博士学位論文要旨


国家的物流としての漕運
──明代北京の現物米財政と畿輔経済──


田口宏二朗

『大阪大学大学院文学研究科紀要』40, 2004.3, pp. 354-356.




 本論文で具体的考察対象に設定したのは、「漕運」──南方より運河を通じて首都北京へ米穀(「漕糧」)を輸送する財政行為──である。以下、明朝国家による税糧収取─移転─支出を広義の物資循環過程と捉えつつ、米穀の供給を受ける首都北京及び周辺地域の側から照射する。

 第1章 国家的経費としての漕・白糧  漕運を通じ北京に移転されるこの収入部分は、概ね首都在住の軍事要員へ人件費として支出された。当然、当地の人員数増大に伴い支出年額は上昇。15世紀以降この収入部分が定額化され、収支は一時極めて悪化する。嘉靖帝の践祚(1521)を契機に、在京人員の大幅な削減が行われ、支出額は一気に低下。これに伴い、漕糧の収入形態は銀建てへと切り替えられ、現物財政規模自体も縮小する。北京の財政的な糧米需要は、現物─銀遣いという支払い手段の選択を方向付けていた。

 第2章 京・通二倉の機能  首都周辺に散在する備蓄倉群では、20万〜30万人にのぼる在京人員への糧米配給も行われた。彼らは所属機関ごと定められた期日に毎月当該倉に赴き、厳密なチェックを経て各人個別に糧米を受領していた。ここでは商業的過程は一切介在せず、国家が一元的に大規模な分配業務を執行していたのである。

 第3章 国家財政と再分配  在京官の俸禄・京衛軍士の月糧ともに、15世紀以降、月額1石という“平等な”原則を以て各支給対象に分配された。毎人消費量・世帯規模を基に試算すると、この支給額が人員の自家消費量にほぼ照応する点が確認できた。これは、漕運米の分配(直接的+間接的)が及ぶ範囲が国家機関成員世帯という狭い枠組みの裡に本来は限定され、余剰分が民間消費へ流出する契機は至って少なかったことを示唆する。

 第4章 需給構造の変容  南方地域からの漕糧供出を起点とする物資循環構造は、本来すぐれて自己完結的であった。一方、16世紀以降、この状況に若干の変化が見られる。在京人員に対する給与支払いが銀建てに切り替え(背景として当地の米穀供給量増大が想定できる)られるに伴い、財政的収放は必然的に当地の米穀需給構造に巻き込まれる。この過程で、各在京人員の受領した糧米が広範な民間消費需要へと流出する。いわば、国家の編成する物資循環がその外延を拡大、民間自生的な物流の裡に融解していったのである。

 第5章 明代畿輔の経済変動  元末以来、北京周辺地域(畿輔)の人口・耕地面積は大幅に減少。そこで大規模な入植政策が敢行され、これらの要素賦存に関わる変数は上昇傾向へ入る。特に、西部の太行山脈沿いに位置する真定府域の開発が比較的顕著に進行。一方、東部の河間府は相対的に活発な商品流通が行われた地域であった。北京―江南間の交通路に近接し、また人口圧力が稀薄なこの地域は、北京への主たる米穀移出元であった可能性は高い。ただしその市場構造は開放的であり、固定的な分業構造は決して見いだせない。

 補章 明末畿輔地域における水利開発事業について  最後に、北京周辺地域における再生産のあり方の一具体例を見てゆくために、明代後期、徐貞明なる人物により施行された当地の水田開発事業に焦点を当てた。彼の事業計画、現地在住の地主官僚による記述史料、及び河工技術に関する近年の研究成果等をつき合わせた結果、徐貞明の方法論自体が、決して当地の生産方式に適合的なものではなかった点が確認できた。

 旧来の研究では、国家の賦役「収奪」を、特定地域における実体的な経済構造との連関で捉える視点が稀薄であった。漕運という財政行為を、面としての首都空間の裡に定位した本論文は、かかる試みの一環を構成するものである。


Copyright@TAGUCHI, Kojiro