《 訂 正 》
「全国高等学校世界史教員研修会」の報告中、杉山清彦講師の質問回答部分に、編集上の手違いのため、意味の通りにくい箇所などがあります。
つきましては、杉山講師の回答を、以下のように訂正させていただきます。
- ●277頁:「君主号」回答
- 基本的に、ある。区別に当たっては、時代による違いと言語による違いに気をつけなくてはならない。例えば清の場合、満洲語ではhanと表記するので「ハン」でよいが、モンゴル語でなら「ハーン」となる。モンゴル帝国では唯一の君主は「大カアン」、その下の諸王は「カン」と呼ばれ、両者の間には截然とした違いがあった。しかしやがて称号がインフレ化し、清朝時代のモンゴルは誰でも「ハーン」を名乗るようになっている。「カガン」「カアン」「カーン」「ハーン」、および「カン」「ハン」は、それぞれ日本語でカタカナ表記する際の違いにすぎない。
- ●285頁:「価格革命」回答
- 正確には答えにくいが、注意しなくてはならない点がいくつかある。第一は、たしかに銀は大量に中国へ流入していたが、それが中国社会全体にどれほどのインパクトを与える量であったかは、慎重に検討しなくてはならない。第二の注意点は、中国では銀は高額決済用で秤量、銅銭は小額で鋳造貨幣、という二重の通貨体系があったこと、第三は国内の地域差・商習慣など多様な相違が存したこと。これらを考慮に入れなくてはならない。第四に、漢人社会は均分相続が原則であるため家産の蓄積が一般に困難であり、また科挙官僚の家でもその資格保持者がいなくなると(死去など)附随していた特権が無くなり没落するなど、ヨーロッパ社会とは異なる「果てしなき競争社会」とも呼ぶべき社会構造が存した。銀流入が価格革命や資本蓄積に結びつかなかった背景には、これらの諸条件を考える必要がある。
- ●286頁:「明に入った銀」回答
- 江南はじめ経済の中心地帯に流入した大量の海外銀は、税銀の形で吸い上げられて北辺の軍事地帯に投入され、明の軍人・官僚・大商人などにのみ還流するか、貿易によって外部勢力へ流出したとみられる。そのため、民間とくに農村を潤すことはなかったといわれている。
- ●286頁:「富の流れ」回答
- 富といっても、北辺への銀の流れは辺境防衛のための軍事費の投下によるものであり、いわゆる経済活動の中心とは異なるので矛盾ではない。むしろ北辺へ送られる銀の流入口である江南はじめ東南沿海部を中心というべきである。
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