博士学位論文要旨:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第49巻,2009年3月31日,pp.222-223.

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織物に見るシルクロードの文化交流

トゥルファン出土染織資料―錦綾を中心に

坂 本 和 子


 人類文化史上、6000年に近い歴史をもつ絹織物に着目すると、そこに凝縮される技術の発展とデザインの変化を辿ることによって、ユーラシア史上における壮大な文化交流の一端が明らかとなる。絹織物のうち、とりわけ中国の経錦(たてにしき)は漢代に盛んに西方へ流入していた。そして、紀元後2世紀前後になると毛織物文化圏でその経錦の技術の影響を受けた緯錦(よこにしき)が生み出された。まずエジプトで羊毛の緯錦が織られたが、ほどなく絹を用いた緯錦が織り出され、今度は逆にその緯錦技法が東へ伝わっていった。そして早くも4世紀には絹の綾組織緯錦がペルシアまで、平組織緯錦が中央アジアのトゥルファンにまで到達していた。本論文が考察の中心にすえるのは、このトゥルファンから出土した多様な絹織物の実物である。

 トゥルファンは古代の毛織物文化圏の東端に位置し、東の絹織物文化圏に接する交通の要衝であったので、多くの織物が行き交い、当地の人々のもとに留まった多くの絹織物が遺跡から出土した。それらは4〜8世紀のグループと9〜14世紀のグループに大別される。

 このうち古い方の代表がカラホージャ・アスターナ墓群出土染織資料であるが、なかでも文化交流を跡づける上で最も注目されるのが、連珠円内に動物が単独で表される文様の錦(連珠円内単独文錦)と連珠円内に動物が対称に表される文様の錦(連珠円内対称文錦)である。従来の研究では、前者において生産地に関して議論がある。その見解の相違は、緯錦(毛織物文化圏での生産)と見るか経錦(絹織物文化圏での生産)と見るかに起因し、具体的にはペルシア・ソグド地域(イラン文化圏)生産説とトゥルファン・中国(中国文化圏)生産説に集約される。筆者は、考察の際、比較の対象として、欧米各地に散在するペルシア錦・ソグド錦とみなされる資料にも目を向け、実物に即した技術面と美術史を含む歴史学的背景から、連珠円内単独文錦はイラン文化圏で生産された綾組織緯錦であると結論付けた。一方、後者については、中国本土の蜀(四川)の生産であるとする説を支持した。

 次に9〜14世紀のグループに属する資料として、大谷探検隊収集の三日月文錦と、ドイツ探検隊収集の棉ベルベット並びに花唐草文金襴を取り上げた。三日月文錦については、西方の技術の特徴が見られ、織り込まれた文字と文様から窺えるイスラム文化との密接な関係を指摘し、9〜10世紀にイスラム圏東辺で製作されトゥルファンにもたらされたと結論した。棉ベルベットについては、それがインド由来であることを史料から明かにし、トゥルファンで生産可能となる過程を考察した。花唐草文金襴については、これがランパ組織(最も複雑な織り方)で織られ、その金糸の金箔の下地は中国産金襴の紙と違って腸膜であることを突き止め、それが西アジアの「ナシチ」織の技術的特徴を持つものであると断定した。その背景としては、チンギス汗西征時の1221年にヘラートのナシチ織工がトゥルファン北方のビシュバリクに連行された史実と、さらに13世紀後半に元朝の首都大都(北京)にビシュバリクから織工を移して織物局が置かれ、西方の「ナシチ」と中国本来の文様とが合体した「納失失」(ナシシ)が作られた可能性が指摘される。

 最後に、絹織物全体の技術と文様の発展史について総覧した。そのうち錦に関しては、漢代までに平組織経錦が完成しており、その後に平組織緯錦・綾組織緯錦・綾組織経錦が出現し、更に9世紀以降、両面1/2綾組織緯錦・両面1/4繻子組織緯錦・地絡み・別絡み金襴(ランパ組織)が出現するという織組織の技術的交流と発展が明らかになった。一方、主にトゥルファン出土品に基づいて文様の発展を辿れば、漢文様の名残からペルシア文様の影響を受けた連珠円文へ、さらに花文へと移行し、それらは次第に複雑で大文様となり、豪華絢爛な織物文様が出現した。しかし、771年の華美な文様を禁じる勅令によって、幅いっぱいの円文や動物文は姿を消した。その代わりに鳥や蝶などの自然の風物や牡丹などが表されるようになっていき、北宋から南宋、遼から金朝にかけてこの自然を愛好する流れは続いたが、龍や鳳凰は依然として愛好された。モンゴル帝国時代になると、西アジアで発達した「ナシチ」が中国に技術移転され、中国の文様を取り入れた新しくて豪華な「納失失」としてユーラシアの東西に流布した。

 述べてきたように絹織物は繰り返し交流を重ね発展してきたのである。