上田の初期の教え子の中にも,半ば独力で印欧語比較言語学に果敢に挑んだ猛者がいる.それは 新村 ( しんむら ) ( いずる ) 1876-1967;右写真はwww..city.kyoto.jp/html/sogo/hisyo/honor_06.htmlより)八杉貞利1877- 1966;左写真は新村1974より)の2人であった.19002月に創刊され,惜しくも1902年に廃刊となった『言語學雑誌』に2人は極めて積極的に各種の論考を寄稿しているが,その中には印欧語比較言語学に関するものが少なくない.新村は創刊号に印欧語学概説書『印度 ( ) ( ) ( まん ) 言語學』(Meringer 1897)の書評を載せた他,グリムの学説についての紹介記事を連載し,他方八杉はボップの生涯と学説についての連載記事と,印欧語学の概説を含む「言語學入門」等を載せている.単行本として新村は『イェスペルセン氏言語進歩論』(1901)を,八杉は「印歐語學梗概」を含む『通俗言語學』(1899(筆名 宮田 修)[1]やパウル英訳本の解説書『ストロング氏言語史綱要』(1900-01)を上梓した.だが,当時の習慣によって彼等は2人とも印欧語比較言語学を専攻とすることができなかった.

新村は専攻を国語史に限定することになり,高等師範教授を勤める傍ら,2年ほど兼任助教授として母校で国語学を講じた(新村1974)後,1907年から1909年春まで欧留学に赴く.彼の研修地は基本的にベルリンであったが,貪欲に英独仏各地を訪問してジーファース,ブルークマン,ヴント,パウル,パシー,スウィートの講義に接したという.帰国後は京都の言語学の祖となって,特にキリシタン文学関係に多くの業績を残した.後に名古屋大学教授となった息子猛1905-92との共同作業により『広辞苑』を編纂して名声を得,1956年に文化勲章を受けたことは周知であろう.

他方,八杉は上田からロシア語研究を命じられ,卒業の翌1901年から日露戦争勃発までの2年半,国命を帯びてサンクトペテルブルグ大学に留学する.『言語學雑誌』32号(1902)掲載の「雑報」によれば,少なくとも留学当初は同学の高名なボドゥエン・デ・クルテネの下で印欧語比較言語学を本格的に修めることを目的の1つにしていたと考えられる.だが,何れかの段階でこれを断念したらしく,帰国後は東京外語教授としてもっぱらロシア語学に専心して,数々の教科書,辞書,文法書を編み,また多くの後継者を育てて日本におけるロシア語学,スラブ語学の創始者となった.その功績に対し1964年にはレニングラード大学から博士号が授与されている.彼はまた歌人として知られる.



[1] 著者の素性は当時明かされず,また内容が高度であったため,不謹慎なもぐりの学生による上田万年の講義録なのではないか,とする根拠のない風評が立ったらしい.上田の孫である冨家素子がこの風評を鵜呑みにした(1998)のはやや軽率であったろう.

 

(神山孝夫『印欧祖語の母音組織:研究史要説と試論』付節より)

 

大阪言語研究会ホームページへ