「ロシア・東欧研究」第3号(19993月),p. 329-336

 

山岸リリャーナ先生を偲んで

1958-1998

 

 

  1998218日,10年にわたって本学でセルビア・クロアチア語を講じて下さった山岸リリャーナ先生が急逝された.実は急逝ではなかったのだが,少なくとも私はそう思った.221日,神戸ハリストス教会において葬儀が行われ,私も参列させて戴いた.40歳の誕生日をほぼ一月後に控えての,あまりにも早い死であった.

 

Ljiljana Nikolić-Jamagishiさんは1958314日,ベオグラードに生まれた.ベオグラード大学で中国語と歴史を修めた後,ユーゴスラビア政府の奨学金を得て北京,次いで上海に学び,82年にご帰国になった.後の御主人である山岸享次氏との運命的な出会いをされたのは上海においてである.お二人はベオグラードで挙式され,山岸氏の御自宅のある大阪に移り住まれた.一粒種の淳一(Javan)君はたくましく成長され,当年15歳になられる.小文執筆に際し,ご傷心の山岸氏には筆者の求めに応じて写真を含めた各種の資料をご提供いただいた.記して深甚なる謝意を表すとともに,氏並びに淳一君をはじめとするご遺族には心からのお悔みを申し上げたい.

 

1998年度から東京大学でクロアチア語の授業が始まった.担当なさるのは筑波大学助教授の三谷恵子さんである.政治的な理由により今でこそクロアチア語とセルビア語とは別な言語と扱われることが多くなったが,両者の差違は東京と京都の日本語の違いよりもはるかに小さく,つい数年目まではセルボ・クロアチア語とかセルビア・クロアチア語と総称されることが多かった.これまで日本でこの言語を学べる恐らく唯一の学校は本学であった.リリャーナさんがここで研究外国語科目としてこの言語を教え始めたのは1988年のことだと思う.小生が本学に採用されたのも奇しくもその年のことであった.ありがたいことに着任早々彼女と知り合うことができ,同年初夏,小生がセルビア・クロアチア語のアクセントについての一文をものした際,彼女にはネイティヴ・スピーカーとして数々の助言を賜ったことも記憶に新しい.爾来,1996年度に至るまで彼女が担当するセルビア・クロアチア語は初級のみのたった一年のコースであったが,副専攻語委員会への働きかけが功を奏し,1997年度からは中級のクラスの増設が認められる運びとなった.また,現状のヨーロッパT講座の専攻語は系統の異なるロシア語とハンガリー語だけであって,このままでは講座内の共通科目の設定が困難であるため,両言語の橋渡しとしてセルビア・クロアチア語専攻の新設を概算要求に載せようと奔走した.ロシア語とセルビア・クロアチア語は同じスラブ語であるから,スラブ語学概論なり,スラブ語史なりといった言語学的な共通科目の設定が,他方旧ユーゴスラビアとハンガリーとは隣国であって,特に近現代史の分野での共通科目の設定がそれぞれ可能と見込まれたからである.文部省の方針として現状では非常に困難と予想されるものの,セルビア・クロアチア語専攻の教官に新たなポストが生まれた暁には,旧知の仲であり,日本語に自由なリリャーナさんにその任に当たってもらいたいものだと密かに願っていた.

 

1997年の4月某日,新学期開始早々の金曜日の昼休み,リリャーナさんが私の部屋においでになった.これまでの初級だけの授業に,中級が加わった記念すべき第一日目である.それまでも出講の折りにはほぼ必ず私の部屋にお立ち寄りになり,コーヒーを片手に談笑するのが恒例であったが,その日は少々事情が違っていた.私は大概部屋のドアを開放することにしており,リリャーナさんもこれまでこの私の主義に疑義を唱えたことはなかったのに,その日に限って彼女はドアを閉めることを提案した.もう一点それまでとは違ったことがあった.御主人の山岸享次氏までもごいっしょだったのである.何度か御自宅にお伺いさせて戴き,御主人とも顔見知りではあったが,まさか夫婦お揃いでウィークデーの昼に私の雑然とした研究室においでくださるとは予期していなかった.席を勧め,コーヒーでも用意しようと席を立ったところ,相談がある旨を伝えられ,着席を促された.

 

お二人の口から出た話しはショッキングであった.リリャーナさんは肺癌を病んでしまい,治療のための入院を断続的に繰り返すことになる.それに伴って彼女は他の職場を追われたが,大阪外大でのセルビア・クロアチア語の授業だけは何としても続けたい.果たしてそれが可能かとの問いに対し,私は充分可能であろうと答えた.授業を担当する先生のご都合が悪く休講が繰り返された場合,夏休みなり,冬休みなりに補講を行うことはままあることだからである.私からも教務課教務係に事情の概略を説明し,理解を仰ぐことを約した.彼女は御自分が治癒するものと信じていた.私ももちろん彼女の確信を疑わなかった.その時はそうなるとは予想しなかったが,こうしてリリャーナさんの最後の初級のコースと最初で最後の中級のコースが始まったのである.

 

リリャーナさんはある時は直接,ある時はお電話でご都合のほどをお知らせ下さった.ご連絡いただくたびに受講生と彼女のため彼女の出講予定表を作成し,掲示板に貼り付けるとともに,教務係にも同じ物をお渡しして内容を重複して電光掲示するように要請しておいた.当時の教務係長であった鈴木健二氏には,彼女が重病であるにも関わらず,万難を排してご出講下さる旨お伝えしてあったので,ご協力戴けることと信じていたが,後に判明したことに,あろうことか彼らは私の要請を黙殺していたのである.私が作成し,掲示板に貼っておいた彼女の出講予定表が破られていることさえあった.彼らも同じ血の通った人間と思った私が馬鹿なのか.弱い立場の人間をいじめて嬉しいのかと怒りに震えた.彼女の死に際し,成績表が提出されていないので成績をどのように処理したものかという趣旨の相談を教務係長鈴木氏から受けた.結局事務手続きに関することのみが彼らの関心ごとなのだろうか.激しい憎悪を感じないわけにはいかない.彼女が常に私個人に連絡を下さったのは,あるいは教務係に対する信用をすでに失っていたからなのかもしれない.

 

夏になって中国語の大河内先生の後任が公募されることになった.公募要綱には応募者の国籍は問わないと記されている.リリャーナさんはご結婚して来日される以前は中国語の専門家であったわけだし,日本語を用いて中国語を講じることが充分できるわけだから,あるいはご興味あるかと思い,お耳に入れると,是非応募してみたいとのこと.もし採用されたら大好きな中国語が教えられる.持ち出しでも構わないからセルビア・クロアチア語も教えたいものだと熱っぽく語るリリャーナさん.そうなったら私も友人としてとても嬉しい.結局この夢は叶えられなかった.

 

夏休みを過ぎて,リリャーナさんが久しぶりに私の部屋に顔を出した.今はこれが一番とおっしゃる日本茶をお出しして,お体の具合を尋ねると,何と「病気はもう治った」とおっしゃられる.そいつはよかったとこちらも胸をなで下ろすと,今度は手と足の具合がよくないからその治療のためやっぱり休みがちになるとのこと.弱り目に祟り目とはこのことか.まあ,病気も治ったことだし,調子がよくなったら補講をすればいいんだからと慰め,最近の面白そうな映画のことなどに話しに花が咲く.カンヌかどこかで賞をもらったらしい役所広司主演の「うなぎ」が早く見たいとおっしゃる.その頃からか,いつも帽子を被っていらした.あるいは抗癌剤やコバルト照射のために髪の毛が抜け落ちてしまっていたのかもしれない.

 

10月から年末に掛けて,次年度のカリキュラム関連の事務作業に忙殺される.折の悪いことに幼稚園に通う愚息が園内暴力の被害を受け,事態収拾に奔走していたため,勢いリリャーナさんとの連絡も疎となっていた.冬休みに入って,彼女が時々補講にいらしているのは承知していても,ゆっくりお話する機会はなかった.後にご主人に伺って判明したことに,病気が治ったという彼女のことばは事実に反していた.

 

 1月下旬に事務局よりリリャーナさんの容体が急変した旨を伝えられ,狼狽した.お見舞いに伺おうとしていた矢先,事務局を通じて訃報を受け取ったのであった.

 

 私はこれまで木村彰一先生佐々木秀夫先生,及び吉沢典男先生の死に接してきた.木村先生にはイーゴリ軍記を,佐々木先生には古代ロシア語を,吉沢先生にはご専門の実験音声学ならぬ,袖擦り合う他生の縁の深さをお教えいただいた.若輩だった小生に学恩を賜った三先生の追悼文を書く機会などなかったが,まさか同い年のリリャーナさんの追悼文を書くことになろうとは夢にも思わなかった.

 

私が「うなぎ」を見たのはリリャーナさんが幽冥境を異にされた後のことである.人を愛しても報われないなら,裏切ることのない鰻を愛そうと頑なに心に決めた理髪師のお話である.彼は結局人への愛に戻ってゆく.思えばリリャーナさんは人を愛する人であった.彼女がご家族のみならず私のような同僚や学生諸君にまで分け与えてくださった愛は多大である.ご冥福をお祈りする.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

付記

 文末の写真はすべてご主人山岸享次氏より拝借したものであり,下記のような事情からやむを得ず「ロシア・東欧研究」誌の該当頁をスキャンしてここに再掲しました.拝借したお写真は当時同誌の印刷を委託していた業者に貸与し,印刷終了後に返却いただけるよう再三お願いしましたが,今日に至るまで返却いただけず,また事情の説明さえいただけません.このような無責任極まりない業者とはその後関係を絶ちましたが,大切なお写真が紛失される結果になったことに対し,山岸氏には衷心よりお詫び申し上げ,せめてウェブページに再掲し,大方諸兄の目に触れる機会を提供することでご寛恕いただきたく存じます.

2003526日 神山孝夫拝

 

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