第9回講義(June
24. 2003)
§7 クリプキの「信念のパズル」
参考文献:S.Kripke; ‘a Puzzle about Belief’, in Margalit,A. ed. “Meaning and Use, Dortrecht”, 1979. クリプキ「信念のパズル」信原幸弘『現代思想』1989.3
(引用にはこの邦訳を用いて、このページ数を記す。)
第3節 パズル (先週の続き)
*われわれは、この事態をどのように記述すればよいであろうか。
<第一の道:古い信念を捨てた?>
彼はロンドンが美しいとは信じていないというべきだろうか。
<第二の道:新しい信念を得ていない?>
彼があらたな信念を獲得したことを否定しようとする試みも、すべて同様の困難に見舞われる。
<第三の道:二つの信念をともに持たない?>
二つの信念を共に持っていないという考えも、困難を背負う。
<第四の道:矛盾した信念を持つ?>
われわれは、ピエールが矛盾した信念を抱いているといわなければならないことになる。彼に不足しているのは、論理的洞察力ではなく、情報である。従って彼に自己矛盾の罪を帰すことはできない。
「どの道をとっても、我々は明らかに誤りか、あるいはまったく矛盾したことを言うはめになるように思われる。」
*もちろん、「事の真相(what’s really going on)」について、矛盾することなく事態を正確に記述することはできる。「しかしこれはまったく元の問いに答えていない。ピエールは、ロンドンが美しいということを信じているのか、それとも信じていないのか。私はこの問いに対する満足のゆく答を一つも知らない。」
*もう一度いえば、パズルはこうである。
「ピエールは、ロンドンが美しいということを信じているのか、それとも信じていないのか。信念を帰すための我々の通常の基準をこの問いに適用すれば、パラドクスと矛盾が生じることは明らかである。」95
<名に結び付けれらる記述ないし性質の違いによって解決する試み>
*このパズルは、「名に結び付けられる記述ないし性質」の違いによって、生じたのだと思われるかもしれない。
しかし、「驚くべきことに、ピエールが、‘Londeres’と’London’にまったく同じ唯一的同定性質を結び付けたとしても、なお、パズルは起こりうるのである。」96「ロンドンの場合、我々はたいてい、たとえば「イギリス最大の都市」のような確定記述を学ぶ。」しかし、それらを同定する記述には、それぞれ英語とフランス語が用いられる。「彼は、ただ’England’ と‘Angleterre’が二つの国を指し、 ‘Buckingham Palace’ と ‘le Palais de Buckingham’ が二つの異なる宮殿をさす、などの結論を下しさえすればよい。」97
「パラドクスは、記述論者が固有名を「定義する」ものとして(ましてやその指示を固定するものとして)見なしてきた「唯一的同定性質」のレベルで、再び現われる。今、二つの名AとB、およびある性質の組Sについて、ある話し手が、Aの指示対象は、Sのすべての性質を唯一的に満たし、Bの指示対象もSのすべての性質を唯一的に満たすと信じているなら、この話し手はAとBが同じ指示をもつと信じている、と仮定しよう。この仮定ほど合理的なものはあるまい。事実、AとBの指示対象が同じあることは、その話し手の信念から容易にみちびける論理的帰結なのである。」97
「むろん記述論者は`Angleterre’や’Englnad’なども、適当な記述によって「定義する」ことにより、問題の解消をもくろむことができよう。その際、原理的にはそのつぎの「レベル」で、そして順次その一つの下のレベルで、同じ問題が起こりうるから、記述論者は、最終的には定義性質が固有名を含まない(そして自然種語やそれと同類の語も含まない――下記参照)「純粋な」性質であるような「究極の」レベルに到達することが可能だと信じなければならないであろう。しかし、はたしてそのようなレベルに首尾よく到達できるだろうか。」
「また同定性質は、名および名と同類の言葉がそこからすべて取りさられてもなお唯一同定的であり続けるだろうか。私の知る限り、この疑問に明快に答えた議論はまだない。」
ここでとりあえず言えることは、こういうことである。
「通常の判断基準によれば、ピエールは、たしかに‘Londres’ と‘London’をまったく同じ同定性質の組によって学んだのだが、それでもなおパズルはなくならないという事実である。」97
<困難の原因を、翻訳に求める試み>
「われわれは、困難の原因を、翻訳に求めたくなるかもしれない。」98
{入江:この解明については、説明を省略する。なぜなら、結論を言うと、困難の原因は、翻訳にはないからである。}
<単一の言語内でもパズルは生じる>
「単一の言語、たとえば日本語(原文は英語)に話を限り、さらに単一の名の同一のトークンに話を限っても、パズルはなお生じうる。ピーターは、「パデレフスキー」という名を、ある有名なピアニストの名として学んだ。当然ピーターは、それを学んだ後、「パデレフスキーは音楽の才能をもっていた」に同意するであろう。そして、われわれは、われわれがふつうそうするように、「パデレフスキー」をあのポーランドの音楽家かつ政治家の名として用いながら、こう推論することができる。
(8)ピーターはパデレフスキーが音楽の才能を持っていたということを信じている。
この推論に必要なのは、脱引用化原理だけで、翻訳はいっさい不要である。後にピーターは、ある別の会合で、「パデレフスキー」と呼ばれる、ポーランドの民族指導者で首相であった人のことを聞く。ピーターはあ、政治家の音楽的才能には疑問を抱いている。そこでかれは、たぶん「パデレフスキー」という名の、そしておそらくほぼ同時代の、二人の人間がいたのだろうと結論する。ピーターは、「パデレフスキー」を政治家の名としてもちいるとき、「パデレフスキーは音楽の才能を持っていなかった」に同意する。するとわれわれは脱引用か原理によってつぎのように推論すべきであろうか。それともすべきでないのだろうか。
(9)ピーターはパデレフスキーが音楽の才能をもっていなかったということを信じている
・・・・・・・・・・・・
この例で何らかの翻訳が関係しているとすれば、それは同音翻訳である。・・・こうして、名が翻訳されてはならないという条件は、もっともらしくなく過激なうえに、有効でもないのである。」100-101
<クワインの説との関係>
「クワインは「翻訳の不確定性」を唱えるともに、それとの関連で、信念や間接話法のような「命題的態度」の内包的な語法を否定した。これらの説に共感を覚える人にとっては、ここでのパズルがおなじみの説に一つの例証を与えるものに過ぎないと思われよう。」101
しかし「クワインのいう翻訳の不確定性と間接話法は、我々の信念の枠組にたいしてそれほど大きな困難をもたらすわけではない。それがもたらす困惑は、結局のところ、豊かさのそれである。しかし、ここでのパズルは、我々が信念を帰すのにふつう用いる原理が、ある種の場合には、矛盾ないし少なくとも明白な誤りを生じる恐れがあるということを示している。したがって、それは、クワインのそれであろうとなかろうか、何らかの水準で信念の「論理」を取り扱おうとするすべての試みに対して問題を提起するのである。」1102
第4節 結論
「もっとも重要な教訓は、パズルはあくまでパズルだということである。真理に関するいかなる理論もうそつきのパラドクスを解決しなければならないように、信念と名に関するいかなる理論もこのパズルを解決しなければならない。」102
<ジョーンズの例も信念のパズルの一例である>
「ジョーンズの事態は、ピエールのそれと驚くほどよく似ている。「キケロ」と「タリー」が交換可能であるという提案は、「キケロ」と「タリー」だけを置換えて残りはそのままにした、英語から英語への同音「翻訳」にほぼ相当する。実際、このような「翻訳」を使えば、パラドクスが生じうる。しかしながらパラドクスの原因をその点に求めるべきであろうか。」102
「我々の直観によると、「キケロは禿だった」と「タリーは禿でなかった」の両方に対するジョーンズの同意は、‘Londres est jolie’ と‘London
is pretty’ の両方に対するピエールの同意とまったく同種の起源を持つのである。」102
それゆえに、「ジョーンズに関する困った結論を代入可能性のせいにするのは、誤りである。原因は推論に含まれるある特定の誤謬にあるのではなく、むしろ我々が入り込んだこの領域の本性にある。」103
<クリプキの主張>
「私の論点は、・・・脱引用化プラス代入可能性によって生じる不合理が、脱引用化プラス翻訳、あるいは「脱引用化のみ」(または脱引用化プラス同音翻訳)によって生じる不合理と精確に平行関係にあるということである。・・・・ジョーンズやピエールの例によって示される領域に入り込むとき、我々は信念の解釈が帰属に関する我々の通常の実践が最大限の緊張を強いられるような、そしてことによると崩壊してしまうかもしれないような、領域に入り込んでいるのである。」
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以上が、クリプキの論文の紹介である。
第5節 信念のパズルの分析
(1)信念文のパズルが生じるケースについて、まとめておこう。
・信念のパズルは、同一言語の中でも生じる。
「パデレフスキー」の例
「キケロ」と「タリー」の例(これもまた信念パズルの一つだと見なす場合)
・信念のパズルは、同一の性質と結合した共指示的な名や、共指示的な記述でも生じる。
・異なる言語の場合
‘Londres’と’London’ (ともにイギリスの首都と理解しているとき)
‘la capitale de Angleterre’ と‘the
capiatal of Enlgand’
・同一言語の場合
「キケロ」と「タリー」の例(ともに「ローマ時代の有名な弁論家」としてしか知らないとき。)
同一言語の場合には、共指示的な確定記述について、信念のパズルは生じない。
・信念のパズルは、同一の名でも生じる。
「パデレフスキー」の例(ただし、同一の性質と結合していない場合である)
(2)パズルの分析
<照屋君の駐車問題「駐車違反はいかにしてかのうか」>
照屋君の指摘する「駐車問題」と対比してみよう。ある日ある時刻の照屋君の自動車について、次の二つのことが言えたとしよう。
(1)駐車禁止区域のなかに、車は止まっている。
(2)地球は自転しており、車は止まっていない。
このとき、「照屋君の車は、とまっているのか、とまっていないのか、」
この問いに対して、事態を正確に記述することはできるだろう。この場合には、「地表面に対して止まっており、太陽系に対して動いている」というように、「止っている」を二義的に理解することによって、矛盾を回避できる。そして、上の問いに対して答えるには、その質問者にたいして、「照屋君の車が、何に対して止っているのかどうか、を尋ねているのか、知らなければ、その質問に答えることはできません」と問い返すことができるだろう。つまり、最初の問いに対して、「その問いは、不正確、ないし曖昧なので、答えられない」と回答することができる。
クリプキのパズルでも、問いが不正確、ないし曖昧なのではないだろうか。
<クリプキの混同? 疑問文の作用域>
クリプキのパズルでは、述語が二義的なのではない。では、主語が二義的なのだろうか。
二義的であるかどうかは、不確定であるが、ピエールは、主語が異なる対象を指示していると信じているのである。
もし、ピエールに、「あなたは、ロンドンが美しい、と思いますか」と日本語で尋ねれば、ピエールがもし日本語を知っているとすれば、「あなたの言う「ロンドン」は’Londres’ですか、それとも‘London’ですか」と問い返すだろう。このときには、問題は生じない。
ピエールの信念について、「事の真相」を知っている、第三者に尋ねるときに、パズルが生じるのである。つまり、この第三者が日本語話者であるとき、‘Londres’も’London’も「ロンドン」に翻訳されるのである。そして、「ピエールは、ロンドンは美しくないとおもう」と「ピエールはロンドンは美しいとおもう」の二つが翻訳の結果として生じるのである。
では、翻訳に問題があるのだろうか。しかし、そうではなかった、同一言語でも同様のパラドクスが生じたのである。
「パデレフスキー」の例では、もしピエールに「あなたは、パデレフスキーは音楽の才能があると思いますか」と日本語で尋ねれば、ピエールがもし日本語を知っているとすれば、「あなたの言うパデレフスキーは、どのパデレフスキーですか」と問い返すだろう。ここには、パラドクスは生じない。
この場合もピエールの信念について、「事の真相」を知っている、第三者に尋ねるときに、パズルが生じるのである。つまり第三者が、「ピエールは、パデレフスキーは音楽の才能があると思っていますか」と問われたとき、彼が、「あなたのいうパデレフスキーは、どのパデレフスキーですか」と問い返すことはない。なぜなら、彼も質問者も、ピアニストでありまたポーランドの首相でもあったパデレフスキーのことを意味しているのだと、相互に知っている(と仮定する)からである。
もし質問者が「事の真相」を知っていれば、このような質問はしないだろう。もし質問者が「事の真相」を知らないとき、問われた第三者は、「事の真相」を説明するだろう。
では、クリプキのいうような質問は、誰がするのだろうか。
「タリー」と「キケロ」の例を考えてみよう。
もし「事の真相」を知っている第三者に「トムは、タリーがカティリーネを非難したと、思っていますか」と問うならば、「はい、おもっています」と答え、「キケロは、・・」と問うならば、「いいえ、・・」と答えるだろう。そして、この二つの答を主張することは、矛盾ではない。
これと同様に、「ピエールは‘Londres’は美しいと思っており、‘London’は美しくないと思っている」と答えることが出き、この答えには矛盾はない。これらの語を「ロンドン」と翻訳すると矛盾するのである。しかし、この矛盾は、もう一度言うが、翻訳から生じるのではない。このことを、もう一度パデレフスキーの例で考えてみよう。
「パデレフスキー」のケースについて、これと同様に答えるとすると、つぎのようになるだろう。「トムは、パデレフスキーは音楽の才能があり、パデレフスキーは音楽の才能がない、と思っている」と答えることができる。そして、この答には、矛盾はない。なぜなら、トムは二人のパデレスフスキーがいると思っているからである。
クリプキの議論には、大作用域の信念文と、小作用域の信念文の混同があるのではないだろうか。
「トムは、パデレフスキーは、音楽の才能があると思っていますか」
という問いが、小作用域の信念文を疑問文に直したものならば、それについて答えるには、この質問の中のパデレフスキーが、トムが二人いると考えているパデレフスキーのうちのどちらの人物であるのかを、確認しなければならない。つまり、「あなたの言う、パデレフスキーは、トムが考えているパデレフスキーのうちのどちらの人物ですか」と問い返す必要があるだろう。
これと同じく、「ロンドン」の場合でも「ピエールは、ロンドンは美しいと思っていますか」という疑問文が、小作用域の信念文に関する問いであるならば、「あなたの言う「ロンドン」はピエールが考えている‘Londres’のことですか、それとも‘London’のことですか」と問い返すだろう。
(次回につづく)