博士学位論文要旨:『大阪大学 大学院文学研究科紀要』49、2009年、pp.220-221掲載

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清末垂簾聴政下における清朝中央の政策決定過程

大 坪 慶 之


 本論文は、垂簾聴政期(一八六一〜一九〇八年)における清朝中央の政策決定過程を、当時の官僚等の日記・書簡類を利用して可能な限り復元することで、公文書からは窺えない政策決定に至る舞台裏の動き(原案を構想したのは誰か、政策決定までの過程で如何なる駆け引きや根回しが行われたか、また誰がそれを主導したか等々)を明らかにし、そこから当該期の清朝中央における政策決定の構造を解明しようとするものである。 序章では、垂簾聴政期において、臣下が西太后に対して意見を具申し、政策決定に参与する手段として、さしあたり制度的には@召見、A上奏文の提出、B廷議後の上奏文提出、の三つが想定されることを指摘した。その上で第一〜三章にて、当該期の三件の事例に即して、政策決定の舞台裏を考察した。

 第一章では、光緒帝の親政開始をめぐる政策が決定されるまでの過程(一八八六年)を検討した。本事例では、政策の決定権を握る西太后の意思と臣下のそれとの構図は、「〈西太后一人〉対〈全ての王公・官僚〉」だった。この構図の下で臣下側は、西太后に対して@召見、A上奏文提出、B廷議後の上奏文提出という三つの手段に加え、公式の場におけるものではないが、C宮中での光緒帝から西太后への働きかけ、を用いていた。そして臣下側は、@召見の場で臣下の意見に耳を傾けようとしない西太后に対し、光緒帝の生父醇親王奕?の主導のもと戦略を立て、主にA上奏文提出を利用しつつ複数の手段を組み合わせることで、彼女の譲歩を引き出すことに成功していた。

 第二章では、一八八四年に清仏戦争を回避すべく行われた対仏交渉(李・フルニエ交渉)に関する政策決定過程を分析した。本事例における意見相違の構図は、「〈西太后〉対〈臣下内の醇親王等和平交渉派〉」と臣下内における「〈和平交渉派〉対〈強硬論の清議派〉」という二つが存在した。ここでの政策の最終決定は、表向きにはB廷議後の上奏文提出をもとに行われている。しかし舞台裏の動きから、この廷議は醇親王が清議派の不満を和らげるために開いたものであること、醇親王は、廷議に先立ち行われた@召見の場で、西太后との間に譲歩を成立させており、廷議開催時点で政策の帰趨は決していたこと、等が言える。

 第三章では、一八七九年に起こった皇位継承問題を取り上げ、舞台裏の考察から次の四点を指摘した。それは第一に、本事例は意見相違の明瞭な構図が存在しないこと、第二に、臣下側は消極的な姿勢を貫き、積極的に最終決定に導こうとする者は見当たらないこと、第三に、政策はB廷議後の上奏文提出によって決定されるが、事前に行われた@召見により帰趨は既に決まっていたこと、第四に、廷議は、臣下が西太后に意見を具申するためでなく、西太后が臣下の総意を得るために開催されていたこと、である。

 第四章では、垂簾聴政下における政策決定に関する制度規定を検討し、これを第一〜三章で取り上げた諸事例と対照した。そして、これら事例の間には、意見相違の構図や政策決定過程で臣下が取る手段は異なるが、それらはいずれも制度で規定された枠組みの中における相違として理解することが可能であると論じた。

 以上の考察から、垂簾聴政下では、@召見を主たる場として政策が決定され、@召見が機能しない場合には、臣下側が西太后に大きく譲歩しつつも、A上奏文の提出、B廷議後の上奏文提出等を利用して、西太后に一定程度の譲歩を求めていたと結論づけられる。そして、皇帝の一族でない皇太后が実質上トップにいる垂簾聴政は、本来的には臣下(特に皇帝の一族たる親王)が政策決定に関与できる仕組みを備えた制度であったが、現実には西太后が譲歩する幅が次第に狭くなり、彼女の実権が次第に増大していったのである。