
明和改正謡本と現代の能(一) −濁音から清濁への改訂をめぐって− | 天野文雄 |
■共同研究: 寺山修司と演劇実験室天井桟敷研究 | |
孤独の百年 −イントロダクションにかえて− | 永田靖 |
シナリオライターとしての寺山修司 −『乾いた湖』の分析を中心に− | 横田洋 |
寺山修司における「童話」の存在 −『はだかの王様』を中心に− | 田中みどり |
寺山修司『毛皮のマリー』の現実と非現実 | 枡井智英 |
二元論への挑戦 −市街劇『人力飛行機ソロモン』を中心に− | 木下耕介 |
出会いの偶然性を想像力によって組織すること −寺山修司の演劇論を読む− | 正木喜勝 |
寺山演劇の集大成『レミング』 −改訂の意図から見る− | 藤元陽 |
Shintoku-maru -from the Tenjo-sajiki to Ninagawa Yukio - | Kikuchi Azusa |
山崎正和先生略歴 山崎正和先生主要著作目録 | |
演劇の言葉 | 山崎正和 |
演劇作品の解読 | |
《高砂》の主題と成立の背景 −応永二十九年の阿蘇大宮司雑掌の上洛と義持の治世をめぐって− | 天野文雄 |
記憶のドラマトゥルギー −宮本研『ザ・パイロット』から井上ひさし『闇に咲く花』へ− |
山下純照 |
古浄瑠璃〔日本大王〕と林鵞峰『日本王代一覧』 −神話物古浄瑠璃上演の背景試論− | 團夕紀子 |
「人」をめぐる演劇史 | |
トーマス・マッガイアー小伝 −サンフランシスコの興行師とリズリー一座の抜き差しならぬ関係− | 三原文 |
芭蕉と能楽 −小野小町を中心として− | 三ツ石友昭 |
茂山久蔵英政の周辺 −近世狂言への視座(二)− | 川上孝也 |
演劇の理論・演出・身体 | |
『花伝』の「問答条々」第九条の増補試論 −「花の論」の質をめぐって− | 尾本頼彦 |
一九九九年の蜷川幸雄演出『リア王』 −道化の演出を中心に− | 菊池あずさ |
人形の身体 | 澤井万七美 |
演劇史研究の現在 | |
演劇史記述とナショナル・モデル −ロシアにおける演劇史記述の諸問題− | 永田靖 |
明治初期の歌舞伎は西洋演劇と出会ったのか? −『漂流奇譚西洋劇』と『ネック・アンド・ネック』− | 堤春恵 |
物真似の芸能史 | 宮本圭造 |
演劇の「場」 | |
「委細別帳に有之」 −『弘前藩庁日記』の芸能上演の記述について− | 林公子 |
本願寺能楽史の原点をめぐって −蓮如・実如時代の能楽− | 小林英一 |
明治・大正期 天満天神付近の興行街 | 中川桂 |
論評 | |
「ひょうご舞台芸術」の十四年と三〇作品 | 平川大作 |
随想 | |
山崎正和先生 −激情と深邃の魅力 | 王冬蘭 |
■共同研究 観世元章の能楽改革(3) | |
明和改正謡本と現代の能(二) −濁音から清音への改訂をめぐって− | 天野文雄 |
《道明寺》の演出 −元章の改正意図− | 恵阪悟 |
明和本《冊子洗》をめぐる諸問題 −詞章・演出・改訂者− | 中尾薫 |
観世大夫元章の小書 −《富士太鼓》「現之楽」を中心として− | 橋場夕佳 |
■論文 | |
《金札》の作意と成立の背景 −原形の復元と作意の把握を通じて永徳元年の「花の御所」落成との関連におよぶ− | 天野文雄 |
世阿弥伝書にみる「鬼」の習道 −下三位の芸風解釈の視点から− | 澤野加奈 |
芭蕉発句「さみだれに鳰のうき巣を見にゆかむ」考 | 三ッ石友昭 |
明治期の名古屋能楽界 | 飯塚恵理人 |
川棚芝居「若嶋座」と上方 −明治期の状況を中心に− | 澤井万七美 |
スタイリストとしての小山内薫 −『ある敵討』(1926)をめぐって− | 横田洋 |
舞台監督と小山内薫 | 小川幹雄 |
コード・スキーマ・登場人物 −フィクション映画の物語叙述における俳優の演技の問題についての試論− | 木下耕介 |
Touring Practice, or Theatre as Contact Zone 1 | Yasushi Nagata |
■共同研究 観世元章の能楽改革(4) | |
明和本における『源氏物語』享受 −《住吉詣》の改訂をめぐって− | 中尾薫 |
観世太夫元章の小書 −《杜若》「恋之舞」の演出意図とその影響− | 橋場夕佳 |
■日本演劇学会2003年度秋の研究集会 シンポジウムの記録 | |
〔徹底討論〕能・浄瑠璃・歌舞伎のドラマ |
■論文 | |
世阿弥と三郎元重(その一) −三郎元重が観世大夫の地位を獲得した時期をめぐって− | 天野文雄 |
能〈舟橋〉にみる鬼について −身を責める「心の鬼」から− | 澤野加奈 |
甲州における能楽事情 −宗武卿の甲府城能舞台拝領と元章の手紙を軸として− | 中尾薫 |
《井筒》の夜空 −「傾く月」の謎 − | 小川佳世子 |
人形浄瑠璃文楽の方向性 −浄瑠璃義太夫節の現代青少年による受容の実態から− | 多田英俊 |
八橋検校の箏組歌「八橋十三組」の系譜 −寺院歌謡・筑紫箏との関連再考− | 上野曉子 |
1950年代日本における俳優教育とセリフ術の結びつき | 枡井智英 |
蜷川演出における「目の悦楽」 −2003年『ペリクリーズ』上演を中心に− | 菊池あずさ |
Translating Kyogen into Czech | Ondrej Hybl and Pavel Drabek |
The Left Front Theatre -Migration of the idea between Russia and Germany in 1920 and 30s | Nikolai Pesochinsky |
Sergei Radlov and European Theatre | Alexander Chepurov |
■共同研究 演劇理論史研究1 | |
イントロダクション | 永田靖 |
フリードリヒ・ヘッベル『マグダラのマリア』序文(1844)解説・抄訳 | 枡井智英 |
ヘルマン・ヘットナー『近代劇 美学的考察』(1852)解説・抄訳 | 横田洋 |
グスタフ・フライターク『戯曲の技巧』(1863)解説・抄訳 | 須川渡 |
ポール・ボンヌタン他「五人宣言」(1887)解説・抄訳 | 菊池あずさ |
ジョルジュ・ポルティ「三十六の劇的局面」(1894)解説・抄訳 | 正木喜勝 |
■論文 | |
世阿弥と三郎元重(その二) −応永末年〜永享初年の三郎元重と観世座の関係をめぐって− | 天野文雄 |
「引窓」の明暗を探る −鶴沢清六遺文庫「引窓」の節章解釈に至るまで− | 多田英俊 |
古形人形浄瑠璃かしらの「親父かしら」について −地方に遺存する古形かしらの造型分類による考察− | 細川久美子 |
国際化する狂言II −狂言翻訳中期、スラブ圏の言語への翻訳をめぐって − | ヒーブル・オンジェイ |
蜷川幸雄演出『リア王』に見られる自然観 −第三幕「嵐の場」を中心に− | 菊池あずさ |
ローカリティを越える民話劇 −劇団ぶどう座創設から『めくらぶんど』まで− | 須川渡 |
■表章先生集中講義録 | |
能楽研究をめぐる諸問題(1) | 表章 |
天野文雄教授略歴 天野文雄教授研究業績等一覧 | |
能を演劇と見る芸能史学者 ー古い友人を新しい知己としてー | 山崎正和 |
イプセン能覚書 −『ふたりのノーラ』(『人形の家』による現代能)の制作と演出について− | 毛利三彌 |
世阿弥と三郎元重(その三) −世阿弥の芸論における「芸道への危機感」をめぐって− |
天野文雄 |
解釈の理論/理論の解釈 | |
野田秀樹の『ザ・ダイバー』における「演劇の修辞学」 −能『海士』との関係性− | 山下純照 |
二本のロープ −映画と演劇の時間経験に関する試論− | 木下耕介 |
『副言巻』の目指したもの −修羅能のアイ語りをめぐって− | 橋場夕佳 |
演劇史研究の刷新 | |
幕末維新期の外交官たちの横顔 −日本の見世物芸を輸出する− | 三原文 |
大坂商人の演能活動 −担い手から見る近世大坂能楽史− | 宮本圭三 |
能大夫藤林権左衛門の観世家入門 −中津藩町方記録『惣町大帳』の記事を中心に− | 中尾薫 |
調査報告 岩倉使節団が観た演劇 −アメリカとイギリス− | 堤春恵 |
「間近代」の日本演劇 | |
琵琶と活動写真 −明治末から大正期の状況− | 澤井万七美 |
カリカチュアの演技とその機能 −トランク劇場・前衛座・心座の上演を中心に− | 正木喜勝 |
衣笠貞之助の連鎖劇制作 | 横田洋 |
三大狂言「序切跡」の分析 −構成と演出による− | 多田英俊 |
異文化の中の演劇 | |
カッコウと原爆 −アジアにおける内在するディアスポラ演劇− | 永田靖 |
中国における能楽研究 −一九四九〜二〇〇九− | 王冬蘭 |
ラインハルト演出「奇蹟」アメリカ公演(一) −その興行的戦略− | 大林のり子 |
最近の狂言翻訳および外国語による狂言上演 −狂言の修行、紹介、実演、翻訳をめぐって− | ヒーブル・オンジェイ |
上演研究の新展開 | |
江戸中期上方話芸の様相 −『浪速新内後追』の再評価を中心に− | 中川桂 |
遅れてきた古典的実験作 −マーティン・クリンプ作『アテンプツ・オン・ハー・ライフ』の上演より− | 平川大作 |
義太夫節創成期における竹本義太夫のうれい −曲節「ノル」「ノルフシ」を通しての一考察− | 細川久美子 |
ロベール・ルパージュ演出『アンデルセン・プロジェクト』 −隠蔽された自己の表象− | 神崎舞 |
■資料紹介 | |
永正三年笛彦兵衛伝書『龍吟秘訣』 | 天野サチ |
茂山忠三郎家蔵『翁秘書』 | 茂山恭仁子 |
■表章先生集中講義録 | |
能楽研究をめぐる諸問題(2) | 表章 |
■巻頭言 | |
付き合いのエクササイズ −2011年演劇学研究室のグローバリゼーション− | 永田靖 |
■論文 | |
能楽の近代化と池内信嘉 −能楽の改良し得らるゝや否や− | 中尾薫 |
伝統の中にあるリアリズム −前進座、中村翫右衛門のリアリズム論− | 枡井智英 |
日本占領期における「円形劇場」の試み −CIEにおける普及活動を手がかりに− | 須川渡 |
狂言における「地謡」の変遷(そのニ) −初期台本から現行台本への変化とその意味するものをめぐって− | 戸田健太郎 |
アジアのインターカルチュラル上演『デズデモーナ』の諸問題 −戯曲と演出の対照研究を通じて− | 岡田蕗子 |
■観劇実習レポート |
■巻頭言 | |
『老貴婦人の訪問』を翻訳して | 市川明 |
■論文 | |
昭和初期の川棚芝居「若嶋座」 −『布哇報知』を手掛かりに− | 澤井万七美 |
ラインハルト演出『強制結婚』とモリエールのコメディ・バレエ | 大林のり子 |
カメラ VS〈カメラ〉 −ハリウッド映画のニュー・メディア・ファンタジー− | 木下耕介 |
狂言における「地謡」の変遷(その三) −能の地謡との関係をめぐって− | 戸田健太郎 |
西欧における宝塚歌劇受容の諸問題 | モニカ・チェチリャ・レチンスカ=ルフニェヴィチ |
■資料紹介 | |
大英図書館近代歌舞伎番付目録 | 藤本百々子 |
■観劇実習レポート |
■ドイツ演劇及び現代演劇の諸相 −市川明教授退職記念小特集 | |
略歴・業績 | |
変身のオピウム −ブレヒトと日本の演劇における笑いの三つの源泉− | 市川明 |
木下順二からのメッセージ | 秋葉裕一 |
「伝統」の舞踊化 −林文中舞踊団『小南管』シリーズをめぐって | 永田靖 |
第一次世界大戦期ベルリン・ドイツ劇場のレパートリーにみる民衆劇 −ライムント喜劇『ラッペルコップ』演出− | 大林のり子 |
二つの『七つの大罪』 −バランシンとバウシュが二人のアンナに見たもの− | 古後奈緒子 |
■論文 | |
「センチメンタリズム」から「朗らか」へ −堀正旗『アルト・ハイデルベルク』受容と宝塚− | 松本俊樹 |
劇構造の効果と王の二つの身体 −野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』『TABOO』論 | 黄資絜 |
■目録 | |
演劇学研究室蔵『森本薫関係資料』 | 中尾薫 |
■観劇実習レポート |
■論文 | |
ふたり芝居の詩学 序説 | 平川大作 |
ジャワ王家舞踊団の海外公演 | 冨岡三智 |
思想教育の芸術鑑賞に及ぼす影響について −戦前の女学校向け人形浄瑠璃公演を中心に− | 多田英俊 |
「前近代」と「近代」を巡る戦後俳優教育の矛盾と発展 | 枡井智英 |
日本における「不条理劇」受容の一断面 −冥の会『ゴドーを待ちながら』をめぐって− | 中川登美子 |
■観劇実習レポート |
■論文 | |
「伝統」の舞踊化 −雲門舞集七〇年代作品『白蛇傳』『薪傳』を中心に− | 永田靖 |
日露戦争三十周年と芸能 −その実態と背景意図− | 多田英俊 |
劇的複合空間の実践 −竹内健による演劇活動をめぐって− | 中川登美子 |
■エッセイ | |
近代能楽集 「卒塔婆小町」における詩人の死 | 中尾薫 |
■観劇実習レポート |
■論文 | |
ゲーテの『タウリス島のイフィゲーニエ』 | 市川明 |
京王閣の少女歌劇 | 澤井万七美 |
明治期の映画取り締まり −小浜松次郎『警察行政要義』の記述から− | 横田洋 |
蜷川幸雄演出『十二夜』(一九九八)における 「ことば」、「妙技」、「大団円」 −オール・メイル・シリーズへの布石 | 菊池あずさ |
飯沢匡の政治風刺喜劇『多すぎた札束』における 「声」の役割について | 金裕彬 |
■観劇実習レポート |
■論文 | |
《姨捨》作者考再検−世阿弥の老女能の能作史をめぐって | 尾本頼彦 |
『モン・パリ』における岸田辰彌の試みと演劇環境の近代化(一) | 垣沼絢子 |
伝統芸能と共同体意識 −日系ブラジル移民が伝えた能楽の活動を中心に− | 関屋弥生 |
明治三〇年代の「対話体教材」に見る演劇と教育の関係 | 矢野郁 |
三浦基の上演におけるチェーホフ戯曲のいくつかの特徴 | イリーナ・カスティリアンチャンカ |
■観劇実習レポート |
合わせかがみの二本立て(ダブルビル) | 三原文 |
90年の鴻上と野田 | 高原豊明 |
ベジャールの神話的世界 −『ピラミッド』− | 澤井万七美 |
「古典」発見の時代 | 山崎正和 |
褒めてはいけない能 | 天野文雄 |
當る未歳顔見世興行見物記 | 林公子 |
治らないエスセティック・サイコシス | 山下純照 |
空振りに終わった『鉄拳』 | 前西和成 |
ブルック演出『あらし』を振り返って | 山下純照 |
ギリシア悲劇の現代性 −太陽劇団の『アガメムノン』− | 北野雅弘 |
「正調タカラヅカ」考 | 山本陽子 |
現代見世物考 −二代目天功の凱旋公演− | 三原文 |
復曲《鵜羽》の演出意図と実際 | 小林英一 |
歌舞伎の様式ということ | 権藤芳一 |
同位性のアメリカ観 | 奥村英之 |
もうちょっとで『おいしい結婚』 | 上倉庸敬 |
ピーター・ブルックの演技教室 | 山崎正和 |
演技のスタイルについて | 木村健治 |
MORE THAN KIN, BUT... −古代劇場でのギリシア劇− | 北野雅弘 |
チャイコフスキーの〈エフゲニ・オネーギン〉 | 横原千史 |
一時間三十五分の《井筒》 | 天野文雄 |
祝襲名 四代目林家染丸 | 東精一 |
独断評釈 昨今関西歌舞伎 (いいっぱなしちかごろかみがたかぶきのゆくえ) |
林公子 |
優しさに包まれた「ゴースト」物の映画 | 深見有紀子 |
それは私の羽根飾(こゝろいき) −ドパルデューの『シラノ』− | 三原文 |
獅子を飼う −利休と秀吉− | 上倉庸敬 |
マルセ太郎の「泥の河」 | 長山現 |
秘密はないのに謎がある | 中溝孝子 |
物語へのまなざし | 澤井万七美 |
地域寄席の存在価値 | 中川桂 |
文楽劇場七月公演所感 | 時松孝文 |
ヴィム・ヴェンダースの俳諧 −『夢の涯てまでも』 | 山下純照 |
うみ・そら・さんごのいいつたえ | 緒方興紀 |
ブロードウェイ雑感 | 山崎正和 |
『コレクター』 −こんな劇が見たかった− | 河野良幸 |
戯曲再発見の演技 −演出も意欲的だった幸四郎主演『リア王』− | 山下純照 |
文楽劇評のあり方について −一月公演の場合− | 権藤芳一 |
残せるか、シテ方「大蔵流」 −仙台藩の遺風を伝える薪能− | 小林英一 |
四天王寺の経供養を見て −舞楽装束の色彩感覚− | 涌井美夏 |
二十一世紀歌舞伎組公演 −『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』− | 西村文 |
市川猿之助のオペラ演出 −バイエルン国立歌劇場の来日公演を観て− | 岡田暁生 |
映画97歳の変身 | 平川大作 |
ボトー・シュトラウス −『シュルスコール』、ミュンヘン− | 近藤公一 |
寒々とした壮麗 −愛知県芸術劇場の『オイディプス王』− | 北野雅弘 |
いただけない関西風味 | 中溝孝子 |
美しき誤解の能 −友枝昭世《景清》− | 天野文雄 |
再論関西歌舞伎 (またここにきょうおおざかのしばいばなし) | 林公子 |
「浄るりシアター」柿落し | 中川桂 |
『水の旅人・侍KIDS』 −大林映画として− | 東田元 |
異常心理との自己同一 | 前田茂 |
「外」の世界に触れた演劇 −読売演劇大賞雑感− | 山崎正和 |
アメリカの地方演劇 −ニューオリンズの場合− | 三原文 |
『トランス』 −プロセニアムを超えてそれでも彼が伝えたいのは...... | 中司淳子 |
「シテ」中心の古演出『昭君』 −復活されなかった部分− | 小林英一 |
文楽初春公演 | 澤井万七美 |
「平成の和事」考 | 岩渕菜緒子 |
『ゴジラ』40周年に思う | 橋本典子 |
『月はどっちに出ている』が浮遊するところ | 平川大作 |
日本の風土に根付く西洋文化とは? −日本版《レ・ミゼラブル》の公演をめぐって− | 渡辺裕 |
『仮名手本ハムレット』という仕掛け | 林公子 |
メタシアターと演技 −NOISE公演『朝、冷たい水で』− | 河野良幸 |
ディアーフレンズ −キャラメルボックスからの手紙− | 須川菜生 |
演じられなかった演技論 −東京グローブ座の『お気に召すまま』− | 平川大作 |
能は「物語」か −京・大阪の二公演から− | 天野文雄 |
観客に求めるもの観客が求めるもの | 伊吹美保子 |
『荒野の決闘』と『ワイアット・アープ』 | 吉冨賢介 |
ふるさときゃらばん・ミュージカルの問題点 | 大笹吉雄 |
“家庭”への鎮魂歌 −アメリカ地方大学の演劇− | 堤春恵 |
『オレアナ』はセクハラ劇か? | 山下純照 |
「四季」初体験にて思う | 原富貴子 |
東京落語移入の動き −雀三郎と南光の落語会から− | 中川桂 |
今は春べの難波津夕映え −能『弱法師』における感覚世界− | 宮本圭造 |
「切りとられた」映画 | 古川範子 |
変貌・「忠臣蔵」 | 澤井万七美 |
[研究篇] | |
『凍蝶』 −「美しい」生きざまを超えて− | 河野良幸 |
『世阿彌』における”観客”試論 −観衆の不在− | 堤春恵 |
人は後世に何を残すのか −『野望と夏草』の現代性− | 鳥居千栄子 |
愛することの逆説 −『おう エロイーズ!』の読みひとつ− | 上倉庸敬 |
『船は帆船よ』の「不在」 | 柏木隆雄 |
見えない船のつくり方 −『實朝出帆』− | 平川大作 |
『木像磔刑』から『獅子を飼う』へ −二人の主人公は可能か− | 三原文 |
『かなりやの家』をめぐって | 大輪一博 |
現代日本の詩劇『オイディプス昇天』 | 木曽明子 |
『ローマを見た』に見られるもの −二つの問題点− | 木村健治 |
[随想篇] | |
うらみをこめて振返れ | 喜志哲雄 |
『世阿彌』のころ | 石澤秀二 |
感謝 | 岩波剛 |
[資料編] | |
著作集非収録戯曲『鬼』〔一幕〕 | |
山崎戯曲上演記録 | 山下純照編 |
'95年のニューヨークの劇場から | 霜康司 |
ノエル・カワード『渦巻き』を見て | 福村久美子 |
山里に舞う神楽能 −佐々木隆の『鐘巻』− | 山路興造 |
狂言の東西 −第七回「東西狂言会」異聞− | 天野文雄 |
創られる存在 −子歳の顔見世興行から− | 林公子 |
「めでたさ」への思い −この初春の文楽に− | 澤井万七美 |
興奮と快楽のデジャヴ映画「デスペラード」 | 池田葉子 |
映像のイノセンス −「リスボン物語」を見た− | 木下耕介 |
パブから観劇 | 細井雄介 |
機械仕掛けのチェーホフのための未完成の『ピアノ』 | 永田靖 |
女声問題 −芝居屋坂道ストア『マイナス100℃の夏』− | 平川大作 |
劇場の空気、舞台との一体感 −関西大衆演劇見物記− | 田代宗雄 |
失速する天女 | 小林英一 |
ざこば率いる勉強会 | 中川桂 |
失われた眼を求めて −『ユリシーズの瞳』を見て− | 米田牧子 |
「演出」された写真 −シンディー・シャーマンの写真をめぐって− | 神林恒道 |
スエーデン演劇旅行雑感 | 山崎正和 |
湿度のある芝居 −『ともだちが来た』 | 井上智香子 |
苦闘する「正しさ」 −世阿弥本《弱法師》の課題− | 天野文雄 |
盧生という個性 −味方健の能「邯鄲」− | 宮本圭造 |
新しい顔たち | 澤井万七美 |
激動の歴史を直視する映画 −『マイケル・コリンズ』を観て− | 武部好伸 |
『ファーゴ』、ジャンルの壁を越えた〔クライム・ストーリー〕 | 伯井玲子 |
ドラマと映像 −ケネス・ブラナーの新作二本を見て− | 石田久 |
チェーホフまたチェーホフ −国際チェーホフ会議報告 | 永田靖 |
瞬間の連続 | 上別府勲 |
昼間に見る悪夢 | 大林のり子 |
文楽「義経千本桜」初段など | 内山美樹子 |
現代版「音曲にてはたらく能」 | 藤田隆則 |
『天鼓』の魅力 −粟谷菊生氏の『天鼓』を見て− | 岡垣里美 |
答えをだした作品『もののけ姫』 | 家ノ上さくら |
現代への映像翻訳 −90年代の『ロミオ&ジュリエット』− | 岩橋大輔 |
[鼎談] | |
「古典の上演」をめぐって | 山崎正和・天野文雄・永田靖 |
[随想] | |
古典の上演 | 山内登美雄 |
ブレヒト生誕100年 | 市川明 |
「丸本歌舞伎の演出」断想 | 権藤芳一 |
[劇評] | |
NINAGAWAマクベスの赤 | 大林のり子 |
「古典の上演」における時空の演出 −『リア王』を観て− | 田中真輝 |
古典の再生 −昨年下半期の落語と講談から− | 中川 桂 |
現代劇としての能 | 宮本圭造 |
映画と古典 | 平川大作 |
『ザ・トート・ファミリー』再演と劇団文芸座のことなど | 三原文 |
光と影が彩る蜘蛛女のキス | 名和由理 |
蜷川の寺山『身毒丸』を観て | 稲葉伸之介 |
「原像」へ向う力 −能を能たらしめているもの− | 天野文雄 |
非日常の感覚 −文楽南座公演『忠臣蔵』− | 團夕紀子 |
京都の市民能《砧》 | 中谷友美 |
九十年代より愛を込めて −ジェイムズ・ボンドに捧げるスパイ映画『オースティン・パワーズ』− | 大塚美左恵 |
すでに失われた子供たちについて −『スイート・ヒアアフター』− | 木下耕介 |
表わし演じるものの行方 −マレーシア奥地の熱帯雨林にて− | 山口修 |
モスクワのイポンカ、あるいは真摯さの勝利 | 永田靖 |
深津篤史の戯曲と演出 | 正木喜勝 |
陰をのみこむ光のバレエ −キーロフ・バレエ団『眠れる森の美女』公演より− | 伊藤友子 |
「初心者のための能」を観る | 伊吹美保子 |
恋と女と結婚と −九九年初春大歌舞伎をみて− | 家ノ上さくら |
「隅田川続俤」への期待 | 林公子 |
恋の味わい −エリック・ロメールの映画より− | 佐藤周子 |
子役の領分 −『小さなエイヨルフ』− | 神山彰 |
イメージの氾濫から記憶の反乱へ | 大林のり子 |
『夏の砂の上』、あるいは日常の脆さ | 川島勇樹 |
泰西絵葉書紀行 | 平川大作 |
変容する古典劇 −現代における《山姥》受容− | 天野文雄 |
蝋燭能『維盛』 −受け継がれる思い− | 小川佳世子 |
高倉健の『鉄道員』 | 新谷洋介 |
「個人的」な映像の進化 −『スター・ウォーズエピソード1 ファントム・メナス』を観て− | 小田研史 |
ニューヨークの演劇散歩 | 永田彰三 |
ク・ナウカの『王女メディア』 | 山下純照 |
観客重視のパフォーマンス | 池田優子 |
大都会の誘惑、あるいはニューヨークのウクライナ人 | 永田靖 |
文楽からの「素敵なプレゼント」 | 澤井万七美 |
二つの野外歌舞伎 | 藤原知永子 |
現代の観客と歌舞伎 −「芝居」から「演劇の一ジャンル」へ− | 佐藤貴幸 |
『黒猫白猫』のコントラスト | 建名真人 |
■巻頭インタビュー | |
演劇の二十世紀を振り返って | 山崎正和 (聞き手)平川大作 |
■座談会 | |
座談1:能・狂言の二十世紀と二十一世紀 | 羽田昶 松岡心平 天野文雄 |
座談2:二十世紀の歌舞伎を振り返る | 権藤芳一 森西真弓 林公子 |
座談3:二十一世紀の演劇に向けて | 菊川徳之助 出口逸平 大林のり子 永田靖 |
■ 『まくあい』(創刊号〜第19号)総目録 |
■ Prologue | |
最近の観能体験から | 天野文雄 |
■ Critique | |
上村吉弥の三つの舞台 | 荻田清 |
高校演劇を見る | 永田靖 |
定型に込められる演技の力を見る −復曲能『長柄の橋』から− | 藤田隆則 |
ジーンズをはいたモーツァルトの挑戦 −ミヒャエル・クンツェの場合− | 田中みどり |
北野武が描く愛の形 −『Dolls』を見て− | 藤元陽 |
作業場の『令嬢ジュリー』 −ベルリン・ドイツ劇場の戦略− | 大林のり子 |
■ Stage Reviews | |
「全体」と「個」から見た演劇 | 村山翔大 |
姨捨の世界 −舞台に差し込む月光− | 大道順子 |
「変わらない」主人公を見て観客が「変わる」 | 金正男 |
■ Prologue | |
ストライキ、あるいは夢の演劇 | 永田靖 |
■ Critique | |
能が能として成り立つとき −TTR能プロジェクトの「花形能舞台」公演のことなど− | 天野文雄 |
回想にとどまってはいけない「上方風流まつり」 | 中尾薫 |
『エレファント・バニッシュ』による サイモン・マクバーニーからのメッセージ | 正木喜勝 |
映画『スパイ・ゾルゲ』のドラマトゥルギー | 横田洋 |
パーティーが終わった後で −『めぐりあう時間たち』の見事な翻案− | 木下耕介 |
■ Stage Reviews | |
歌舞伎とリアリズム | 松尾菜美 |
顔見世興行における『達陀』上演の意味 | 藤元陽 |
観客の声からの演目づくり −伝統と新しさの間での模索− | 田中みどり |