『ロシア・東欧研究』7(2003)所収

 

千野先生の思い出

 

神山 孝夫

 

2002319日,日本のスラブ学をこれまでリードしてこられた東京外国語大学名誉教授・元和光大学学長の千野榮一先生が幽冥境を異にされた.以前よりご健康が優れず入退院を繰り返されていることは風の便りに聞き知ってはいたが,次々と新たなお仕事を発表され,学会の懇親会などで時折お目にかかると,手になさっているのはビールではなくウーロン茶ではあったものの,お元気そうにお見受けしていただけに,新聞の訃報欄に先生のお名前を見つけたときには信じられない気持ちだった.しかし,かつて同僚であられた宮岡伯人先生(大阪学院大学)が発起人となって,その2月に予定されていた先生の古希をお祝いするパーティーが中止になったと聞き,少々悪い予感を持っていたのも確かである.

先生は大阪外国語大学とは直接関わりをお持ちでなかったが,『言語学大事典』(三省堂)や『外国語上達法』(岩波新書),『言語学の散歩』(大修館)をはじめとする極めてわかりやすい言語学の概説書,あるいは『チェコ語の入門』(白水社)や映画で有名な『コーリャ 愛のプラハ』など様々な翻訳を通じて,間接的に先生に恩恵を受けている方々は本学にも多いはずである.誌面をお借りして,恥ずかしながら学生時代に一学生が先生から受けた学恩の一端を紹介することで,当時懇意にしていただいた亜矢子夫人をはじめとするご遺族の方々へのお悔やみに代えることをお許し願いたい.

小生がスラブ語学を生涯の友とするきっかけとなったのは,ロシア語に惚れ込んだことに加えて,他ならぬ千野先生にチェコ語と古代教会スラブ語の手ほどきをしていただいたことである.チェコ語はご指導いただく以前から,先生の上記の教科書を用いて独習した経緯があり,学部2年生のときに念願かなって直接ご指導いただくようになってからは,正規の授業の他に先生が教え子を集めて開いていたいくつかの勉強会にも加えていただいた.その折に読んだものの中でもスカリチカの Vývoj jazyka は特に思い出深い.チャペックの『マサリックとの対話』などは歴史的経緯もわからず,準備に手を焼いた.

 

先生はチェコ語を懇切丁寧に教えてくださったから,先生の古代教会スラブ語の授業の進め方には面食らった.3年生になった最初の授業に若干遅れていらっしゃった先生は教室のドアを開けるなり,20名弱の学生が着席しているのをご覧になり,

 

「あれ?やる人結構いるんだね.」

 

と驚かれたようだった.気を取り直した先生は,古代教会スラブ語の成立の経緯やスラブ語学におけるその位置を説明なさった後で,黒板に数冊の書名をお記しになった.当時手に入りやすかったイヴァノーヴァに加えて後掲のレスキーン,ヴァイヤン,ラントだったと思う.木村彰一先生の『古代教会スラブ語入門』(白水社)が出るのはその数年後のことである.

 

「英独仏露のどれかは読めるでしょ?」

 

とおっしゃって,次週からは早速テキストを読むから各自どれか好きなものを用いて文法を自習するように指示された.

 

それからが大変だった.今でこそ自分のわかる分野なら独仏にさほど抵抗はないが,当時はまだ初級の文法ぐらいしか知らないし,ロシア語だってまだまだ辞書との格闘が必至である.そうなると英語っきゃないだろうとの浅はかな予想から図書館でラントの本を見てみたら,これまた高級すぎて当時の小生にはとても歯が立つ代物ではないことが瞬時に判明した.あわてて神保町のナウカに駆け込み,イヴァノーヴァの Старославянский язык 670円(!)で買い求め,翌週の授業までに何とか文法の概略だけでも詰め込もうとじたばたした.

翌週の授業にやって来た先生は,半分に減った受講生に

 

「あれ?まだ奇特な人がいるんだね.」

 

と一言を浴びせられ,前週の続きの講義をなさった後でアッセマーニ写本のコピーを配られた.何じゃこの字はと目を白黒させている無知な学生に対し,教室から出てゆく先生はまたも重いパンチを食らわせたのであった.

 

「来週やるから読んどいて」

 

もしかして全部読むのか?と思って愕然としたが,ともかく可能な範囲で準備して次週の授業に臨んだところ,一語一語丁寧に,かつ今のスラブ語ではどうなっているかを確認しながら,ほんの数行ずつしか進まないことがわかって,散りはじめた桜の花を愛でる心の余裕をようやく取り戻したのである.

 

千野先生の古代教会スラブ語は月曜日の4コマ目.次の5コマ目には先生の無二のご親友である東京大学名誉教授・創価大学教授の佐藤純一先生のロシア語形態論の授業があった.佐藤先生は大相撲がお好きである.いつもなら時間目いっぱいに行われる授業も,場所中は5時をもって終了となる.5月場所のある日のこと,近所の喫茶店で相撲をテレビ観戦するから,君たちもどうかとお誘いいただいた.何を隠そうこの小生も栃若とはいかないが柏鵬からの相撲ファンである.当時は北の湖の全盛時代.史上最年少で横綱に駆け上がり,憎たらしいほど強かった.受講生は一も二もなくお供することになり,お茶をいただきながら小生の目はテレビ画面に釘付けであった.小生とは逆に向学心旺盛な女学生は相撲そっちのけで古代教会スラブ語の勉強法のアドヴァイスを求めている.

 

「千野君に教わるなら大丈夫です.彼が今日本で一番ですから」

 

間抜けな話だが,佐藤先生のこのおことばを伺って,はじめて千野先生に古代教会スラブ語を教えていただける幸運を悟り,本気で学ばねば失礼だと思うに至ったのである.その夏,辛うじてイヴァノーヴァの本は読了した.思えば cover to cover で読んだ最初のロシア語の本だったろう.翌年も同じ授業を続けさせていただき,後には木村彰一先生にご紹介いただいて,早稲田の授業に出させていただいた.いつか先生のようになりたい,いや次の時代のためには先生を乗り越えなければ,との無謀な考えから印欧語比較言語学を学び,先生よりもさらに広い視野からスラブ語の前史を見ようと志して今日に至った.当然だが,今ではレスキーンの Handbuch der altkirchenslavischen (altbulgarischen) Sprache も,ヴァイヤンの Manuel du vieux slave も,ラントの Old Church Slavonic Grammar も手元にある.

 

先生の学恩に僅かに報いることができたのは,コンパのセッティングのお手伝いだけだったように思う.先生は休暇前には必ずコンパを催されたが,何度か店の選定や予約をお任せいただいたことがある.悪ダチの平井和之氏(東京外国語大学)や渡辺勉氏(拓殖大学)等と飲み屋の散策は日頃怠らなかったから,大抵は重責を果たすことができたように思うが,一度だけ大失敗をやらかしたことがある.

大学院生になったばかりの7月初旬,巣鴨駅前の寿司常を予約した.お店の人に人数や予算を伝え,入り口には

 

千野先生御一行様

 

と掲示するようお願いしておいた.ところが,当日寿司常に着くと

 

神山先生御一行様

 

の掲示が燦然と輝いている.目の前が真っ暗になった.すぐにお店の人に掲示を訂正していただけるようお願いしたが,お店の人もなかなか手が空かないと見えてすぐには訂正してくれない.そうこうしているうちに学生どもと前後して千野先生,佐藤先生,原誠先生,桑野隆先生,石井哲士郎先生が次々と到着なさった.

 

「この人も偉くなったもんだね.」

 

にこやかな千野先生から発されたこのおことばを厳しいお咎めと受け止めたことは言うまでもない.

 

 まだ続きがある.宴もお開きとなって,恐縮したまま店を出ると

 

 「次行くんだろ?これ足しにしなさい.」

 

のことばとともに先生は5000円札をそっと差し出された.軽薄な小生は

 

「皆様,千野先生から5000円のカンパをいただきました.これで二次会へ参りましょう!」

 

と大騒ぎをした.間髪を入れず先生の声が響く.

 

 「バカ.50000円だろ?」

 

にっこり笑った先生は,そのまま駅に向かう人波にのまれたのであった.

 

思えば懐の深い方であった.いつも先生のお部屋には先生を慕う多くの学生が集まっていた.我々には先生のお教えと数々の思い出がいつも胸にある.

 

千野先生,ありがとうございました.ご冥福をお祈りいたします.

 

1980年頃 千野榮一先生と筆者

 

1983年頃 渋谷ロゴスキーにて

前列中央に千野榮一先生と木村彰一先生

後列左から山本富啓(故人),大平陽一(天理大学),

坂本清(東京国際大学),黒澤直俊(東京外国語大学)の各氏と筆者

 

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