1885年,上田万年(かずとし〜まんねん;1867-1937;写真は新村1974より)は帝大の和漢文学科に入学し,翌年着任したチェンバレンの指導を受けた後,彼の後任となるための知見を得るべく,国命を帯び てヨーロッパに赴いた.4年にわたる留学から帰朝した1894年,上田は日本人としてはじめて印欧語比較言語学の片鱗をわが国にもたらした.

金子(2001)の現地調査によれば,上田はまず1891年の夏学期の間ベルリン大学に在籍したことが確認され,シュミット(§65)の 謦咳 ( けいがい ) に接したと想像される.その後移ったライプツィヒでは91年秋から丸々4学期を過ごし,残された資料から少なくとも青年文法学派のヴィンディッシュ(§58),ブルークマン(§54),ジーファース(§70)の指導を受けたことがわかっている.93年夏に移ったパリにはもはやソシュ−ル(§58)はいなかったが,ブレアル(§62)とメイエ()の講義を聴いた可能性がある.

このように,今から考えれば羨ましいほどの錚々たる碩学から教えを受けた上田は,帰朝直後に帝国大学博言学教授に任じられ,早速パウル(Hermann Paul 1846-1921;写真はhttp://gutenberg.spiegel.de/autoren/ paulh.htmより)の『言語史原理』(Prinzipien der Sprachgeschichte, 1880, 18862)とジーファース直伝の音声学の講義を開始したことが知られている.当時評価の高かったパウルを教材にしたのは理解できるが,近年に至るまで,わが国の歴史・比較言語学の教育現場にパウルをやや過分に重んじる傾向があったすれば,その端緒はこの上田の講義にあったと考えられよう.

だが,上田自身は印欧語の歴史的研究に手を染めることはなく,時代の ( すう ) 勢によるものか,もっぱらやや民族主義的な視点から研究対象を日本語(彼は「国語」と呼んだ)に限定して,1905年からは新設された国語学講座の教授に転じてしまったため,19世紀末の比較言語学が上田を介してわが国に受容されたとは言えそうにない.無礼を省みずに言えば,当時における最先端の印欧語比較言語学は恐らく上田には理解不能であったろう.既述(第V章)のようにベルリンのシュミットとライプツィヒのブルークマンとでは,少なくとも母音に関する限り,想定する祖語の状況がまるで異なる.ブレアルやメイエにも教わったなら,説かれた内容はまた異なっていたはずである.前提知識を欠く者がこれらの学説にほぼ同時に触れたなら,混乱に陥ることは必至であって,状況の理解などおぼつくはずがない.上田が歴史時代のゲルマン語史のみを扱うパウルに傾倒したのはこのような事情からではないかとも想像される.例えば大野(1976: 257f.)のように,上田が比較言語学を身につけて帰朝したかのような記述が散見されるが,このように断言する根拠は見いだせない.

 

(神山孝夫『印欧祖語の母音組織:研究史要説と試論』付節より)

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