追悼

松本忠司さん

 

 

 僕は松本忠司先生(以下では親愛の情を込めて「忠(ちゅう)さん」と呼ばせていただく)が早稲田の露文出身で小樽商大のロシア語の先生だったことは承知しているが,忠さんがどんな研究をなさっていたのか,不謹慎かもしれないがまったく知らない.まったく研究とは離れたところでご交誼を賜ったからである.

 

 忠さんと恐らくはじめてお目にかかったのは,19886月,立命館大学で行われた日本ロシア文学会関西支部研究発表会の春の例会のことであった.その4月に大阪外国語大学に赴任したばかりの僕は,当時関西支部長だった法橋和彦先生より,「発表希望がひとつしかないから,お前が発表せい」との厳命を受けた.当時,僕が関わっていた研究はセルビア・クロアチア語のアクセントの通時的研究で,これを共時的な生成音韻論という形にして一文をものす準備をしていたところだったから,法橋先生にこのような内容でもいいのかと伺ったところ,一向に構わんというご返答をいただいた.しかし,僕の発表はあまりご高評いただかなかったのではないかと思う.やはりロシア文学会だったらロシア語関係にすべきだったと反省している.

 

 発表が終わると皆さんで打ち上げに繰り出した.入ったお店でたまたまお隣の席についたのが忠さんであった.詳しい経緯は知らないが,所用で関西においでになったついでに関西支部会に顔を出されたのだと思う.はじめはロシア文学会であんな発表をやった真意を尋ねられたのだが,杯を重ねれば自然と話題も多岐に及ぶ.ひょんなことからお互いが大相撲の大ファンであることが露見して大いに意気投合するところとなったのである.

 

当時は千代の富士の全盛時代だったろう.小生も小さな頃から大相撲が大好きで,当時はまだ蔵前にあった国技館も何度か訪れているし,「相撲」とか「大相撲」とかの雑誌も何年にもわたって熱心に購読していたから,仲間内ではかなりの相撲通で通っていた.大学生になってからも悪ダチの平井和之氏や小池浩一郎氏と荒川の河川敷で相撲を取って遊んだものである.そんな僕の知識も忠さんにはまるで歯が立たなかった.現役ばかりか過去のお相撲さんの出身地や本名,生涯成績など,相撲についてのありとあらゆるデータを諳んじている忠さんはまさに相撲の生き字引だった.

 

 大鵬の46連勝を阻んだ戸田との一戦は実は行司指し違いであったことや,大鵬と貴ノ花の初顔の一番における知る人ぞ知るかばい手事件のことなどに話の花が咲き,若乃花(初代)の得意技である呼び戻し(別名仏壇返し)がどんな技なのかの解説を伺った.その上,忠さんは相撲取り全員の給金を把握しているという.驚く小生に「小樽まで見に来たらどうだ」と仰る.

 

 折り良く,その夏,小生は北大のスラブ研究センターに行くつもりだった.鈴川奨学金を得て同所で研修予定の友人にお会いすることと,同所所蔵のマイクロフィルムからKuryłowiczの論文をコピーしてくることがその目的だったが,さらにラーメン横丁を制覇し,開通したばかりの海峡線を通って,その帰路には酒田で自動車の運転免許を取得するつもりだった(大阪外語への通勤には車が不可欠であった).蛇足だが,クラーク会館に逗留した一週間の間に,サバティカルイヤーを北大で過ごしていたインディアナ大学のアンディー(当時associate professorだった)と懇意になった.彼とはその後,大阪とウィーンで再会することになる.

 

「小樽まで来い」とおっしゃる忠さんに,「宿泊もご厄介になっていいんですか?」と聞いた小生.お答えは「当たり前だ.好きなだけ泊まっていけ.」であった.厚かましくもおことばに甘えた小生は,舞鶴からフェリーで小樽に渡り(実に快適であった),北大に行く前の確か二晩を忠さん宅にご厄介になって,相撲取り全員の給金計算書をお見せいただき,給料計算の詳細をお教えいただいたのである.昼はあちこち観光したから自前で済ませたが,その間,朝食も夕食も完全にゴチになってしまった.当時は学生気分も抜け切らず,大変厚かましい行為に及んでしまい,奥様にもご家族様にも大変ご迷惑をおかけして面映い気持ちである.この場を借りてお詫びを申し上げたい.

 

その後,10年以上もあまり親しくお話しする機会はなかったのだが,忠さんのお具合が悪いことは,新潟でたまたまバスで乗り合わせた同窓の匹田剛君(彼は退官された忠さんの後釜に納まっていた)から伺った.入退院を繰り返しているというお話を伺って,そのうち北大の浦井さんが集中講義にでも呼んでくれたらお見舞いに伺おうかと漠然と考えているうちに奥様から訃報をいただいたのであった.一宿一飯ならぬ二宿数飯の恩義に対し,何の報いもせぬ間に忠さんは逝ってしまった.申し訳ない気持ちでいっぱいである.

 

 

 

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