博士学位論文要旨:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第 49 巻, 2009 年 3 月 31 日, pp. 223-225.

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突厥可汗国の王権と展開

鈴 木 宏 節


 本論文は、突厥碑文や唐代墓誌を読解することで、第一可汗国(西暦五五二〜六三〇年。五八三年以後は東突厥と西突厥に分裂)、羈縻支配時代(六三〇〜六八二年頃)、第二可汗国(六八二頃〜七四四年)という歩みを見せた突厥可汗国の王権が、中央ユーラシア東部地域といかなる関係を持ちながら展開したかを解明しようとするものである。

 第一章「突厥第一可汗国の系譜問題」では、本人の出土墓誌を検討して阿史那思摩の系譜を探るとともに、第一可汗国の系譜を修正した。それによって、第一可汗国の後半期、初代ブミン可汗の複数の息子に由来する諸王家が分立していた状況を解明し、七世紀中葉、陰山山脈からオルドスにかけての地域に、阿史那思摩が率いる突厥集団をはじめとする遊牧に立脚する集団が散在していたことを確認した。

 第二章「突厥可汗国の構造と展開」では、先ず、漢文史料を中心とする用例の検討によって、「三十姓」が第二可汗国を、「十二姓」が第一可汗国〜東突厥と第二可汗国滅亡後の突厥を指すものと整理した。次に、トニュクク碑文の新拓本を精査して、古代トルコ語の Otuz Türük「三十姓突厥」という表現を発見したことを基礎に、「三十姓突厥」が第二可汗国の自称であり、それが「十二姓」=第一可汗国・東突厥、「十姓」=西突厥、「五姓」=バスミル、「三姓」=カルルクの総体であることを論証した。さらに、第二可汗国第三代・ビルゲ可汗の即位式における宣言文の冒頭を記録するキョル=テギン碑文・南面を再検討することによって、彼の即位式での呼びかけ対象が碑面に新たに復元された「三十姓突厥」と「九姓鉄勒」であったことを解明した。

 第三章「突厥可汗国の建国と王統観」では、キョル=テギン碑文の東面冒頭に記された歴史記述「第一可汗国史」を分析した結果、そのなかの建国譚が、ブミン可汗と弟のイシュテミ可汗ならびに息子たちの諸可汗といった可汗国初期の人間関係に対応していることが明らかとなった。そして、両可汗国が系譜においてほぼ断絶していたことを指摘すると同時に、両者の連続性が「ブミン正統原理」によって保証されていた点を示した。それは、第二可汗国の諸可汗が彼らの王統を創業者たるブミンに直結させ、新王権を正当化しようという意図のもとに作り上げられたものであった。

 第四章「トニュクク碑文の構成」では、第二可汗国の武人宰相トニュククを記念する碑文に記された一単語に着目し、その語義が「斥候」であること、さらにそれが碑文テキストに出現するのは、重要事件の直前であることを究明した。その重要事件とは、@第二可汗国の勃興期、モンゴル高原への九姓鉄勒遠征、A第二代・黙啜可汗の治世、天山地方への突騎施(西突厥の後裔集団)遠征である。トニュクク碑文は、これら二次の遠征によって支配下に包摂された三十姓突厥と九姓鉄勒の全体、すなわち当時の中央ユーラシア東部におけるトルコ系遊牧民集団の大部分に対して、突厥可汗の支配の淵源を知らしめる目的で作られたことを解明したのである。

 第五章「チョイル碑文考」では、「石人」という外形を持つチョイル碑文の最新テキストを作成し、これをイェニセイ碑文群の文例と照会しながら新たに墓誌銘としての解釈を提案した。

 終章では、以上の考察結果を踏まえて「突厥碑文」が出現した背景を考察した。第二可汗国の創業者クトゥルグ(エルテリシュ可汗)の後継者は、第一可汗国の建国以来百三十年の時を経た後に再び突厥という名のもとにまとめあげた諸集団に対して、時には突厥可汗国の王権の正統性を宣伝する歴史記述を用いて第一可汗国との連続性を強調し、時には可汗の即位宣言を、また時には王権を支える人物の英雄的物語を用いて、王権の求心力を維持するために突厥碑文を作成した。突厥碑文は、自己の王権を強化するための可視的な装置として、突厥可汗国の時間的推移と空間的推移によって変化する支配対象に、突厥可汗の支配の正統性を示す役割を期待されて誕生したものである、と結論付けた。