佐々木秀夫先生

 

 

1925920日〜19891021

 

 佐々木秀夫先生はとても優しい方であった.しかし,必ずしもそのお人柄から察せられるような順風満帆の人生を歩んで来られたわけではない.先生は満州国立大学ハルビン学院[TK1] でロシア語を修めるべく,1943年に故郷浜松を後にされたが,同学本科在学中の19453月に召集され,学業は中断されてしまった.8月の敗戦後は旅順大連地区で抑留生活の辛苦を経験され,ロシア語通訳に従事されたが,ご無事に473月佐世保に復員され,同年改めて東京外事専門学校[TK2] 英米科に編入学された.あれほどロシア語がお好きな先生がなぜ英語を?と不思議に思うが,当時の世情を考えればわかる気もする.実際,戦前・戦中は「鬼畜米英」の世界だから英語なんぞ好き好んで学ぶ輩は「非国民」だったのに,GHQに暫定統治された戦後は掌を返したように英語の需要が著しく高まったからである.当時の劣悪な生活事情を考えると,食いっぱぐれる心配のない道を選択するのは当然だったのかもしれない.それかあらぬか外語の英米科時代のお話しはあまりされなかったが,コンサイス英和辞典の編者佐々木達氏には格別お世話になった旨,幾度か伺った覚えがある.19503月にご卒業されると浜松に帰郷され,英語教師となられた.10代終わりの渡満から数えて7年目,再び故郷で安寧を取り戻されたのである.

 

先生はその後13年間にわたって浜松北高校,次いで新居高校で英語を講じられたが,その間も先生の関心の中心はロシア語にあった.晴れて1951年に誕生した日本ロシヤ文学会(現日本ロシア文学会)には極めて積極的に参加され,翌年の研究発表会から毎回のように報告を行われた.発表題目のリストを拝見すると,1952年「数詞について」,1953年「ロシヤ語の体と時」,1954年「ロシヤ語における形容詞の形成」のように初期には現代ロシア語学に関する報告が続いているが,1958年「ロシヤ語史的音韻論教程私案」,1961年「キリールとキリーリツァ」,196266「母音ъ及びьとそれらの消滅について」のように話題は次第に古代ロシア語・古代教会スラブ語やロシア語史に移ってくる.

 

数少ないロシア語史の専門家としての名声を得るに至った1966年,先生は首尾よく愛知大学のロシア語教師に転じられ,終生を同学に奉職された.同学が上海の東亜同文書院の流れを汲んでいることと,ハルビン学院が東亜同文書院に倣って創立されたことを想起すると,そこにはある種の因縁を感じざるを得ない.

 

先生は浜松にお住まいのまま,1958年より1983年まで25年の長きにわたって東京外国語大学の非常勤講師を兼任されていた.毎週金曜日に遠路上京され,350分から学部学生にロシア語史を講じられた.外語に来る途中で電通大や上智で講義を持たれていた時期もあるようである.小生は1979年,3年生の時に受講させていただいた.大変内容の濃い授業であったが,4月には教室いっぱいだった同級生諸氏は恐らく進度の速さと板書の量に圧倒されて次々に教室を去り,秋を迎える頃には小生を含めてほんの23人しかいなくなってしまった.皆出席したのは小生だけだったように思う.金曜は同学の宿泊施設に宿泊なさって,翌土曜日には大学院生のために古代ロシア語の文献を講読くださった.同時に指導を受けていた千野榮一先生と佐藤純一先生,また後にお世話になった木村彰一先生のお教えからももちろん多大な恩恵を賜ったが,小生がロシア語史を把握し,古代ロシア語に親しむことができたのは佐々木秀夫先生から受けたお教えの賜であると感謝申し上げている.

 

東京外国語大学の非常勤講師を辞された詳しい経緯は知らない.その後も毎月上京され,教え子を集めて勉強会Колоを開いていらした.同会のメンバーには佐々木照央(埼玉大学),小島基次(池袋商業高校),原久作(上智大学),田辺未千広(名古屋明徳大学),豊川浩一(明治大学),中沢敦夫(新潟大学)の各氏がおいでになる.小生もやや遅れてメンバーに加えていただいた.勉強会の後には軽く宴が催されたり,あるいはメンバー数人とマージャンに興じたりしたことも懐かしい思い出の一部である.浜松のご自宅にお邪魔した折にはショスタコービッチを大音響で聞かされ,正直言って閉口した.

 

 佐々木先生は直接に後進の指導に当たられるとともに,ナウカ社から『ロシア古文典』(全5巻)を上梓されて,日本のロシア語学・スラブ語学に大きな貢献をなされたことは明らかである.だが,先生の功績はどうも正当に評価されていないと思う.佐藤純一先生が佐々木先生を評価していないことは端から見てもよくわかった.確かに佐藤先生からすれば佐々木先生の研究は洗練されていなかったかもしれない.しかし,人前であれほど貶すのはどうかと思う.千野先生はチェコで本格的に古代教会スラブ語を修められたから,いわば独学で古代ロシア語と古代教会スラブ語に習熟なさった佐々木先生をあまり高く評価していなかったように感じるが,佐藤先生ほどあからさまではなかった.「佐藤君は僕よりはるかに気難しいよ」と千野先生がおっしゃっていたのを思い出す.佐々木先生に師事した原久作さんも学会発表の折,あまり明確な理由のないままに佐藤先生にけちょんけちょんにされてお気の毒であった.僕もあまり評価されていなかったように感じる.他方,最近ではロシア文学会から音声学で賞を受けたY.K.君やY.I.君は審査をされた佐藤先生のお眼鏡にかなうらしい.手堅いかもしれないが特に優れているようには思えない彼らの報告のどこがよかったのだろう.一体,佐藤先生の人を評価する基準がまるでわからない.蛇足だが,僕が日本ロシア文学会をやめるに至った遠因のひとつがここにある.(無論,直接的な原因は他にある.鎌倉在住の二枚舌M.W.氏と彼の舎弟で栃木弁の色情狂I.K.氏等,魑魅魍魎と縁が切れて本当によかった.)

 

佐々木先生は高潔なお人柄であったから,この種の不満を口にされたことはない.元来器の小さい小生には先生のまねはできそうにもない.せめて,先生が生涯を捧げたロシア語史研究を推し進めることによって,先生の学恩に報いたい.謹んでご冥福をお祈りする.

 

(小文執筆に際し,ご子息佐々木知氏よりお写真を含めた様々な資料を提供いただいた.同氏並びにご遺族に心よりお悔みを申し上げるとともに,ご協力に対し深甚なる謝意を表したい.)

 

 

 

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 [TK1]満州ハルビンにあったロシア語専門の外国語大学.内地の東京外国語学校,大阪外国語学校よりも恐らく実践的な語学力が養われた.終戦と同時に廃校.卒業生の中では「命のビザ」の杉原千畝氏や加藤登紀子さんのお父上加藤幸四郎氏が有名.当時,ハルビンは白系ロシア人が多く居住し,ヨーロッパ風の街並を今に残す.

 [TK2]後の東京外国語大学.1873年創立で一時東京商業学校(現一橋大学)に吸収合併された東京外国語学校は19444月に外事専門学校に改組された.