フッサールって誰?


まだ、工事中ですが、とりあえず・・・。(浜渦)


哲学の劇場」というサイト(吉田浩と八雲出の共同企画によるもの)のなかの「作家の肖像」というコーナーのなかに、「Edmund Husserl」のページが作られていますので、併せてそちらもご覧ください。

 エトムント・フッサールは、1859年4月8日、当時オーストリア帝国のモラヴィア地方東北部プロチョエフ(ドイツ語では、プロスニッツ)という町に、洋品店を営むユダヤ人の父の次男坊として生まれた。現在はチェコに属しているこのプロチョエフでは、その中心にある広場は「マサリク広場」と呼ばれ、その東にある少し小さい広場は「フッサール広場」と呼ばれている。前者は、旧チェコスロバキア建国の父であり、初代大統領となったマサリク、かつて同郷の先輩として若きフッサールにブレンターノの講義を聞くことを薦め、フッサールが哲学に転向するきっかけを作ったマサリクにちなんだものである。ユダヤ人街にあったフッサールの生家は、社会主義時代にユダヤ人街の町並みとともに取り壊されてしまったそうで、現在は唯一、「フッサール広場」の名前として故郷の町に痕跡を残している。

 ウィーン郊外に一年、プロチョエフに近い町オルミュッツでその残りのギムナジウムに通った後、ライプチッヒ大学に進学し、そこで二年間、数学、物理学、天文学、哲学を学んだが、数学に特に興味を感じ、ベルリン大学に移り、ヴァイヤーシュトラウスのもとで数学を学んだ。しかし、彼の薦めもあって、ウィーン大学に移って、翌年、変分法に関する論文を提出し、学位を取得した。更に、翌年、ベルリン大学に戻って、ヴァイヤーシュトラウスの助手になった。その後、兵役に服したり、ウィーンに戻ってブレンターノの哲学の講義を聞いたり、プロテスタントの洗礼を受けたりした後、哲学に転向していった。ブレンターノのもとで学んだが、彼の薦めでハレ大学のシュトゥンプフのもとで教授資格論文「数の概念について」を提出した後、ハレ大学の私講師となった。

 ハレでは、1891年、処女作『算術の哲学』を出版した。さらに、関心を算術から論理学へと広げて行き、1900年には、フッサール現象学の出発点となった『論理学研究』の第一巻、翌1901年には、同第二巻を出版した。そして、これが認められて、同年、ゲッティンゲン大学の員外教授に就任、1906年には、正教授に昇任した。この頃から、フッサールは現象学の問題圏へと入っていった。『論理学研究』は多くの共鳴者を得て、ゲッティンゲンに現象学派ができたばかりでなく、ミュンヘンからも賛同者がやってきた。1911年『ロゴス』誌の創刊号に掲載された論文「厳密な学としての哲学」も、同時代の哲学潮流と対決しながら現象学を説くものとして歓迎を受けた。1913年には、こうした現象学派の人々の活動の場として、フッサールが編集する『哲学および現象学研究年報』が創刊され、その創刊号にフッサールの『純粋現象学と現象学的哲学のための構想』第一巻(すなわち、『イデーン1』)が掲載された。

 翌年、第一次世界大戦が始まり、息子の一人と多くの親しい人たちを失うが、その大戦のさなか、1916年にフッサールは、フライブルク大学正教授に迎えられた。フライブルクでは新しい生産的な時代を迎えたが、1928年に同大学を退官するまで、ついに一冊の著書も著わすことがなかった。しかし、この「沈黙の時代」は、フッサールにとって、非生産的な時代では決してなく、豊富で多彩な思索が行われた時期であった。その成果は、大学退官後に一気に吹き出ることになった。

 まずは、1928年退官直前に、ハイデガーの編集により1905年以来の講義草稿から『内的時間意識の現象学講義』が、『年報』第9巻に発表された。さらに翌1929年の『年報』第10巻にはこの頃一気に執筆された『形式的論理学と超越論的論理学』が掲載され、また、フッサールが執筆した「現象学」の項目を含む『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第17巻が刊行された。翌1930年の『年報』第11巻には、ギブソンによる『イデーン1』の英訳のために執筆された「『イデーン1』のための後書き」が掲載された。翌1931年には、1929年にフランス(パリ、ストラスブール)で行った講演に基づく『デカルト的省察』のフランス語版が出版された。同時に、ラントグレーベに編集を委ねていた「論理学の著作」の校正もしていたが、それはフッサールの死後、1938年にプラハで『経験と判断』として出版されるものだった。また、フィンクに編集を依頼していたベルナウ時間草稿の校正も行っていたが、これは現在もまだ刊行されていない。

 フッサールが編集する『年報』は、続々と現象学関係の業績を送り出して来たが、ハイデガーとシェーラーを筆頭に、少しずつ協力者たちが離れていき、1930年の第11巻を最後に、1933年の政治的状況はフッサールのドイツでの出版計画をすべて絶ってしまった。他方、1922年にイギリス・ロンドンで講演「現象学的方法および現象学的哲学」を行ったのを皮切りに、1928年のオランダ・アムステルダムおよびフローニンゲンでの講演、1929年のフランス・パリおよびストラスブールでの講演、1931年のドイツ・フランクフルト、ベルリン、ハレでの講演、1935年のプラハおよびウィーンでの講演と、国際的に活躍することとなった。そして、この最後の講演を契機に「新しい序論」の構想が生まれ、それが晩年にベルグラードで一部のみ出版されることになった『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』であった。

 プラハ講演の後、当時プラハにいたラントグレーベは、フッサールをプラハのドイツ系大学に迎えるための招聘状をもってやってきたが、フッサールはこの申し出を断った。「ドイツではとてもやっていけない、故郷へ帰ることはできないものか」と考えていたフッサールであったが、その故郷チェコスロバキアへの夢も消え、異国ドイツに骨を埋める覚悟であっただろう。1938年4月27日、フッサールは、晩年の22年間を過ごしたフライブルクにて生涯を閉じることになった。