大阪大学大学院文学研究科におけるアジア研究

森安孝夫(大阪大学大学院文学研究科教授)

 大阪大学文学部(大学院大学化後は文学研究科)は、江戸時代の大坂商人によって経営された学問所「懐徳堂」の伝統を受け継ぐという気概にあふれているが、明治以来の旧七帝国大学時代には関係学部は存在せず、実際には一九四八年に設置された法文学部より始まった。本誌第53号に加地伸行教授が代表となって「大阪大学文学部──東洋学の現況──」という報告をされた時、中国哲学・インド哲学・東洋史学の三つを対象とし、中国文学講座のないことを嘆かれていたが、幸い今回は、四つの研究室の簡略な歴史と現況について、それぞれの責任者から報告することができる。ただし、前回同様、文学研究科内の日本史学・日本学・日本語学については、省略に従う。

 さらに、大阪大学におけるアジア研究ということになれば、伝統的にアジア諸言語に強かった旧大阪外国語大学との統合により、新設の外国語学部(大学院大学なので実際の所属は世界言語研究センターないし言語文化研究科言語社会専攻など)をはじめとする諸部局に多種多様の関係教員が所属することとなった。その全容を紹介するとなると、所属部局別にただ人名と専門分野を列挙するだけに終わってしまうので、これまた今回は割愛する。

東洋史学研究室

 阪大東洋史の創立後約三〇年間は一講座であったので、教授は一人であった。初代が東西交渉史・東南アジア史の桑田六郎、二代目が秦漢史の守屋美都雄、三代目が内陸アジア史の山田信夫と、いずれも錚々たる顔ぶれである。そして一九七九年に念願の二講座化が実現した時点で、宋代史の斯波義信が助教授から昇格し、五年間だけ二人の教授が並び立った。しかし、新たに助教授は選任されず、二講座になったものの実態は一講座と同じであった。ただ二講座化以前から教養部に長く在籍した隋唐史の布目潮渢が兼任として院生の指導を補佐した。

 一九八三年に山田教授が退任し、翌年森安(中央アジア史)が助教授として赴任した時、斯波教授が東洋史講座の担当で森安がアジア諸民族史講座を担当、そして教養部の谷口規矩雄助教授(明代史)を含めて三名だけであった。それから数年間は嵐のような人事異動があり、明清史の濱島敦俊教授と片山剛助教授、そして私の三人が揃い、現在まで続く合同演習・図書インスペクション・基礎漢文ゼミ・3分野別英語ゼミなどの態勢が整うのは、一九九〇年代に入ってからである。特筆すべきことは、研究室が文字通り一体となって教育に取り組んでいることであり、研究のタコ壺化を避け、学部生と院生が日常的に交流するようなシステムを構築したことである。それと共に学生・院生の数も増加して研究室は活気づき、教養部からの分属と大講座化によって今や教員も教授四人、准教授一人、助教一人となった。こうして大学院大学化も乗り切り、外部評価でも高い評価をいただくまでに成長した。阪大東洋史の歴史の約半分を体験した私としては、真に隔世の感を禁じ得ない。

 教員全員が文献史料と現地調査をこなすのも特徴であるが、世界的研究水準を維持しながら、積極的に世界史教育に取り組んでいる点は、日本随一と自負している。今や研究だけで歴史学が生き延びられる時代ではなく、高校ないし大学一・二年次生に対する世界史教育に責任を持たなければ、社会的存在価値は乏しい。この点では、桃木至朗教授(東南アジア史・アジア海域史)と隣接の西洋史研究室の秋田茂教授(グローバルヒストリー・世界システム論)が中心となり、高大連携の大阪大学歴史教育研究会やアジア世界史学会をリードしている点を強調しておきたい。さらに研究面では、東洋史学の中核をなしてきた中国史に斯波・濱島両教授の後を受けて、片山剛教授、青木敦准教授(宋代史)がしっかりとした基盤を作り上げた。そして今や少数派となった前近代中央アジア史の牙城として、私と共に荒川正晴教授(隋唐代中央アジア史・敦煌吐魯番学)が後進を養成している。さらに、文学研究科の共生文明論コースに所属する堤一昭准教授(モンゴル時代史)、世界言語研究センター(外国語学部)の大澤孝教授(トルコ語学・突厥史)にも、研究・教育両面で協力を仰いでいる。(森安孝夫)

初出:『東方学会報』No.97「研究室便り」(2009年秋執筆)