山本富啓さん

 

 

 山本富啓(とみひろ)さんを知ったのは学部の2年生か3年生のときだったと思う.故千野榮一先生には特にチェコ語と古代教会スラブ語で大変お世話になったが,山本さんは当時その千野先生の研究室で教務補佐をなさっており,先生の研究室で週に数回行われていたチェコ語の読書会などを通して次第に親しくなった.先生に伺うのは気恥ずかしく思われるような愚問でも,ちょっと先輩の山本さんになら気軽に伺うことができた.その意味で山本さんから受けた恩恵は少なくなかったと感じている.

 

生前,山本さんが残した書き物は『ロシヤ語ロシヤ文学研究』に載った「フラブルの文字の使い分け」や『三省堂言語学大事典』のウクライナ語の項目ぐらいで,その数はお世辞にも多くない.しかし,彼の魅力あるお人柄は小生や同輩諸氏の胸の中に残っている.恥ずかしながら故人との思い出の一端を紹介することでご遺族に対する弔意に代えさせていただきたい.

 

 山本さんは和歌山新宮のご出身で,東京教育大学(筑波大学の前身)で言語学を学ばれた.当時,同学言語学科は矢崎源九郎(俳優矢崎滋氏のお父様),河野六郎,太田朗といった錚錚たるスタッフを擁し,長いチェコ留学からお帰りになったばかりの千野先生も同学に奉職なさった.山本さんはここで千野先生からロシア語を中心としてスラブ語学の薫陶を受け,同学の廃止・移転に伴って千野先生がお移りになった東京外国語大学に転学なさったのだった.その後,山本さんは外語の修士課程を経て,早稲田の博士課程に進学なさる.故木村彰一先生のイーゴリ軍記の講義(於早稲田)には山本さん等の正規の学生に混じって,直野洋子さん,大平陽一さんらと一緒に聴講させていただいた.

 

 大学院生になる頃から,山本さんにはかなり親しくしていただいた.お互いのんべであることからお酒の席でご一緒したことは数限りない.何かのコンパの帰り,

「もう遅いから帰って寝ます」

という僕の手を引っ張ってタクシーに乗せ,池袋のストリップ小屋に連れて行かれたときは閉口した.

「僕,お金ないから」

とお断りしたものの

「いいじゃねえか.つきあえよ.金は僕がもつから.」

とおっしゃって無理やり連れ込まれてしまった.その後のことは故人と小生の名誉のためにもあまり詳しく書くべきではないだろう.その後,どうやって家まで帰ったのか,あまり記憶がない.

 

 また,別の折には確か茗荷谷の近くだったか,山本さんのお部屋にお邪魔したことがある.これも何かのコンパがお開きになった後のことだったと思う.うる覚えだが,当時「漫画アクション」という漫画雑誌に連載されていた「まんだら屋の良太」なるちょっとエッチな作品がいたくお気に入りで,

「コレクションを見せてやるから来い」

ということだったかもしれない.なぜ僕を誘ったのか,その経緯はまったく覚えていない.こんなお下劣な漫画を知っているのが僕ぐらいしかいなかったためだろうか.山と詰まれた同誌を前に,

「お前も好きなのを見ろよ」

と言って,畳にどっかとあぐらをかき,ひざに広げた同誌に目を落としながら悠然と杯を重ねる山本さんの姿が目に焼きついている.

 

 その後,小生が東海道を西下したこともあり,彼を襲った不運については寡聞のためほとんど知らなかった.深酒が祟ったのか,健康を害され,新宮にお帰りになったとは聞いていた.確か天理の大平さんか日野君からだったと思う.だが,その後のことは今でもよく知らない.機会があれば新宮を訪れ,ご遺族の方からお話を伺いたいと考えている.

 

 

 

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