他方,印欧語比較言語学は特にその初期においてサンスクリット研究と密接 に結びついている.この言語をわが国にもたらしたのは美濃大垣の僧侶の子に生まれた南条 文雄 ( ぶんゆう ) 1849-1927;肖像はcscns.csc.gifu.gifu.jp/virtual/19/image/nanjo.jpgより)であった.

彼は僧兵を経て京都の高倉学寮で修業した後,仏典研究を極めるためにサンスクリットを修めるべく 笠原 ( かさわら ) 研寿 ( けんじゅ ) 1852-1883)とともに英留学に送り出された.それまでは仏典のもっぱら中国語訳が利用されていたのだが,維新の波の中,原典を確認する必要性が認識されたのである.洋行にあたり上野精養軒で洋食の取り方は練習したものの,英語も当地の常識も全く知らない状態で18768月にロンドンに入った2人は,ガス灯の火を吹き消してガス漏れ騒動を起こしたり,観劇後に下宿先を締め出されて公園のベンチで夜明かししたりの珍事件を経ながらも,現地人や当時在英の邦人諸氏との交流等を通じて徐々に英語にも現地生活にも慣れ,1879年初頭にはまず南条が人を介してオックスフォードのミュラー(Friedrich Max Müller 1823-1900;写真はwww.gosai.com/chaitanya/ saranagati/html/vedic-upanisads/aryan-invasion.htmlより)の知遇を得ることに成功する.ミュラーの勧めを受けてオックスフォードに移った南条と,半年遅れで合流した笠原は彼の指導の下で猛烈な勢いでサンスクリット修行を開始した.その際,彼等に初歩の手ほどきをしたのは後のオックスフォード教授マクドネル(Arthur Anthony Macdonell 1854-1930)だったという.その後彼等は英国のみならず独仏所蔵のサンスクリット文献を次々に研究するが,その間の1881年,笠原は結核を患い帰国,翌々年世を去った.他方の南条は首尾よくオックスフォードからMAを得て1884年離英,米国のサンスクリット学者ランマン(Charles Rockwell Lanman 1850-1941)を訪ね,同年刊行されたばかりの有名なSanskrit Readerを携えて帰国する.

188410月から東京大谷教校教授となって僧侶育成に着手し,また翌852月からは東京大学(翌年より帝国大学)で梵語学講師を嘱託されることになった.ここにわが国のサンスクリット教育がはじまる.しかし871月急に訪れたインド行きの機会を捉えて即刻両職を辞す.宿願だった入竺と天台の行をすませて帰国すると,翌88年からは名古屋市東本願寺別院内普通学校,華族女学校で教職に復帰し,1901年には真宗大学(現大谷大学)教授に就任,後には長く学長を務めた.1889年には加藤弘之等とともにわが国最初の文学博士に推挙されている.だが,南条は印欧語比較言語学には何ら関わっていない.

 

(神山孝夫『印欧祖語の母音組織:研究史要説と試論』付節より)

 

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