博士学位論文要旨

クビライとパクパ──宗教教団を通じたモンゴルの中国支配の実態解明に向けて──


中村 淳


『大阪大学大学院文学研究科紀要』38, 1998.3, pp. 13-14.

※一部の漢数字をアラビア数字表記に改め,適宜改行を追加しています




 本稿は、クビライが、中国をその版図の一部とする大元ウルスという国家を築いていく際、潜邸時代より関わりをもったチベット仏教サキャ派の高僧パクパ、そして、チベット仏教をはじめとする諸宗教、ないし宗教教団にどのような役割を求め、また、それらを利用しようとしたのかを解明しようとするものである。

 第1部第1章では、中国の河南省に立つ少林寺聖旨碑に刻まれた13世紀のウイグル文字モンゴル文と漢文との合璧碑文の研究を行ない、クビライが、パクパに「国字」としてパクパ文字の作製を命じた1269年に前後して、文書の書式を統一し、文書行政を一層推し進めようとしていたことを明らかにした。第2章では、モンケ時代(1251〜59年)に、前後3回にわたって行なわれた史上名高い「道仏論争」について論じる。まず、新たに見出した関連史料により、この時期、首都カラコルムでモンケ主催の宗教論争が、道教、仏教のみならず、キリスト教、イスラム教をも含む諸宗教の間で、複数回にわたって行なわれた事実を浮き彫りにした。一方、皇弟クビライによって開かれた第3回道仏論争は、中国方面の本格支配に臨むクビライが、行政面から宗教教団を排除しようという施政方針を示す一大セレモニーとして行なわれたものであった。そして、クビライがこの論争にチベット仏教のパクパを主要な論者として参加させている事実の持つ重要性を指摘した。第3章では、元代仏教史家の盲点の一つであった在来の華北仏教とチベット仏教との関係の一端を明らかにすべく、まず、元初の曹洞宗教団が、華北仏教の最大勢力であったことを示した。ついで、パクパがクビライによって国師(1260年)、帝師(1270年)に任命される過程において、曹洞宗の上に位置づけられた事実を具体的に示した。クビライは、並行して各宗教教派の教団化を推し進めており、こうした体制を築くことによって、パクパを頂点とする仏教の宗教的一元支配、そして、クビライを頂点としたその政治的な一元支配を目論だのである。

 第2部第1章では、これまで全く不明とされてきたパクパ以降の歴代帝師の活動拠点に関する考察を行なった。その結果、まず、帝師が皇帝に従い、大元ウルスの首都大都と上都の間を季節移動していた姿を浮かび上がらせ、つぎに、彼らが大都ではチベット語で花園大寺と呼ばれた大護国仁王寺を居所としていたことを明らかにした。また、同寺がパクパの帝師就任の年に、クビライによって建立されたチベット式寺院であったことを示した。第2章では、大都の勅建寺院とチベット仏教との関わりを探る。大都には、大護国仁王寺を初例として、皇帝の勅命によって次々にチベット仏教様式の仏教寺院が建立された。これらの寺院各々には寺院・荘園管理用の総管府が置かれたが、このうち大護国仁王寺の総管府のみが、唯一、パクパ以来、歴代帝師が統括した宣政院の管轄下にあったということを明らかにした。さらに、帝師をとりまくチベット仏教僧と同寺の総管府の役人が、大護国仁王寺の寺産管理に携わっていた可能性を示した。

 ごく最近、首都大都の創建(1267年)とクビライの王権像をパクパのチベット仏教思想のもとに演出する作業が、ほぼ同時期に行なわれていたことが明らかにされた。本稿で明らかにしてきたように、これと全く時を同じくして、華北仏教界の構造の確立、大護国仁王寺の建立、パクパ文字の作製と文書行政の推進、パクパの国師・帝師任命などは起こっている。そして1271年、クビライは、国号を「大元大モンゴル・ウルス」とする。おそらく、これらすべては互いに連動し、クビライが大元ウルスという世界帝国を構築していく中で、企図されたものであったに違いない。


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