追悼

木村彰一先生

1915-1986

 

千野榮一先生の『外国語上達法』(岩波新書)には「語学の神様S教授」として木村彰一先生が何度も登場する.木村先生は千野先生にとって最初はギリシア語とラテン語の先生であったが,木村先生がお書きになったドイツ語を見たドイツ人学生の反応が「いつか僕もこんなドイツ語を書けるようになりたいな」だったことや,木村先生が千野先生にご連絡される際にはポーランド語を用いられていたこと(おはがきを見たポーランド人がびっくりなさった由)などの逸話にも垣間見られるように,実際木村先生は少なくとも英独仏露の他にポーランド語,古代教会スラブ語,ラテン語,ギリシア語に精通された,真の語学の神様であった.お父上は木村・相良の『独和辞典』や『和独大辞典』(ともに博友社)に名を残すドイツ語会の泰斗木村謹二博士である.木村彰一先生は東大言語学科を出られた後,東京外事専門学校(現東京外国語大学),北海道大学,東京大学,早稲田大学にて教職を歴任され,数多くの専門家を育て上げられるとともに『ロシア文法』(八杉貞利氏と共著,岩波書店),『博友社ロシア語辞典』,『ポーランド語の入門』(白水社),『ポーランド語辞典』(同),『古代教会スラヴ語入門』(同),『イーゴリ遠征物語』(岩波文庫)などの著作・翻訳と多数の教科書を世に送られた.教職を辞された後はラテン語・日本語の辞書編纂に努められたと聞いているが,幽冥境を異にされたのはその志半ばのことであった.さぞご無念であったろうと拝察する.

 

先生の葬儀の席上,風間喜代三先生は木村先生のこの最後のお仕事を引き継ぐ決意を述べられた.しかし,風間先生も東大,立教と教職を全うされた後もご多忙を極めていると伺っている.木村先生が中絶せざるを得なかったお仕事が風間先生の手で完成する日を待ち望む一方で,風間先生にはむしろ印欧語比較言語学の分野において我々後進をご指導ご鞭撻いただきたいとも願う.

 

 大学院生になってから,千野先生のお計らいで当時早稲田におられた木村先生のイーゴリ軍記の授業を聴講することができた.同窓の山本富啓(故人),大平陽一(現天理大学),直野洋子の各氏に加えて,故佐々木秀夫先生のサークルколоを通じて知り合った田辺三千広さん(現名古屋明徳大学)や豊川浩一さん(現明治大学)もご一緒だったと記憶する.正規の学生よりももぐりの学生のほうが多かったのではなかろうか.先生の講義にはギリシア・ラテンがぽんぽん飛び出し,当時の小生にはチンプンカンプンだったが,碩学のお教えと自由闊達なお人柄に接することができたことと,時に第6時間目の授業(場所は飲み屋)にお供させていただいたことは生涯の思い出である.豪快に飲み,食い,語り,笑い,女の子の手を握ったまま「お名前は?」と繰り返される先生のお姿を拝見して,語学の神様は俗世に通じていらっしゃることを知った.

 

ロシア文学の原卓也先生や法橋和彦先生とは時折マージャンを楽しんでいらしたとも聞いている.三十路を過ぎてからめっきりやる機会が減ったが,小生もかつては平井和之氏(日本大学)や井口靖氏(三重大学),あるいは清水貢,古市勲(ともに伊藤忠商事),沢昭夫夫妻,小池浩一郎,松尾江美子,望月正道(麗澤大学)の各氏,あるいはまたマージャンねーちゃんと異名を取る諸岡邦子さんと長沢一徳(電通)夫妻や永遠の初心者坂本清氏(東京国際大学)等の好敵手を相手にして,しばしば夜を徹して熱戦を繰り広げたものである.戦果については特に触れない.大阪に赴任してからは,本学名誉教授の山口慶四郎先生夫妻や日野貴夫氏(天理大学),あるいはまた教え子の下郡健志,二宮功一,加藤徳子,坂本恭典,大串,高司等の各氏とも時に遊んでいただいた.木村先生にも是非一度お手合わせ願う機会があればよかったと切に思う.ゲーム中の会話,あるいはその前後の会食などを通じて,先生の人間的側面にもっと親しく接する機会が得られたのではないかと思うからである.

 

 

1983年頃 渋谷ロゴスキーにて

 

前列中央に故千野榮一先生と故木村彰一先生

後列左から山本富啓(故人),大平陽一(現天理大学),坂本清(現東京国際大学),黒澤直俊(東京外国語大学)の各氏と小生

当時の若者は大概ロンゲだった

 

 

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