澤井 洵改め高楠順次郎1866-1945;写真はhttp://www.musashino-u. ac.jp/about/80th/photo.html#topより)南条に続いて日本のインド学を築き上げて行くための重要な礎となったが,南条と同じくかなり特殊な経歴を経ている.筆名には小林 洵,あるいは小林順次郎も用いた.

現在の広島県三原市 八幡 ( やはた ) ( かがり ) 当時は 御調 ( みつぎ ) 郡八幡村字篝)の比較的豊かな農家に生を受けた彼は,幼少より祖父に漢籍を習ったものの,地元に尋常小学校が開校する1875年まで学校教育を受けていない.だが,入学後には8年の課程を4年で終え,三原の私塾桜南舎で漢文を修めると,にわかには信じ難いが80年(14歳?)には小学校の教師になったという.当時から政治に興味を抱き,81年の設立直後から立憲政党に加入した.その後,世に出る志を膨らませた彼は心機一転職を辞すと1885年より5年にわたって京都西本願寺が設立したばかりの普通教校に学ぶ.在学中1887年には「反省会雑誌」(99年より中央公論)を創刊するなど,すでに若くして政治・評論活動を繰り広げている.同年請われて神戸の富裕な高楠家の婿養子となり,教校卒業の翌1890年,高楠家から資金を得て単身欧留学に赴いた.

南条文雄からの紹介状を持ってオックスフォードにミュラーを訪ねると,インド学を勧められ逡巡したが,結局彼に師事することに意を決する.当時オックスフォードで研鑽を積んでいた,後のカレル大学(プラハ)教授ヴィンターニッツ(Moriz Winternitz 1863-1937;写真はtitus.uni-frankfurt.de/personal/winterni.htmより)にまずサンスクリットの初歩を手ほどきされた高楠は梵文学,インド学の他に言語学,宗教学,国際法,近代史を修めて1894年にまずオックスフォードからBAを受ける.翌年にはドイツに移ってベルリンとキールでさらにインド学の知見を深め,さらに翌年にはライプツィヒで印欧語学を学んだ.その後,短いフランス滞在を経てオックスフォードに戻りMAを受けると,欧州各地の碩学を訪問した後,留守宅からの求めに応じ帰路に就いた.同学からは後の1905年に博士を授与されている.

97年の帰国後,高楠は東京帝大から早速梵語学講師を要請された.梵語は85年と翌年に南条が講じた後,しばらく不開講が続き,やむなくフローレンツが穴埋めを強いられていたのである.上田の信頼を得た高楠は98年より博言学講座分担となり,99年教授,1900年文学博士,01年新設の梵語学講座担任となって1927年の定年退官まで,長井真琴(1881-1970),宇井伯寿(1882-1963),後述の辻直四郎をはじめとする後進の育成に励んだ.その間には海外出張を数度こなし,一時は文部省に出向した上田に代わり博言学講座の担任も任されている.また,加藤や上田とともに国語表記の委員を務め,東京外国語学校校長,東洋大学学長を兼任したり,今日の中央学院,武蔵野大学を創立するなど,実に多角的な活動を繰り広げた.退官後にはハワイ大学客員教授を勤めている.

高楠の業績は膨大であり,特に仏教語彙辞典『法宝義林』(現在も継続中),様々な寺院が所蔵していた経典を校訂した『大正新修大蔵経』,パーリ語仏典の集成『南伝大蔵経』,『ウパニシャッド全書』が有名である.これらの活動が評価されて英国学士院会員に推挙され,死の前年には文化勲章を受けた.高楠の業績は明らかに賞賛の対象であるが,オックスフォードとライプツィヒで修めたとされる印欧語比較言語学をどの程度把握していたのかは不明である.

高楠の履歴を見て驚嘆するのは,維新の混乱を乗り切って学を成就した彼の 意思と能力に加えて,彼の類まれな社交性である.それは南条の知遇を得て紹介状を取得したことにはじまり,ヨーロッパではミュラー,フィック,オルデンベルクHermann Oldenberg 1854-1920;右上www.payer.de/neobuddhismus/neobud10.htmより)レヴィSylvain Lévi 1863-1935;左下tutus.uni-frankfurt.de/paesonal/galeria/levi.htmより)らと,帰国してからは学界の加藤弘之や上田万年等ばかりか,伊藤博文内閣の閣僚末松 謙澄 ( けんちょう ) 1855-1920や三菱の3代目岩崎久弥1865-1955ら政財界の要人と次々と昵懇の関係を樹立 したことに現れている.彼が人間的魅力に富んだ人物であったことが窺われる.

 

 

 

(神山孝夫『印欧祖語の母音組織:研究史要説と試論』付節より)

 

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