シンポジウム
メディア・教育と役割語・発話キャラクタ

日時:2009328日(土)15:3017:30

場所:神戸大学百年記念館

 

文字化テキスト出典:

金水 敏(編)(2010) 『役割・キャラクター・言語―シンポジウム・研究発表会報告―』

科学研究費補助金 基盤研究(B) 「役割語の理論的基盤に関する総合的研究」

研究成果報告書(課題番号:19320060、研究代表者:金水 敏)

133-170

 

出演者:

金水敏(司会)
恩塚千代(江原大学日本学科招聘教授)
鄭惠先(長崎外国語大学外国語学部准教授)※(現・北海道大学留学生センター准教授)
太田眞希恵(NHK放送文化研究所研究員)

阿藤智恵(劇作家・演出家)

本浜秀彦(沖縄キリスト教学院大学准教授)

(発言順)

 

日本語教科書における“ヴァーチャルリアリティ”のすすめ

 

金水:今から、シンポジストの皆さまを紹介いたしますが、壇上に出てきていただければと思います。それではまず江原(カンウォン)大学で、日本学科の招聘教授の、恩塚千代さんです。お願いいたします。続きまして、長崎外国語大学のご所属で、この4月から北海道大学に移られる鄭惠先(チョン・へソン)さんです。それから、NHKの放送文化研究所から研究員の方で、太田眞希恵さんにいらしていただきました。それから、劇作家で演出家でもいらっしゃいます、阿藤智恵さんです。そして、沖縄キリスト教学院大学准教授の本浜秀彦さんです。よろしくお願いいたします。で司会は、わたくし金水がつとめさせていただきます。どうぞお座りください。

(一同着席)

進め方ですけど、さっきも言いましたけど、大変多彩で、いろんな方面でご活躍の先生方。本当はもうこのメンバーだけで一日中やっても十分なんですけれども、もう本当に申し訳ないですが、10分を目処にいたしまして、それぞれのご関心についてお話しいただきます。で、その後、フリートークにほぼ近い形で、いろんな話題をめぐってお互いに話していただきます。あるいは、フロアの方にも開きまして、一緒にディスカッションしていただけるかと思います。テーマといたしましては、要するに役割語なりあるいは発話キャラクタ、日常会話の中でスタイルの選択、といったようなことが、今まではわりと軽く見られていたところがあるんですが、例えば教育にとってどういう意味があるのか、あるいは放送といったメディアにどういうふうに入り込んでいくか、あるいは創作者の立場として、それをどのようにコントロールしているのかあるいはコントロールできていないのか、さらには表象するものとされるものとの関係として、一つのケーススタディとして、沖縄県民といいますか、沖縄人といいますか、言語もさることながらそれを超えて、キャラクター化していくということの意味合い・歴史性等について、話していきたいと思っています。

それではまず恩塚さんからお願いいたします。恩塚さん、ここにありますように、府立大学、大阪府立大学のご出身で、日本語教育に長く関わってこられました。

恩塚:ただ今ご紹介に預かりました、韓国江原(カンウォン)大学日本学科で勤務しております恩塚と申します。

私は今、ここにタイトルが出ております、教科書に現れる役割語の役割、ちょっと、教科書におけるヴァーチャルリアリティのすすめというおもしろいタイトルをつけさせていただきましたが、日本語教育の観点から、日本語の教科書におけるヴァーチャルな世界といいますか、先ほどの金水先生の話にもありましたが、役割語の扱いについて述べたいと思います。

まずですね、はじめに、韓国では、まあ本国日本より、多いのではないかと思われます多種多様な日本語の教科書が出ております。大学も大学評価のために、オリジナルな教科書を出しますし、韓国にいる日本語教員たちもまあ、こういっては失礼なんですが手軽な業績稼ぎということで、どんどん日本語教科書を出します。そうしますと、各出版社から、あのー、似たような教科書がでることになりますので、最近は特化した、他社とは違う教科書という、まあ皆が目指しております。そういう流れの中にあって、また韓国の学生たちが日本語を学び始める動機としても、以前とは違いまして最近はやはりアニメやゲーム、ドラマ、Jポップなどへの興味・関心が中心となっております。そうしますとそういった学習者のニーズもあって、えーまあ最近はやりのいわゆる若者ことばなども積極的に授業に取り入れて、教科書に取り入れようじゃあないか。というような、まあ動きが見られます。

私は、さっき言いましたように、ヴァーチャルリアリティとしての教科書の役割とは何か、そのことについて提案してみたいと思います。ではまずですね、え、韓国の教養科目「日本語」で使われています教科書。普通体が導入された後の第13課と第25課からの抜粋です。ちょっと見ていただきたいと思います。

ここに登場します太田と山田という人物の、まあ、性別というんですかね。それが、特定できますでしょうか。

まず25課です。山田が「スキーに行こう」と、「北海道へ行こう」と言われて、「飛行機に乗るのが嫌いなんだ」と言うのに対して、太田が「寝台車で行くから。寝台車というのは車内で寝られる電車のことだよ、大丈夫だよ。」と。すると山田も「そうだねえ」と答えております。

で、次の、これ、第13課です。ちょっと遡りますが、これあの実際の、13課に、載せられている部分ですが、実はこれ修正前の原稿がありまして。こちらのほうを見ていただくとよく分かると思います。えー、太田が、あ、いや、山田が風邪をひきまして、太田の方が、お見舞いの電話をかけます。「大丈夫?」という、まあ無標の、疑問文がありまして、「ちょっと寝てたから大丈夫よ、でも頭が痛い。」「あーそうなの。」でー、何か集まりがあって行けなかったんですね。「楽しかったでしょう?」というので、まー、「面白かったわよ。」え、「次は一緒に行こう、早く元気になってね。」「そうね」、「またね」というふうな会話です。

これを見られるとどうでしょう?これ、果たしてこの山田と太田が(さっきの人と)同一人物か、ということで。実はこれ、山田陽子さんと太田由美さん、どちらも同一の女子大生と設定されております。で、実はですね、この1課〜15課、さきにお見せしました13課は、実は私、当時40代後半でした私が執筆しまして、16課以降、さっきの25課ですね、は、あのー同僚の、日本人女性なんですが、当時20代後半だった女性教員が執筆したものです。それで、書き手のですね、20歳の年齢差がこの太田さんと山田さんのキャラに、見事にあらわれています。で、この13課だけではありません。他の課でも、私は、あの、たいへんこの、同僚の20代後半の女性から修正を求められまして。ええ、この「恩塚さん、恩塚先生、どうにかしてください、こんな「〜わよ、〜だわ」なんて、こんな言葉使ってる女性いません」て言われたんですね。

確かに今の日本では彼女の言うとおりかもしれません。今の若い女性の言葉が中性化というのかまあ、現実には男性化ですか、そうしたからといって、しかし、だからといって本当に、そのー、教科書の登場人物に性別は必要ないのか、ということですね。丁寧体の段階ではまあ、もちろんあまり男女差は見られないのですが、その日本語も初級後半で、先ほどのように、普通体が導入されるあたりから、多くの教科書では、男性の「かな」、というまあ、疑問文に対して女性の「かしら」、男性の「いいねえ」、女性の「いいわねえ」、あるいは男性の「そうだな」、「そうね」という終助詞の省略付加によって、男女の使い分けが現れ、現れ始めます。

(プロジェクターの画面転換が遅れる)すいません、遅れました。

ちなみに、あのーこちらにおられます、鄭先生の、鄭惠先先生の、韓国では、こういった微妙な女性、男性の、差がないということで、ちなみにこういって、教科書では書き分けても、韓国語訳は差がないように翻訳される場合が多いです。

で、今言いましたように、申しましたように、男女差の使い分けは必要ないのか。ということなんですが、このー、ちょっと例を見てください。えー、「ここが南大門です。」というコピュラ文がありますね。疑問文に変えて、普通体に変えた場合、文法規則では、「ここが南大門か」ということになります。しかし、ね、それこそ、話題になってますが、アニメの男まさりのヒーローでもない限り、ね、ちょっとこの、鎧を着たような女性ヒーローがでてきますね。「ここが南大門か」そういうような状況でなければ、普通女性であればやっぱりこれが使えない。それで一般的に教科書では「か」が落ちまして、無標の上昇イントネーション、「ここが南大門(↑)。」いくら、ま、最近の女性がそうだとは言っても、教科書において男女差を教えなければならない場面が出てくるわけです。で、まあテキストとしての教科書としての役割ですが、すべての学習者が、その対象となる言語の、その国に直接行って習得できるわけではありません。ほとんどの学生は教科書を通して、学ぶことになります。そのとき書かれたテキストの教科書としての役割っていうのは、いかに学習者に負担を少なくして、なおかつ後々応用の利く対象言語の基本枠を提示するということだと思いますね。次に、そこで、私の言いたいことは、応用使用できるようなヴァーチャルな世界を提供するべきだ、つまり現実をそのまま教科書に映しただけでは、それは教科書とは言えない、ということを言いたいわけです。

次の例、これは他の教科書ですが、えー、さらに中級から上級、超上級用の教科書です。まずこの第37課。タラグォン(darakwon:韓国の出版社名)から出てます「日本語ステップ5」という、フリートーキング用教材です。ここに出ておりますように、えー、ま、夫婦の会話なんですが、圭介さんというご主人が「おい、ビール切れてるぞ。」、ね、「お前の仕事だろ」、ね、「やめろ、仕事やめるんだろうな」そういう発話に対して、奥さんの恵さんは、「待っててー。」「頼まれてくれる?」「〜じゃない」ね、「あなた、お金の問題じゃないでしょ」。ま、こういった典型的な男女の、語尾の書き分けがなされています。ちょっとフェミニストの諸氏からするととんでもないご主人なんですが、ま、ここでは要するに、共働きという場面で夫婦がけんかするというシーンですので、あえて男女を表すキャラ語尾を、ま、明確にー、使用されていると思います。

次はですね、これがまたさらに進みまして、ま、ちょっとドラマ仕立てになったような教科書。が、もうここに至りますと、まさにあのー、ここにいらっしゃる金水先生の、金水(2003)役割語。つまりお姫様だったり、まあ、きざな男や老人などが登場してきて、発話者が特定できるようになっております。ま、ここは乙姫がですね、まあちょっととんでもない設定なんですが、孫悟空と結婚したいんですね。お父さんである龍王に話す。「もう、悟空さんはじれったいんだから」「お父様、お話があるの。」最後は、「お父様って悟空さんより石頭なんだから」こういうことでしめくくっております。

で、これは、同様にですね、いじめと学級崩壊というテーマで。ここに至りますと、超上級用の日本語、討論用の教科書なんですが、まさに、あの、やくざな言葉、あるいは若者語といったものが出てきます。「今日は約束守るって言ったじゃねえか」、「一言も言ってねえぞ。」えー、まあ、学生Bが要するにみんなに脅されているんですけども、いろいろと。「ばれないようにやればいいじゃん」と言ったところに先生がやってきて、「誰かチクったりしてねえだろうな。」しかも教科書には滅多に現れないような舌打ちですね、「チェッ」「あの先公、今度痛めつけてやる。」ま、こういうのが教科書にも。

それでですね、私は、まあ常に提案しているというのは、要するに目的別教科書の役割ということですね。もちろんゼロ初級者に、今のようなドラマ仕立てのロールプレイ用教材を選ぶ教師はいないわけで、また反対に、日本語学習歴が300時間を超えて、これから日本に留学しようという学生に、平仮名から書いたような教科書、ね、は必要ないわけです。で、まあこういった教科書というものはそれぞれの学習の場で、学習者のニーズと学習段階に合わせて選ばれているわけですね。で、それがさらに進みまして、先ほどお見せしましたような超上級用になれば、必ずしも表出できることを目的しない、理解言語としての日本語までが含まれてくるわけです。でまあ、それらの教科書の場合は、この人物設定や背景設定に、日本語母語話者が、普通に接する役割語というのが用いられてくるようになります。で、まあ私自身はこの段階に至れば、もうホント細分化された、目的別教科書、さっきも、最初に述べました特化された教科書、が必要だと考えています。つまり時事日本語をはじめとしまして、例えば方言。私も大阪出身ですので、大阪弁入門、あるいはアニメや漫画などのサブカルチャーを理解するための若者ことばを、特定したような教科書があってもいいと思うんですね。

ところがですね、さっきも言いましたように、さきほどの風潮としまして、あのー、昨今の風潮としまして、学習者も教師も安易に、実際に使われている、生きた日本語、生きた日本語というわけですね。で、たとえば、このー生きた日本語、まあ、若者言葉を例にとりますと、この若者言葉がもっている、没TPO、没待遇性、没キャラクター性の危険性を、わたくしたち教師は知っておかなければいけません。といいますのは、日本の若者は、まあ日本語母語話者として、没TPOじゃないんですね。えー、だから若者言葉を使ってますけれども、当然、相手によって、状況においては若者言葉ではない言葉も使えるわけです。ところが若者言葉を教科書で学習した、外国、あえて外国人と言いますが、まあ日本語母語話者ではない、学習者はどうでしょうか。えー、そのTPOに合わしたコードスイッチができない。と考えておかなければいけないんですね。最近の言葉、たとえば、例をとりますと、まー「やばい」っていう言葉がありますね。「やばい」っていう言葉が否定的な意味から肯定的な意味に変化した経緯は秋月(2005)などにも詳しいんですがー。最近の学生さんに、おいしいもの食べさせますと、あの、日本人の学生ですとね、「先生これやばいっすよー。」(笑)じゃーこの発話、生きた日本語、「やばい=おいしい」と習得した学習者は、この使用意味の限界をどう、いかにして学ぶのでしょうか。だからまあ、ただただ生きた日本語をそのまま教えればよいということではあまりにも無責任で、ひいては生きた日本語という、その場面に合わないところでは使うことさえできなくなるわけです。

で、まあ私たちが大学や大学院などで、の高等教育機関で教授対象としている学習者は、単に日本語がしゃべれればいい、今、言った、生きた日本語が、間違っても相手が誰でも、しゃべればいい、ということではありません。これは次の鄭惠先先生のお話にもちょっと重なるかと思いますが、えー、のちのち文学作品、脚本などを理解して翻訳する立場になるかもしれません。そういった学習者に、私たちはその発話の象徴性機能というものを理解できる日本語を、教えるプロとしての自覚を持つべきだと思っています。

まとめとしまして、教科書といいますのは、先ほども述べましたように、学習者のレベルや、この目的に合ったそれぞれのヴァーチャルな世界を提示して、目標言語の習得に導くものですね。主となる言語情報ですね、まあ、文法や語彙、音声学的要素に加えて、学習のレベルやニーズに合わせたヴァーチャルな日本語というのが必要だと思います。で、ヴァーチャルな日本語というのは、決して現実から離れた、あり得ない日本語ではありません。このTPOに合わせた応用の利く、そういう世界を知ることで、のちのちの真の生きた日本語が使えるようになる、とも思っております。

ご静聴ありがとうございました。

(拍手)

 

役割語を通しての翻訳のスキルアップ

 

金水:それでは続きまして、鄭惠先さん、鄭さんは実は府立大で、恩塚先生と、同窓であると。(鄭「後輩」)あ、はい、後輩ですね、強調されましたが、鄭さんは翻訳、そしてまた教育というその二つの面からお話しいただきます。

鄭 :長崎外国語大学(現・北海道大学)の鄭惠先です。よろしくお願いします。今日は「役割語」教育を通しての日韓翻訳のスキルアップというテーマでお話しさせていただきます。まず最初に、これまで私の方で取り組んできた、日韓対照役割語研究について少し、その内容と結論というのを紹介させていただきまして、そのあと、08年から留学生対象の上級日本語クラスの中で実践していた日本語役割語教育の授業内容、それからその成果についてお話しさせていただきます。これまでの研究内容なんですけれども、えーっと、一つ目は小説・漫画などの日本語版と韓国語版を対照して分析を行いました。で、その結論としては、以下の三つにまとめることができます。同一箇所であっても対訳作品の言葉づかいから受けるイメージは、両言語での間で必ず一致するものではない。それから日本語役割語では性別的な特徴、韓国語役割語では年齢的な特徴が表れやすい。あと、日本語でも韓国語でも、方言というのは人物像を連想する重要な指標となって、十分に役割語的な要素として働いている、というところです。

二つ目の研究内容ですが、役割語知識の調査ということで、両言語話者が役割語をどのぐらい共通知識として認知しているのか、その程度を調べてみました。その結果、日本語母語話者の、役割語に対する共通知識化がより進んでいること、あと、韓国語母語話者の役割語に対する刷り込みが、割と弱いということが分かりました。あと、韓国人日本語学習者は終助詞などの言語形式をマーカーとして日本語の役割語を理解する傾向が強い、ということも言えると思います。

三つ目の研究内容ですけれども、日本語と韓国語の方言イメージについての調査です。方言というのは役割語としての、重要な要素となることを先ほどお話ししましたけれども、自国方言に対する認知度という面では、両言語話者間に、差がありました。あと、両言語間に共通する方言イメージがあるというのも分かりました。

それから韓国人日本語学習者の日本語力というのと、日本語方言への知識というのは必ずしも比例するものではない、という結論も出されました。

で、これからのお話なんですけれども、以上の研究結果をもとにして、今現在は、日本語教育現場での役割語教育への導入について考えています。今日はその実践方法と結果についてお話しします。まずその背景ですが、アニメやドラマなどを通して日本語に接する韓国人日本語学習者が非常に増えてきているということ。それから翻訳、日韓翻訳も韓日翻訳も増えてきていて、そういった翻訳者の役割語に対する正しい知識と理解が、翻訳したそのものの質を高めていくんだ、という背景があります。ですが現状として、上級レベルの学習者であっても、役割語についての知識は母語話者に比べてかなり低いというのが、先ほどご紹介した研究結果からも分かります。あと、先ほどの発表でもありましたけれども、役割語というのは学習者の使用語彙になりにくく、やっぱり学習項目として重視されていない、というのが現状と言えます。

そこで、私は自分が担当している上級日本語クラスで、役割語教育というのを行ってみました。その詳細は御覧の通りです。まず対象は日韓翻訳演習という科目を受講している4年次韓国人留学生7名です。期間は、2008年の7月に3回、10月に2回で行いました。目的は、役割語知識を養い、日韓の翻訳のスキルアップを図るということで、その方法は、導入、考察、確認、応用の4段階です。まず、導入では、学生の注意喚起とレベル確認のための「役割語当てクイズ」を実施して、それから用法を説明、役割語という用語を説明し、関連する先行論文などを購読しました。で、そのあと人称代名詞、終助詞、方言などその典型的な役割語形式を例示した上で、役割語使用について学生同士が意見交換を行い、役割語学習、役割という用語についての認識を高めて、学習の必要性を認知してもらうように努めました。

次の、考察という段階ですけれども、ここでは、私のほうで作成したレジュメをもとにして、日本語のバリエーション、例えば、性別、世代、時代、それから地域などと、バリエーションを表すマーカー、人称代名詞、文末・フィラー・キャラ助詞・音声変化・敬語・方言などです。で、こちらについて私の方で講義を行い、それから学生同士討論をするという形で考察を行いました。

三つ目の確認では、両言語原作の漫画を、対訳版で実際照らし合わせながら、議論を行いました。その中で、ポイントとしたのは、一つ、考察のところで一緒に見てみた特徴的な形式を一緒におさらいする。二つ、役割語翻訳が無視された作品での問題点をチェックする。それは、心理的ギャップだったり、情報不足だったりするんですけど。それから、問題解消のためになされた工夫をチェックする。それは、日本語の方言に韓国語方言を当てたり、あるいは敬語とか類似形式などを活用したりしたようなものです。それらを一緒に見て、いいとかわるいとか、そこからうける印象とかについて議論を行いました。ここで役割語翻訳の難しさと重要性というのを再認識することができたんじゃないかと思います。

最後の応用という段階ですけれども、まあ、これまでの段階というのは基本的にこの応用を学生にやらせるためのものでして、学生みずから創作・翻訳作業を行うというものです。自分で直接、架空の登場人物を設定して、韓国語と日本語で台詞を書いてみること。あるいは、韓国語による作品を自由に選び、自分でそこに日本語訳をつける。日本語による作品に韓国語訳をつける、というのを学生に課題として課した結果、いろんな、面白いのを出してくれました。例えばご覧のようなものです。大阪出身と長崎出身の二人の女性のおしゃべりを、まず自分で創作して書いて、でそれを韓国の方言にあてて韓国語訳する。あるいは、日本の映画での武士と下人の会話を韓国語訳する。あるいは韓国のドラマの上司と部下のけんかのシーンを日本語に訳してみる。学生はいろいな工夫をしてレポートを出してくれました。

これはちょっと見にくいかもしれませんが、中にはこういうちょっと凝った作品を作ってくれた学生もいまして、もともとの韓国語原作漫画、こちらの方が韓国語原作の漫画なんですけれども、これの吹き出し部分に自分で日本語を書き込んで、ご覧のようにきれいな日本語版を作っているんです。最初、私はどちらが原作なのかちょっと分からないほどでした。文字の大きさやフォントの種類を変えたり、ビックリマークとかいろんな記号をこう上手に使い分けて、なんかそ、見た目からの印象をすごく大事にして作ってくれたな、という印象を受けました。

以上の役割語教育の実践から次のような効果が得られたと思います。まず、役割語の知識の面では、不完全ではありますけれども、「かい、のう、ねん、ぞ、のよ」などの終助詞をはじめとする多様な、役割語を使いこなすことができたのではないかということです。つぎに、日本語を韓国語に訳す際に役割語翻訳におけるさまざまな工夫が見られて、本実践が日韓翻訳のスキルトーレーニングとして大いに役立ったということが分かりました。あと、役割語の学習意欲の面では、「日韓翻訳」という領域の中で役割語が持つ意義を強く意識することができー、日本語役割語学習はもちろん、韓国語役割語への学習意欲も高まったのではないかと思います。

今回の実践にとどまらず、これからも、日本語教育の一学習項目として、より積極的に役割語を取り入れていきたいと、考えています。そして、その一つの方法として、ただいま私の方で考えているのは、オンライン上の相互学習支援システムの構築というものです。これにより、日韓両言語学習者への役割語相互学習の効果を高めるというだけではなく、データ収集を充実させることによって、役割語研究へのフィードバックもできるのではないかと期待しています。あと、日本と韓国の両地域を結ぶネットシステムということになるんですけれども、役割語というものが、そもそもその社会言語能力に密接な言語形式であることを考えると、このようなネットコミュニティでの、両言語母語話者間の共同活動というのは、役割語習得と対照役割語研究の両面で非常に効果的だと言えるのでないかと思います。

最後になりますけど、泉子・メイナード(2005)によると、上級の日本語教育では、教科書にでてこないスタイルの日本語を取り入れることで、バリエーションに富んだ日本語の姿を示すことができる、方言を含む日本語のいろんな種類とその使用状況を話し合う機会を持つことが有益である、ということばがあります。まさにその通りだと思います。それで、より応用力を高める日本語教育、それから言語文化能力を養える日本語教育という観点からみて、役割語というのをキーワードにすることは非常に意義のあることだと思います。以上です。

(拍手)

 

スポーツ報道テロップの中の役割語

 

金水:続きましては、放送に直接携わってこられました、太田眞希恵さんに、現実に、放送されたテクニック、その放送テロップの中でのいわゆる役割語的な、特に今日は性差の問題、ということでお話しいただきます。

太田:NHK放送文化研究所で、放送用語の研究をしております太田と申します。よろしくお願いします。私からはテレビのノンフィクションの分野、特にスポーツ関連のニュースや番組の中での翻訳テロップにおいて、役割語がどのように使われているかということについてお話をさせていただきます。私は、今は放送で使う言葉の研究をしているんですけれども、2年前までは、主に報道を中心とする、ドキュメンタリーや情報番組を制作するディレクターをしておりました。ですから、今日はテレビ番組を制作する側と、言葉を研究する側との両方の側面から、お話ができるかと思います。

テレビの翻訳テロップというのは、外国人が外国語でしゃべっているときに、その内容を視聴者に伝えるために日本語訳を字幕で出すものです。画面の下に2行ほどで出すことが多いんですけれども、この翻訳テロップにどんな役割語が使われているのか、言いかえれば、どんな言葉遣いで日本語に訳されているのか、訳すべきなのかっていうことについては、これまで放送現場の中ではあまり話をしてきたことがないと思います。テレビ画面に出す文字テロップというのは、文字数に制限がありまして、NHKでは視聴者の見やすさや理解しやすさという面から考えて、横書きですと116文字ぐらいまでをだいたいの目安としています。放送現場にいた時の経験から言うと、118文字ぐらいになるとかなりきついなっていう感覚です。そして、116文字で2行のテロップがあった場合には、だいたい78秒は画面上に出しておかないと視聴者は読み終わらないだろうと。だから、その時に使うインタビューの秒数によって、何字で何行のテロップを何枚画面に出すことができるかということを考えながら、ディレクターはテロップの日本語訳文を考えるわけです。これはある意味テクニカル的なことになるわけですが、そういう部分については、放送現場の中でも今お話ししたような目安があります。しかし一方で、そのテロップの翻訳文にはどんな言葉遣いがいいのかということについては、決まりとか目安というのが特にないんです。実際には、ディレクター個人個人がそのときの放送に合わせて、各自「これが一番いいんじゃないかなー」と思うものを、文字数とか読みやすさとか、そういったものとの兼ね合いの中で、選んで考えていくというのが現状です。

ですから、例えば、こんなテロップが時には放送に出ることもあります。

(テロップ「うまいね 最高だよ この辛さがたまらないんだ」)

(テロップ「毎日暑くていやになっちゃうわ 地球はどうなっちゃってるのかしら」

非常に役割語的なテロップだと思います。こうした訳し方については賛否両論あるようです。「“〜かしら”なんていうしゃべり方をする若い日本人女性は、今どきほとんどいない。そう考えたら、外国人だからといってそんな言葉遣いをさせるのはおかしい。」と言う人もいるでしょうし、「外国人っていうのはこんな感じでしゃべるんじゃないか。」と言う人もいると思います。制作する側にもやはりいろいろな考え方の人がいるわけで、そのときの企画の内容とかにもよりますが、そのときの担当ディレクターの個人的な嗜好・好みなども反映されたうえで、また、文字数なども含めいろんな制限がある中で、そのときに一番いいだろうと判断されたものが放送に出ている、というのが実態だと思います。ただ、今のような訳は極端な例ですので、実際には、ノンフィクションの分野にそんなにたくさん出てくることは、あまりないと思います。特にNHKでは、ニュースとかドキュメンタリーというノンフィクションの分野では、過剰な演出はしない方がいいという不文律というか、制作者の中での意識みたいなものがあるので、こういう例は、全体の中で見たら、多分そんなに多くないと思います。

ただ実は、ある分野ではこういった例が、頻繁に使われているものがあります。それが、スポーツの分野です。去年は北京オリンピックがあったので、なぜスポーツ分野で多いのか、どんなふうに使われているのかということを、実際の放送事例を集めて、分析してみました。まずはVTRを御覧いただいた上で、お話をしたいと思います。NHKで放送した北京オリンピックの総集編の中から抜粋した外国人選手のインタビューです。

(ビデオ流れる・テロップ内容:「みんな愛しているわ」「世界記録かどうかはどうでもいいことさ オリンピックチャンピオンに なることが大事なんだ」「オレがNO.1 オレがNO.1」「レースごとに調子が上がっている オレは強いんだ 気分がいいぜ」「なんて言ったらいいのか 言葉が見つからないよ すべての瞬間がすばらしい経験だった 一生忘れることはできないよ」「私たち2人の行動は 政治家たちへのメッセージでした 早く戦争をやめてほしいと 彼らの理性によびかけたのです」

今、御覧いただいてちょっと笑いが出たように、文末が「〜(なん)だ」「〜よ」「〜さ」という役割語的な翻訳が多いとお感じになったかと思います。たとえば一番最初に出たロシアのイシンバエワ選手は、「棒高跳びの女王」と呼ばれることが多かった選手です。ここでは「フィールドの女王」と右上にサブタイトルが付いていますけれども、このような「女王」と呼ばれるような、その競技の頂点に立った女性選手については、女性語で訳されていました。一方こちらは、陸上男子100メートル、200メートル、4×100メートルリレーで世界新記録を出して金メダルをとった“世界最速の男”であるウサイン・ボルト選手です。スーパースターであるウサイン・ボルト選手ですと、文末が「〜さ」という言葉遣いになっていたり、「オレがNO.1だ」の「オレ」という語が使われたりしていました。また、もうひとりのスーパースターである、水泳で8冠を達成したマイケル・フェルプス選手のインタビューも、「〜できないよ」というふうに「〜よ」という助詞を付けて訳されていました。そして、ここが一番皆さんの笑いをとったところだと思いますが、ダーレオーエン選手(ノルウェー)の「オレは強いんだ 気分がいいぜ」というインタビューは、男性語満載です。これは日本のエース・北島康介選手を追い詰めてきた選手だったんですが、いわゆる“ライバルキャラ”となっていまして、番組ではそれを際立たせる翻訳文が付けられていたということです。このように見ていただくと、やはり「女王」とか「スーパースター」といった呼び名がつくような、キャラクター性の高い選手には役割語が出ることが多いというのが分かると思います。今回、そのデータを分析したわけですが、その結果、役割語が出てくるキャラクター、人物像には5つのパターンがあることがわかりました。1つ目は「男性のスーパースター」、そして2番目が先ほどもご紹介した「女王といわれるような女性選手」、3番目が「ライバル対決」に出てくる選手です。この辺りは男性語、女性語が非常に多く使われます。4番目にあげられるのが、「濃いキャラクター性」のある人物です。これは競技選手としては必ずしも強いというわけではなくても、非常に個性的な選手というケースです。例えばすごく親しみやすいキャラクターだったり。そういう選手にも、文末にちょっとした「〜()よ」というような役割語としての助詞が使われます。そして最後に挙げられるのが、「競技者としての“弱者”」です。スポーツ競技者としては恵まれていない環境で練習してきたという背景や社会事情があったり、直面した困難や苦難を克服しようと努力してきたりした人で、今回の例でいえば、先ほどのVTRの最後に出てきたグルジアの選手がそれに当たります。オリンピックの期間中に戦争が勃発したわけですが、そうした中で平和を訴える姿が描かれていました。ほかには、オリンピックを目指している途中に事故で障害を負ったけれども、それを克服してオリンピックに初出場したという選手もいました。そういった選手のインタビューには「ですます体」が使われることが多く、それが“弱者の思い”“弱者の訴え”であるということを表す記号、すなわち役割語としての働きをしているという面がありました。

今ご覧いただいたように、テレビのオリンピック関連放送では、このような「人物像」において、役割語的な翻訳テロップが出てきました。ただ、テレビの翻訳テロップで使われる役割語を考えるとき、この「人物像」だけで語るのはちょっと不十分だということも分かりました。そこで、もう一つ、注目すべき要素があるんですが、それが「場面」です。どういうことかと言いますと、例えばスパースターであるフェルプス選手の翻訳テロップでも、いつもいつも男性役割語が使われて訳されているわけではないということです。つまり、テレビ番組の制作者は、その場面によって、また、しゃべり方によって、役割語の使い分けをしているということなんです。例えばこちらは、記者会見でフェルプス選手がしゃべっている場面なんですけれども(テロップ「チャレンジするのが好きです わくわくしています」)、ここでは「ですます体」が使われています。記者会見というこの場面では、フェルプス選手は座った姿勢で、記者からの質問に淡々と答えています。制作者としては、そういう場面では「ですます体」のしゃべり方が似合うというふうに判断して、こういった形で訳されているんだと思います。一方で、先ほども出ましたけれども、こちらは同じフェルプス選手が、8つ目の金メダルを獲得した直後のインタビューです(テロップ「すべての瞬間がすばらしい経験だった 一生忘れることはできないよ」)。この場面では、フェルプス選手は立ってインタビューに答えていますし、会場も、そしてフェルプス選手自身も史上初の8冠達成という事実に興奮しています。そうすると口調も非常に早口になるわけです。制作者としては、翻訳テロップを作る際には、やはり、その口調や雰囲気を文字でもなんとか表現したいというふうに思ってしまうんですね。そういうときに、非常に分かりやすい記号として使えるもの、文末に1文字さえつければ、なんとなくそんな雰囲気を伝えることができるというのが、「〜よ」とか「〜さ」といった助詞であるわけです。そんなことも、今回分かりました。

実は、この「場面」によって役割語の使い方に違いが出てくるということが、最初にお話をした“なぜスポーツ放送のテロップには役割語訳が多いのか”ということに関係してきます。これも今回、データを11つ確認し分析してみて気づいたことではあるのですが、テレビのスポーツ放送に出てくる外国人のインタビューというのは、勝利者インタビューが圧倒的に多いんです。勝利者インタビューのときには、先ほども申しましたけれども、選手自身も感動し、興奮していますし、早口でしゃべっています。それに合わせて翻訳テロップを作るとなると、どうしても「〜なんだ」「〜さ」「〜()わ」「〜よ」などの役割語が登場するテロップが多くなる、ということです。つまりディレクターというのはテロップを作るときに、そこに出てくる、その話者のキャラクター、人物像っていうものを参考にすると同時に、ほかにも映像の雰囲気ですとか、場面ですとか、しゃべっている人の口調など、そういったものを総合して、そこで一番ふさわしい言葉遣いっていうものを探していくということです。その中で、必要であれば、役割語がついてくるんだと思います。ただこれにつきましては、「人物像」「場面」のほかにもいろいろな影響があるとも考えられます。また、どんな時に、どんな人物に役割語が必要だと判断するかという点については、やっぱりディレクター個人個人によっても違うと思います。ですから、人によっては、それが、人種的なステレオタイプとか、男性・女性という性差のうえでのステレオタイプとか、そういったものに影響されるということもあるかもしれません。そのあたりについては、現時点では私は語るべきデータを持ち合わせていないので、今後研究を続けていければとも思っています。そしてやはり、テレビというメディアの社会への影響ということを考えると、それは非常に大きいと思いますので、今後、制作者サイドも巻き込んだ形で考えていければとも思っています。ありがとうございました。

 (拍手)

 

現代演劇と役割語―作り手の立場から

 

金水:それでは次は、先ほどは放送関係ということで、発信者ということなんですけども、今日の中では一から作品を作っていく、その作り手としての劇作家の阿藤さんに来ていただきました。阿藤さんはですね、ここにありますように大阪生まれの方なんですけども、演劇としては、いわゆる標準語の枠の中で、今まで作ってこられているかと思います。阿藤さんとは対話の形で少し、いくつか伺っていこうかなと思うんですが、代表的な御作品として二つありまして、この『セゾン・ド・メゾン〜メゾン・ド・セゾン』という作品と、それから『中二階な人々』。で、前者の方はですね、比較的抽象的な場面、場面、舞台設定で、同じ女優さんがいろんな役を演じていくんですが、ここで私がすごく面白いなーと思ったのは、成人の女性なんですけれども、これが小学生、中学生、子どもの役で、そこでは演じてらっしゃって、かつ、子どもたちがごっこ遊びをしていて、いろんな人物になるという、そういうシーンなんですね。すごく面白いシーンです。まずは赤ちゃん言葉ですね。

 

女2  あんた、あとからなったんだから赤ちゃんになりなさい。名前は、みどりちゃんよ。

女3  わかった。

女2  赤ちゃんは、ここのベッドで寝ているのよ。それで、ときどき、泣くのよ。

女3  わかった。

女4  赤ちゃーん。お姉ちゃんでちゅよう。ばー。

女2  あかねちゃん、みどりちゃんをよろしくね。お母さん、出かけるわ。

女4  どこに行くの?

女2  遠くよ。

女4  遠くって、どこ?

女2  どこだっていいでしょう。

女3  おぎゃー、おぎゃー。

女2  ほら、あかねちゃん、みどりちゃんにミルクあげてちょうだい。ほら。ね。

女4  赤ちゃん、ミルクよ。ほーら。

 

女2、「玄関」を出て、そのまま退場。

 

女3  ごくごく……。

女4  ほーら、お腹いっぱいになったでちょう。よかったでちゅね。みどりちゃん。

 

金水:次は、同じ子どもたちがですね、今度は「スイヘイリーベーボクノフネ…」って元素の周期表の覚え方ですね。「スイヘイリーベー」って、本当の水兵さんとリーベさんになって、水兵ごっこをするという、ここはちょっと宝塚口調のような感じもします。

 

女4 お姫さま。

女2 (振り向き)あ。

女4 どうしてそんなに寂しそうなんですか。みんなみたいに踊らないんですか。

女2 そんな気にはなれないわ。

女4 どうしてですか?みんなあんなに楽しそうじゃないか。

女2 これから行くところはワタクシの知らない国です。ワタクシは国に決められた方のところに嫁ぐのは嫌なのです。

女4 きっと大切にしてもらえますよ。あなたはそんなにきれいなんだもの、きっと国民に愛してもらえますよ。

女2 (首を振り)いいえ。ワタクシは自分で決めた方のところに嫁ぎたいのです。……あなた、名前は。

女4 リーベ。

女2 そう。リーベ、あなたは踊れて?

女4 え…たぶん…

 

金水:この劇はだいぶん人工的な、作られた感じがするんですが、次の『中二階な人々』っていうのは、ホントにありそうな、なんか逆にこうリアルな感じのする、男性と女性が出てくるんですけれども、あまりその性差が際だたせられていない、いかにもありそうだなっていう感じのシーンです。

 

キノシタ            もうちょっと、飲んでもいい?

ハシモト            いいよ。

キノシタ            ちょっとつきあってくれる?

ハシモト            うん。

キノシタ            ……(ハシモトのグラスに梅酒を注ぐ)。

ハシモト            ありがと(氷を足し、かきまぜる)。

キノシタ            最近ね、ちょっと考えちゃう。この生活、どうしようかなって。

ハシモト            この生活って。

キノシタ            ハッシー、彼女に言われない?なんか。

ハシモト            え?

キノシタ            あたしね、最近言われんの。男と暮らしてるのはヘンだって。

ハシモト            彼氏に?

キノシタ            うん。

ハシモト            男と暮らしてる?

キノシタ            うん。

ハシモト            誰が男と暮らしてんの?

キノシタ            あたしよ。

ハシモト            男と暮らしてる?

キノシタ            うん。

ハシモト            誰と?え、俺たちのこと?

キノシタ            そ。

ハシモト            え、でも、そんなんじゃないじゃん。

キノシタ            ん、でも。

ハシモト            男と暮らしてる?やだな、なんか、キモチワルイこと言うなぁ。

キノシタ            そうなんだけど。

ハシモト            ええ、そんなこと言うの、彼氏?

キノシタ            うん。

ハシモト            嫌だって?

キノシタ            いやだって言うんじゃないけど、ヘンだって。

ハシモト            ヘン? ってことは、嫌がってるってことだ?

キノシタ            ……うん。たぶん。かなり。

ハシモト            キノの彼氏って前遊びに来たことあるあの人?

キノシタ            え?

ハシモト            なんかずっと前に来たことあるじゃん。背の高い。

キノシタ            ……ああ、違う違う。もうあれはもうずっと前の人だよ。

ハシモト            そうなの、俺、会った事あるっけ?

キノシタ            ない。

ハシモト            最近なの。

キノシタ            うん。最近ってほどでもないけど…半年くらいかな。

ハシモト            そうかぁ。ちょっと待ってよ……(と、キノシタをじっと見る)。

キノシタ            何。

ハシモト            いや、キノの彼氏の身になって考えてみようと思って。

キノシタ            ……

ハシモト            や、だめだ、わかんないや。もう近すぎるし。そんなんじゃないもんなぁ。

キノシタ            うん。

ハシモト            男と暮らしてる、かぁ。

キノシタ            うん。

ハシモト            ヘンなの。

キノシタ            うん。

ハシモト            でも、そうかぁ、そういうことになるのかぁ。

キノシタ            うん。

ハシモト            彼氏、嫌がるのか。……困ったね。

 

金水:まず、『セゾン・ド・メゾン〜』の方からお伺いしたいんですけども、すごく楽しいシーンで、その赤ちゃんことば、それから、船乗りことば、そしてお姫様ふうの言葉遣いでしたけれども、演出としてなんかすごくやっぱり宝塚風に作られていましたけれども、やっぱり作っていく中でどんな感じでイメージしながら作られてたんでしょうか。

阿藤:あの作品は、私が演出ではないんですけれども、「リーベ」役をなさった女優さんが、ああいう宝塚っぽいミュージカルをやる劇団の出身の方なんです。上演が決まって、キャストが決まってから、そういう女優さんがやってくださるなら、こういうシーンを書けばすごく格好良くできるんじゃないかな、声も男の人みたいにいいし、と思って書き足したシーンです。演じ手に当てて書く、いわゆる当て書きというんですけれども。

私、今、いろいろお話を聞きながら、脚本の言葉というのは、作家から、役者さんとか、演出家に対して、このシーンはこのタッチで演じてほしいっていうメッセージでもあるなーって思ったんですね。あの『セゾン・ド・メゾン〜』という作品は、いろんな不条理的なシーンとか子どもの時の回想シーンとかが、どんどんどんどん変化していくので、そのシーンごとに言葉遣いを変えることで、パンとタッチを変えてくださいっていうことですね。

金水:ですからあ最初の方は、女性4人が出てきて、みんないわゆる典型的な女性ことばを使ってますよね。大阪弁話者としてああいういわゆる標準語の女性ことばを書くっていうのは、苦労とかそういうのなかったですか。

阿藤:はい、私は今、たまたま自分の芝居を見たせいで、標準語的なものを喋ってしまってますが、ホントは大阪ネイティブで、東京に行ってから、書き始めたんですよね。過去に一回だけ大阪弁のキャラクターを出してほしいって強く言われて書いたことあるんですけど、逆にその方がすごく難しかったです。半分外国語みたいなもので書いてる方が、とても書きやすいんです、私は。最初は俳優の勉強をするために東京に行ったので、まず大阪弁を直しなさい、って言われて、標準語を話そうと頑張りました。自分の知ってるいわゆる標準語というのは、子どもの頃から読んでた物語に出てくる言葉なもので、ああいうお姫様ことばのようなものが書くときに出てくるのはすごく自然なんで。

金水:逆にこの『中二階な人々』の場合は、本当にリアルな、若者に対する群像という感じがして、台詞もすごく、自然な感じなんですね、これはどういうイメージで書かれたんですか。

阿藤:その、いわゆるホントの現代口語みたいなものの方がすごく私にとって新しい、東京に来て初めて知った言語ですね。あれはホントの30歳ぐらいの俳優さんたちに30歳の話書いてほしいって言われたところから最初始まってるんです。当時、私は32歳ぐらいなんですけど、普通の30代の、いわゆる現代口語っていうものを自分が持っていなくて、彼らとしゃべっていると外国人としゃべっているんじゃないかと思うくらいすごく面白くって。男の子も女の子もほとんど変わらない、ということなんかも非常に面白かった。ああホントの人たちってこうなのかって思って、それをやりたかったっていう感じ。だからそれぞれの役をどちらがやってもいいというふうに、今ご覧いただいた、「キノ」と「ハッシー」というキャラクターも、キノが男でハッシーが女でもいいし、ハッシーが男でキノが女でもいいし、というふうに、役者、現場でどうにもしてくださいというふうに書きたくて書いた。意図的にそれを書いてる、実験的なものです。

金水:じゃあ、もう最初からどっちにしてもいいように、性別は取り替えられるような形で書いてる。

阿藤:そのことが当時の私にはすごく面白くて。

金水:逆にそれが、阿藤さんにとっては実験的な試みだった。

阿藤:これ、『中二階な人々』っていうタイトルなんですけど、中途半端な今の若者みたいなことが書きたかったんです。この中に、ある人物が、ほんとうは男性なんですけれども、「お前、女じゃなかったの?」とか言われてちょっと混乱しちゃうっていうようなエピソードが出てきますが、男と女にしても、大人とこどもにしても、その境界線がない、いろんなことがはっきりしないっていうふうなことが全体のテーマなんですよね。で多分、ことばの男女差が少ないっていうことなんかも、テーマとして意識していたのではなくて、ただ面白いなと思っただけなんですが、最終的にはそのテーマにつながっているんだと思います。

金水:なるほど。で、最新作のことについて聞かせていただきたいんですが、今度はまたガラッと変わって、シェイクスピアを題材にした劇を書かれているということですが、ちょっとお話しいただけますか。

阿藤:今度の4月なので、もう1ヶ月後くらいに初日があくんですけども、ある弱小劇団がシェイクスピアの『リア王』をやりたいっていうことで、さんざん苦労してそれを立ち上げていくっていうお話を書いています。劇中劇として『リア王』のシーンが出てくるんですけど、実はそれを、どなたかの翻訳をお借りするのではなくて、劇中の劇団の座長が書いてるっていうふうにしたかったんですね。いわゆる翻訳劇っていうのをいつもやってる劇団ではないので、今時の若者がシェイクスピアをやったら、と考えて、いわゆる王様の役割語を使わずに書こうと、最初は思ったんです。そうしたら、もう一言も書けないんですよ。どうにもならなくて、王様には絶対、王様の役割語がないと絶対舞台で演じることはできないっていうのを初めて自覚しました。たまたまこのタイミングで、このシンポジウムに呼んでいただいて、金水先生とメールでお話してると、結局お芝居というものの言葉は全部役割語なんだなっていうことを、初めて、初めてホントに自覚したんです。お芝居、演劇っていうのは、その全てがとにかく象徴で、出てくる人物も象徴だし、ものも全てが象徴で、2時間の中で世界を表すっていうふうなものです。たとえば映像と演劇、何が、どう違うのかっていうと、映像で作るなら、海を出そうと思うと、海にロケーションしなくちゃいけないけど、演劇の場合はひとこと「あ、海だ」って言えば、そこに海があるっていうものなので、逆にその出てくるもの一つ一つが象徴で、そのもの自体だけでなく、ほかの何か大きなものを表していると言えるんです。

たとえば、ペン一本持つにしても、私、ここに今日ポニョのボールペン持って来ちゃったんですけど、このポニョのボールペン、現実には私という人間がこれをたまたま持ってきてしまっているだけなんですけれど、これが舞台の上だと、これ一本で、この人物を表すような強烈な小道具ですね。「ポニョのボールペンに象徴されるような種類の女」という表現になる。だから普通だったらその人物はこんなおの持ってないよっとかいって、却下されちゃいますね。現実には持ってるのに。舞台に出てくる物に関しては、そういう認識がはっきりとあったんだけれど、今日の役割語のお話を聞いてたら、戯曲のことばもまさに同じだな、演劇はもう、物だけじゃなく言葉も全てがそういう、象徴の世界なんだなと思いました。

 

“ハッピーオキナワン”の表象

 

金水:ありがとうございます。またあとでお話伺いたいと思います。

じゃ、本浜さん、そこでそのままおっしゃって(本浜:はい)もらえますか。こちらのビデオの準備もありますので。じゃあお話始めていただいて…

本浜:えー本浜です。今日パネリストが壇上に上がって話をするということで、私の方は特にパワーポイントを作ってこなかったんで、座ったまま、話をさせていただきます。実はパワーポイントを、去年からようやく使い始めまして、アナログ人間なんですけれども、同時にまたアナクロ人間でもありまして、アナログでアナクロといった、そういったものなんですけども、まー、それで文学研究をしています。

今日お話をする内容は、沖縄を舞台にした、映像メディアあるいは沖縄人、これは、沖縄人と漢字で書いて、ウチナンチュ、沖縄の人間、ウチナンチュを、どんなように描かれているのかという話を、90年代以降に出てきた、作品を中心に取り上げて、その話とその役割語について関連づけて話をしたいというふうに思っています。

で、この沖縄を舞台にした作品なんですけども、実は1998年以降、非常に多く出てまして、映画に関して、少なくとも、25本以上の映画が作られています。今に至っても、ですけども。それからテレビドラマに関して言うと、少なくとも5本以上の作品が作られています。これは私がカウントしたということで、少なくともという言い方をさせていただいていますけども。テレビドラマに関して言うと、たとえばサスペンスものなんかのシリーズがありますよね。そのあたりで、沖縄を舞台にした回などはカウントしてませんので、それも入れると、かなりな数にのぼるんじゃないかなというふうに考えられますけども、実はこの90年代後半以降の、沖縄表象というもののブームは、実は三回ありまして、今回のはその三番目のものであると考えています。

まず最初の傾向は戦後なんですけども、いつかというと、1950年代にちょっと、沖縄の表象というものが目立ちます。それはたとえば、映画の「ひめゆりの塔」とかいう、戦争物というものを中心に沖縄というものが多く描かれてるのがその、1950年代ということになります。

それともう一つの傾向が見られる年代は、1972年前後、昭和でいうと、47年ということなんですけども、実はこの年、何があったかというと、沖縄の施政権が、日本に返還されるという、いわゆる本土復帰という、そういう出来事が1972年にあります。それで、27年間アメリカの戦後統治下にあった沖縄が、日本に施政権が戻ると、こういう時期なんですけども、この時期に沖縄が数多く描かれます。それは映画もそうですし、それから怪獣物の作品、たとえばゴジラ対メカゴジラなんかもこのあたりに作られてるんですけども、そこに、非常に弱い怪獣のキングシーサーなんて怪獣が登場する場面も出たり、あるいは、やくざ映画もこの時期作られます。それは何かというと、本土復帰を境に、やくざが沖縄の進出をしてくる。これをめぐって沖縄のやくざと激しい抗争を繰り広げる。実話に基づいた、そういったような映画も作られたりする、というのが二番目の波だとすると、三番目がこの90年代の後半ということになります。

で、この90年代後半以降、今に続いてますけども、その物語の一つの特徴は何かというと、それは、いやしの物語だという特徴があります。これ映画もそうですし、それからテレビドラマもそうです。で、この物語は、もう一つ主人公の移動という形で、三つの類型にパターン分類すると、まず一番目がその主人公、あるいは主な登場人物たちが、沖縄を訪れるという。つまり沖縄以外の県外出身者が沖縄を訪れるという形の物語が一つの類型としてあります。で、二番目が沖縄に住む主人公が、その沖縄での舞台にした作品というのが二番目の類型、ということになります。それから三番目の類型は何かというと、沖縄に住む主人公が、他の場所、まあ主に東京なんですけども、そこに出て繰り広げられる物語も、数はこれ少ないんですけども、存在をしています。

で、その中で今言った類型でいうと、二番と三番を組み合わせたような作品なんですけども、NHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」という番組が2001年の4月から9月まで放映されました。この後、パート2とかパート3とか特別編なんか出てくるんですけども、とりあえずはこの最初の、20014月からスタートした最初の「ちゅらさん」を取り上げて話したいというふうに思っているんですけども。えーっと、このとき太田さんは沖縄にいらっしゃったんですか。

太田:いません、東京に転勤してしまい、沖縄からは離れてしまっていました。

本浜:もう、離れたんですか。

太田:はい。

本浜:太田さんは沖縄の放送局にNHKの、勤務されたということをプロフィールで知ってたんですけども、今日も後でその辺の話ができればいいなーと思ってるんですけども。非常にこの番組、影響力が強くて、いろんな意味で強いんですね。まずは、非常に好評で、それを見て沖縄を訪れた観光客も増えた、ということもありますし、そのころから多分こういった番組が、あるいはテレビ、映画とかが相乗効果を催して、沖縄では今も続いてるんですけども、移住ブームというのが続いています。沖縄の人口は125万からまあ、30万ぐらいなんですけども、移住者がなんと毎年2万人ぐらい来るんですね。ところが同じように毎年2万人ぐらいまた出て行っているんですね。だからまあ、移住して、ここに長くいる人もいるんですけども、移住してみて、しかし仕事の問題とか、そういったのでまた去っていく、そういった人たちも含めて、そういった移住ブームが続いて、様々なところが開発されたり、アパートやマンションが立つ、そういった状況が続いています。そういった影響力もあります。それと物語そのものも、ある種95年、90年代後半以降の物語を集約している部分がやっぱりあります。「ちゅらさん」の場面を見ていただきます。簡単に登場人物を紹介しますと、主人公が小浜島という、沖縄のもっと南の方に、台湾に近いんですけども、石垣島という島がありまして、そこからまた、もっと離れた小さな島です、小浜島。そこに生まれた古波蔵恵里(こはぐら・えり)。大人になってからは国仲涼子さんという女優さんが演じるんですけども、その主人公古波蔵恵里、エリの、簡単に言うと、成長の物語ということですね。舞台は小浜島から沖縄本島の那覇市に移って、その後東京に出てきて、また、小浜島に戻るんです。で、これを書いた、のがですね、これが岡田惠和さんという売れっ子のテレビの脚本家で、岡田さんが書いた理由っていうか、指名された一つの理由として、お母さんが沖縄の出身であるということが、どうもあるというふうに思いますけども、その岡田さんが脚本を書かれたという。では、その最初のオープニング、第一話のなんですけども。

(上映:「ちゅらさん」第一話冒頭)

はい、第一話のところで、主な登場人物たちが出てくるんですね、顔そろえる、その場面だったんですけども。ここでまあ一つ特徴的な言葉遣いって何かというと、語尾といいますか、「〜したさー」ですね、「〜したねー」という、そういう言葉遣いをするんですね。で、これは、それはそういった言い方をする人もいますので、、まあそういったふうに沖縄の言葉を聞いたときに、沖縄の言葉を詳しく知らない人がですよ、そのような形の話し方をして、そう聞こえているという言い方もするんですけども、これはこのドラマでやけに強調されているんですね。それを裏付けるかのように、実はこのテレビ番組をもとにして、漫画化されていて、あるいはそれからノベライズ化、小説化をされているんですけども、いずれも沖縄の言葉の特徴的なところとして、語尾に「〜したさー」という。で、これを文字にすると、「さ」がその大文字で、「あー」をちっちゃな文字を使っていて、別にこの長音記号はないんですけども、そういったふうに漫画も小説もその処理をして、文字化して、テキストを作っている、っていうそういう特徴がありますね。

で、先ほど出てきたオープニングの主要な登場人物の中で、沖縄のネイティブは、おばあちゃん役をされていた平良とみさんだけで、あとはその子どもの役の女の子とか、あるいはその、堺正章なんかは、やっぱりそういった語尾なんかを強調する形で台詞を作っているんですね。特に堺正章さんの場合は、あのー独特な世界ですね、これは非常に話題になったんですけども、独特の語り口をしていて、しかしああいったのは、本当にバーチャルな沖縄の言葉だ、ということです。「なんとかしたさー」とかですね、「なんとかしたねー」というふうな形で語尾を付けた場合に、どういった印象を作るかということなんですけども、それは終助詞の方の研究などをこう見たときに、「さ」の後ろに「あ」を付けた場合、断定をしない、ぽんと投げ出した形で、あまりこう強く言わない。それから、そこから転じて自己主張はしない、特に人と争わない、こんなピースフルな、そういった人間像が出てくるんですけども、この主人公、非常に垢抜けて、明るい役割を主人公、ヒロインの古波蔵恵里は与えられていて、東京に出ても、周りの人を南の太陽のような形の朗らかさで明るくする、そんなようなキャラクターを与えられているんですね。それから堺さんが演じていた父親は、働かないんです、働かないんだけども、その、こよなく音楽、三線(サンシン)を愛し、そして酒を愛しといったような形の父親像。

それからおばちゃん役の、平良とみさんが演じたおばあという役はですね、これは何もかもを、包み込んでくれる、そういったような形のおばあちゃん役という形のイメージが与えられているんですね。この人物造形というのが、私は、ある種ねつ造された、というふうに思うんですけども、それがですね、この「ちゅらさん」以降の作品に、これはもうくり返しこれが踏襲をされている、というのがあります。これに追随した例えば、沖縄おばあ読本(とくほん)、そういったような本も出版物も出たりとか、それがくり返し出てきていることを考えた場合に、このドラマの影響が強いことがよく分かるわけですで、こういった具合に作られた人間像を何かという、私なりにキーワードを考えておきたいんですね。私は今、比較文学として太平洋文学という、そういったもの、えー、もともとあるんですけども、それと日本文学と接点を見いだそうという形の作業をずっとしてるんですけども、太平洋は幅広くて、ミクロネシア、ポリネシア、それからメラネシア、あるんですけども、そこで言うと、ポリネシアに属するハワイの人たち、ネイティブの人たちは、しばしば英語における、アメリカの中の表象における言葉として、ハッピーハワイアンっていう言葉があるんですけども、それをちょっと使う形で、ハッピーオキナワンというのが、ねつ造されているのかなと思います。

で、なぜこの90年後半に、こういった人物像が登場してきたかということの一つの仮説なんですけども、私はこのように考えています。後半なんですが、ターニングポイントは95年です、1995年。実はこの年は沖縄にとっても非常に大きな事件がありました。それはどういう事件かというと、まず一つが沖縄に駐留している米兵の、海兵隊員の3人が沖縄の小学生を暴行したという事件があって、そこから非常に基地に対する反対運動が起こって、日米安保条約、それまでも大きく揺らいだという事件が起こりました。これは実は沖縄の方の状況なんですけども、実は95年、この神戸で何があったかというのは、私より皆さんの方が御存知かとも思いますが、地震がありました。それから地下鉄サリン事件があったのも、この95年という年です。でそれ以降、非常な感じで日本という社会がですね、大きく揺らいだ中で、そのあとは、例えば失われた10年といったような時代になったり、あるいは格差社会といったものが登場してきて、非常に人々にとって何か、閉塞感に満ちた社会になってきた、そういった状況があるんではないかな、というふうに思うんですね。そうした中で、この日本の空間を見たときに、沖縄の島というのに改めて注目をして、そこに住んでる、明るく生きてる人たちといったものが、このこの状況にはまる形で、「ちゅらさん」という作品の人物造形につながってるんじゃないか、というふうに感じました。で、このことと、あと観光の話はまた後で議論の中で話をさせていただくのを聞いていただきたいと思います。

金水:はい、ありがとうございました。

 

外から見た沖縄・内から見た沖縄

 

金水:ここからすぐにディスカッションに入っていきたいと思います。会場用のマイクありますかね?しばらく壇上で使うので。太田さんは沖縄にも生活されていたわけですが、ヤマトからウチナーに来たヤマトンチュの目から見ていかがですか。何かお感じになることがありましたら

太田:私は、沖縄には1991年春から1995年夏までいました。つまり、ターニングポイントになる年の夏までいたことになります。先ほどお話にあった、海兵隊員による暴行事件はその年の9月でしたから、私は東京に転勤してしまっていましたが、東京から沖縄に出張で取材に行ってそれに関連する番組を作ったりしたというような状況です。沖縄にとって、1995年というのはとても大きな年だったと、私も思うんですけれど、実は、1995年の出来事というのが、もう一つあると私は考えています。それは、安室奈美恵が大ブレイクした年だったということです。ですから、私は沖縄がいろんな意味で全国的に注目されたりブレイクしたりする前の一時期を沖縄で過ごしたということになるんですけれども、その時期は、沖縄の中でも沖縄の文化というものに非常に関心が高まったり見直されたりしてエネルギーが蓄えられていた時期だったのではないかと思います。でもまさか、平良とみさんが、こんな全国的な女優さんになるとは思ってもみなかったっていうような時期ですね。で、今、お話をうかがった中で、「捏造」という言葉がありましたけれども、沖縄をある程度知っているヤマトンチュから見ると、私は、それは「捏造」とまでは言えないんじゃないかなと思います。例えば、先ほど「おばあ」の話が出ましたが、やっぱり沖縄の「おばあ」というのは、私たちから見ても特別な存在ですし、沖縄の人から見てもやはり特別な存在だと思うんですよね。沖縄に「琉球新報」という新聞がありますが、その新聞に毎週入ってくるフリーペーパーの中に、「おばあが笑ってV(ブイ)」というコーナーがありました。おそらく当時、何年も、もしかしたら10年くらい続いているコーナーだったのではないかと思うのですが、ふつうの隣近所にいるような「おばあ」が笑ってVサインしている写真が掲載されていて、その「おばあ」がどんな人生を生きてきたか、そして今どんなことを考えて生きているのかということが書いてあるだけのコーナーなんです。そんなコーナーが人気コーナーとして成り立つというのが、沖縄の「おばあ」であるわけです。そういう意味でも、沖縄の「おばあ」というのはやっぱり特別な存在だと思いますし、それが表象として、強く表れて、で、それがすごく成功した例が、「ちゅらさん」の「おばあ」であり、「ちゅらさん」というドラマだったというふうに、私は思います。あと、言葉に関しては、やっぱり、あのドラマの中で堺正章さんがしゃべっていた沖縄のことば、ウチナーグチは、ちょっとやりすぎだよねという部分は確かにあったとは思います。私でさえそう思ったくらいですから、沖縄の人たちはかなり違和感をもったでしょうし、やはりその影響というのは無視できないものになっていると思います。それに加えて、私がいま思っているのは、「ちゅらさん」のような成功したドラマがあり、多くの人に沖縄の人たちはあのようなしゃべり方をするんだと認識されてしまったわけですけれど、では、今後はどうなるんだろうかということです。例えば、このあと“ハッピーオキナワン”でドラマを作る時には、そのようなウチナーグチをしゃべる人たちが出てくることになるんでしょうけれども、では、沖縄戦に関連するドラマを作ったり映画を作ったりするときや、「太陽の子」という灰谷健次郎さんの作品(小説)があって1980年代にNHKでドラマ化しましたが、あれをもう一度テレビドラマ化するっていう時には、沖縄の人の言葉はどうするんだろうかっていう疑問があります。それが、今のお話をうかがった中ですごく強く感じたことです。

金水:えーと、沖縄のオバーは捏造とかで言えないんじゃないかというお話ですが、いかがですか。

本浜:だから、まあ、そういった人もいますからね。まあ、それはそうなんでしょうが、ただ、そういったことに対して、ある種の、例えば、批評のスタンスを取る時は、そういうこともでるんじゃないかと、太田さんがおっしゃったこういうことは、確かになくはないけども、問題はそういった沖縄の作られてしまった時に、そういった経緯を知らないまま繰り返されるっていうところが、表象という行為の問題としてはあると思います。

金水:特にちゅらさんの中のおばあっていうのは、超自然的な力があるというか、あ、電話がなるよって言うと電話が鳴るとか、そういうような予知能力を持った、不思議な存在という形で、そういう意味で、沖縄の、特におばあを神秘化してるという、そういう表象でもある。それを、沖縄という、その、日本と外国との境界っていう周縁領域に、常にそういう不思議なことが起こるっていう表象でもあるのかな、って、今お話をうかがってそんな気がいたしましたけども。

 

役割を“演じる”こと

 

金水:で、今のお話は、表象される側の、それぞれのもくろみっていうのがあるわけで、だから、関西人も、いろんな形で表象されてきて、私の本の中では、ケチから始まってですね、ケチと、はで好きと、お笑い好きと、現実主義者と、あと、スケベと、やくざ、っていう、大抵、大阪人はそんなふうな感じで、最近は、それこそ大阪のおばちゃんっていうのもあってですね、大阪のおばちゃんは振り込め詐欺にも絶対振り込まない、ひっかからないという、そういう都市伝説もありますけれども、ただ、私は、それを見ながら、最初のケチというのは、江戸の人が、大阪というか上方をそういう言ってるんですけども、お笑い好きにしてもそうなんですが、一方的に押しつけられたイメージかというと、そうでもなくて、それならっていって、自分から合わせていくというようなところもあって、だから、ネゴシエーションで、共犯的に作っていくところもあるんじゃないかなという風に思うんですが、それは、たとえば、観光ってことをちょっとさっき言われかけましたけども、そのことなんかと関係があるんでしょうか。

本浜:観光の話はね、実は、いわゆる、演じてるっていうこともあるんですね。で、実は、それは、演じてしまうというところも実はあって、それがまあ気持ちよかったりもするんです(笑)、ある人達にとっては。で、金水先生と最初にお会いして、今日呼んでいただいたきっかけになった、ある研究者を通じて、学会で沖縄にいらっしゃった時に、とある居酒屋でお話をさせていただいて、そのときのことがが今日の、ことにつながったんですけども、その居酒屋に常連のお客さんがいて、そのお客さんは、三線を、客なんかのリクエストでホントに弾くんです。それで、沖縄の歌を紹介したり、踊りを教えたり、そういったことがホントにその人もう好きなんですね。で、それは、その人にとってみると、ある種の、まあ、ちゅらさんで描かれたようなイメージに、自分を当てはめて、まあ、自分演出をして、それが、やっぱり楽しいんですね。そういった型を、彼は楽しんでいるなーというのを傍目から見たんですけども、私は先に失礼しましたが、金水先生なんかは、その方の間奏で、カチャーシーを踊ったりなんかして、

金水:あ、えっと、私が踊ったんじゃなくて、会場にいた誰かが踊ってたんですけども、…あのー、はい、…それで、その表象する側される側っていう、今ちょっと沖縄の話が続きましたけど、ちょっと大阪のおばちゃんの話も出たので、大阪のおばちゃん代表として、恩塚さん、はい、

恩塚:(笑)はい、すみません、話したくてうずうずで、実はですね、先生、今まさにおっしゃったように、そちらの方は、自分が沖縄の象徴であるかのように自ら意識して表象されているようで、私なんかの場合、大阪人であり、大阪のおばちゃんであり、厚かましく文句を言うというイメージを、本能的にやってしまうんですね。で、韓国の人からそういう話を聞いたっていうのを、日本人社会で話す時に、まあ、いわゆる、自分の中で翻訳というか通訳して話す訳ですが、普通の人は標準語で、あの、韓国にいる日本人社会っていうのは、一応標準語がベースなっていますので、普段はそういうことばを話していますが、標準語なのに、わわーって文句を言ったとかあるいはすごく何かまけてもらったとかという話になると急に大阪弁になるわけです。そうすると、聞いてる日本人たちは、「あ、その人は、日本語ができるの?大阪弁なの?」と言う。「いやいや違う、その人は韓国語を話しているよ」と。「え、じゃあなんで恩塚先生、そこにきたら大阪弁で出てくるわけ?」って言うんですね。それは、まさに、本能で切り替えてると思うんですね。はい、それで、みんなに、「それまさに役割語だね」と、「そういう人のキャラクタを演じる時は恩塚先生は大阪弁で、翻訳するわけね、通訳するわけね」ということ、言われて、はい。

金水:だから、キャラクターに反応して、勝手にスイッチが入ってしまうという、(恩塚:そうです)そんな感じですかね。例えばスポーツ報道でも、さっき面白い話が(ありました)、実は、一週間前、私はNHKの放送文化研究所に呼ばれまして、今日のお話を含めて、夏目房之介さんも含めてちょっとお話させていただいたんですけど、すごく面白かったんですけれども、確か場面が喚起する興奮というのを伝えるのに、役割語というものが、すごくふさわしいと感じられてしまう、だからその、スポーツが持っている、ある種のストーリー性っていいますか、ドラマ性っていいますか、それと関係するんでしょうかね。いかがでしょうか。

 

スポーツ報道の“演出”

 

太田:そうですね。それはこのあいだ金水先生にも参加していただいたNHK放送文化研究所のワークショップで、お話をしてくださったとおりだと思うんですけども、やっぱり、スポーツを見る側も、そして、スポーツの番組とかを作っている人間も、その中の選手の活躍、競技そのものに注目しているのはもちろんのことですが、その裏側にあるドラマとか、人間像とか、いろいろなことを想像していますし、それをまた期待をしている部分っていうのがあるわけですね。そしてその選手が勝ったり負けたり、ライバルと戦ったりすると、作る側としてはやっぱりそれに合わせたものを描きたくなるし、許される範囲で演出もしたくなってしまう。その1つとして、役割語を使った表現も出てくるのではないかと思います。で、今日見ていただいたのは、ニュースではなくて番組で、それもオリンピック総集編という番組でしたので、音楽もついてたりしますから、余計そういった演出度が増しているわけです。これがニュースだったりすると、特に、競技の結果だけを伝えるストレートニュースだったりすると、またちょっと違ったりするんですけれども。そういう意味では、役割語の使い方についても、番組全体の中でどんな位置づけにあるときにどんなふうに使われているのかとか、その番組のトーンによってどう違いが出てくるのかとか、それが、ニュースだったらどうなのかという点でも比較するとおもしろいかもしれません。あと、今回思ったのは、ディレクターとその取材した選手との関係や距離感によっても違いが出てくるのではないかという点です。すごく長い間時間をかけて取材をした選手には、やっぱりあんまりステレオタイプっていうのは出ないと思うんです。これはアサファ・パウエルという選手を取材したディレクターから話を聞いたときに思ったんですけれども、アサファ・パウエルもボルトと同じようにジャマイカの選手で、一時期、100メートルの世界新記録を持っていた人、つまり、ある時期は“世界最速の男”と呼ばれた選手だったわけですが、その彼を取材したディレクターは、パウエルのインタビューを全部「ですます体」で書いていたんですね。どうして「ですます体」にしたんですかって聞いたところ、彼はとても敬虔なクリスチャンでもあるし、ちょっと複雑な、センシティブな部分を持っている選手ですと。その彼には「〜さ」とか「〜だよ」っていうようなしゃべり方は似合わないと思うからっていう風に言ってたんですね。そのディレクターには、基本的にテロップを脚色したものにはしたくないという考え方があったようですが、インタビューを日本語にうつし出すとき、長い時間をかけて取材して知ったアサファ・パウエルという選手の性格やしゃべり方から判断して、最もふさわしいと考えたのが「ですます体」だったということだと思います。ですから、テレビの翻訳テロップに役割語が出てくるかどうかについては、先ほどお話した人物像とか場面とかもあるんですけれど、どれだけその人とつきあっているかとか、その人に対して何を元にどんなイメージ形成ができているのかとか、そういったことも関係してくるのではないかと思うんです。そのうえで、テクニカルな部分として、字数に制限がある字幕テロップという形式の中でどんな表現をするかということも関係してくるわけですが、それらを総合的に判断して、最終的に、じゃあどんな表現がいいのか、どこまでやろうかっていうことで決まってくるのかなあというふうに思っています。

金水:あの、そのシンポジウムの中で、とてもびっくりしたことがあるんですが、ミラクルボディっていう番組があって、御覧になった方もいらっしゃるかもしれませんけれども、オリンピックの選手を題材にして、走り高跳びでしたよね、すごく努力を積み重ねていった白人の選手がいて、で、急に現れた、元々バスケットボール出身の黒人の選手が一人おりますけれども、すごい、天才的といいますか、フォームはもう、すごいでたらめなんですよね、でも、軽々高い記録を飛んでしまうという、そういう二人の対決を、ドキュメンタリーを作っていくんですけども、その場面をちょっと見せていただいたら、これスラムダンクだなーと思ったんですけど、

太田:やっぱり、「スラムダンク」に似ていると思いましたか。

金水:ええ、思ってたんです。で、その制作者の方がいらっしゃって、プロデューサーの方がいて、これどういう風に作ったんですかって聞いたら、素材みたらこれ絶対スラムダンクだと思って、ディレクターと一緒にスラムダンク読み直して、で、そのストーリー展開と、番組の構成なんかも改めて決めていったとうかがってですね、これは、もうホントにびっくりしてしまいましたが、だから、スポーツっていうのはそういう意味で、フィクションとノンフィクションの、あわいにあるといいますかね、つまり、最初から筋書きがあったら、それは八百長ですけども、ストーリーとして改修しやすいという性質を元々もっているのではないかと。

本浜:あのー、ごめんなさい、それで、関連してですね、最近、WBCがありましたね?それで、イチローが最後にヒットを打って勝ったんですけども、イチロー像っていうのもこんな形ででているという考えですね。それは、まあ、メジャーが作った部分もあるし、イチローがそう発言したかもしれませんけども、あのヒットのコメントを聞いたときに、もう、日本中が見てるということ、もう見られているということ、彼は、また取り込んでいくということ、改めて確認して、で、そのあとのさまざまなコメントを聞くと、もう自らそのイチロー像というものを意識した形でその発言をしてるんじゃないかなという風に思ったです。

金水:そうですよね。ですから、さっき大阪人像っていう、大阪の外の人と、大阪の人がネゴシエーションしながら、大阪人像を作っているところがあるんじゃないかといったのも、まあそういうところだと思うんですけれども、WBCの話が出たんで、日韓のその対決っていうのが非常にショーアップされていましたが、その辺韓国人として何かお感じになる、…韓国人キャラと日本人キャラのタイプみたいなもの、特に日本での行動と韓国での行動の違いみたいなの、もし御存知だったら…

鄭 :すみません、WBCにあまり興味がないんですけど、(金水:ああ、そうですか。笑)

(一同笑い)

 

韓国人のステレオタイプ、日本人のステレオタイプ

 

鄭 : WBCについては、ちょっと、申し上げることがないんですけれども、先程の、共犯という、一緒に作っていくっていうことと関連しての話ですが、あのー、私の授業の中で、先ほどのクラスの学生達に、韓国人のステレオタイプ、日本人のステレオタイプというのを、ちょっと調査したことがありました。で、日本人と会話をする時と韓国人と会話をする時、自分のキャラを変えるという意識があるかどうかを話したことがあったんです。で、わりと多くの学生が、やっぱり何となく意識をすると。で、日本人と話をするときは、言いさし表現が増えていったり、なんかあんまりはっきり物事をいわないというふうに、別に自分の中に基準があってしゃべっているわけではないんだけど、振りかえってみると自分はそうだったような気がすると、そういう話をしてくれました。で、また、話し相手の日本人が、韓国人らしさという、なんらかの先入観を持って自分を見ていると思うことがあるか、とも聞いてみました。で、そういうことをもちろん感じることもあるけど、「そのイメージと実際の私は違う」というふうに思うことがかなりあるそうです。つまり、その、いわゆる韓国人ステレオタイプと自分とのギャップを感じるとともに、また、一方で、なんとなく自分から韓国人ステレオタイプに合わせていくこともあったりして、その間を行ったり来たりしながら、キャラを演じ分けているんだな、というふうに思いました。

恩塚:ちょっと趣旨、話がずれるかもしれませんが、釜山にある、ロッテホテルという高級ホテルで、調査されたことがあるんですが、そのホテルマンたちが、フロントの人とか、あの韓国人のお客さんと日本人のお客さんに使う言葉っていうのの、調査結果で。で、やはり日本人のお客さんの方に、より細かい説明、より丁寧な、まあ韓国語と日本語って、非常に、何回も今まで出ていますが、敬語の上においても非常に似ています。例えば英語のように、日本語に対応する敬語がないわけじゃありません。むしろ、日本語よりも複雑な敬語形式をもっている、にもかかわらず、日本人のお客さんの方により丁寧な言葉を。あるいはあのー、ソウルにあります、昌徳宮(チャンドックン)という有名な(故宮で)世界遺産になってます、あちらで、日本語のガイドツアーに入ると。韓国語のガイドツアーに、私、両方入ってみたことがあるんですが、あの細かな部分まで説明してくれるんです、日本語のガイドツアーに入りますと。で、そのあと韓国語に入りますと、その場で二回ほど、たまたまじゃないです、二回か三回韓国語のツアーに入りましたが、あの、日本語だと説明したところを全然説明してくれないんですね、まあ、その韓国の人に、韓国人を対象とした場合に、こんなとこまで説明しなくていいかなっていうものなのかなーっていう、はい、ちょっと、私たちは、あのー、その辺がすごく不思議なんですけども。

 

日本語の性差と性アイデンティティ

 

金水:見る側見られる側っていう話で、性差っていうことが、今日のお話の中ではやはり一つ大きな話題になってたと思うんですけれども、教育とか翻訳の場面で、日本語にたしかにその性差っていわれるものがあるっていう、これは、まあ確かに事実であるし、時代によってちょっとずつ変わっているっていうことも事実なんですけども、いわゆるその男言葉女言葉の対立というものと、自分自身の男性なり女性なりの認識のずれといいますか、女言葉男言葉、いいとか悪いとかっていうのは必要ないんだって、それは勝手に感じればいいって阿藤先生のお話にもありましたけども、たとえば、送り手として、イシンバエワの女性語、ちょっとやりすぎかもしれないと思ったっていう、そういうことも含めて、これは男性でも女性でも言えることかと思うんですが、女性なら女性の立場として、女性語女言葉っていうものに対して、自分はどういうスタンスを取っていきたいかっていうのは、さっきの発表にもありましたけど、ちょっと一言ずつ、恩塚さんから、いただいていいですか。

恩塚:そうですね。先ほどもありましたように、現実問題、さっきの、あのー、中二階の人々ですか、ああいう、こう、中性的、会話だけ聞けばどちらが男か女かわからない会話っていうのが、やっぱり、広く流布していると思うんですね。私自身も、普段家庭では完全に大阪弁で、まったく男のような言葉をしゃべっておりますが、先ほどのお話の中にもありましたように、教科書を書く際にですね、大阪人であるがゆえに、まるで外国語のように習得した標準語、を、書くことの方が楽なんですね、脚本でさっきおっしゃったとおり。そんな中で、いわゆる、典型的な女性語っていうのは、自分が使わない言葉だけに、むしろ、…どういうんですかね、

(金水:アイデンティティから切り離されている…、)

恩塚:はい、はい、そのように、さっき何回か言いました、ヴァーチャルな世界として、作り手としては、そちらが非常に楽、なんです。はい。

金水:あの、鄭さんの場合は、要するに外国人として日本語を学ばれて、でも、否応なくその女言葉っていうものを、使わないと、かえっておかしいっていうシーンもあると思うんですけど、その辺の意識っていうか、あるいは学習の過程で、女言葉をどういう風に受け入れて、どういう風に使っているかっていう、その辺は、何か誤解されますか。

鄭 : そうですね、一時、自分の口癖のなかに、「かよ」っていうのがあったんです。「え〜、そんなのかよ」って。で、ある日、友達から、「なんか男みたい」って指摘されたことがあって、「あ、そういえばそうかなー」と思ったんですけど…。やっぱり、学習者として日本語を勉強する時に、これは女言葉これは男言葉というふうに、すごく典型的に意識するのはまず自称詞ですよね。「ぼく」というのは女の人は使わないんだよ、とか。あとは、終助詞の「わ」「かしら」こういうのは女性が使うし、男の子は「ぜ」とかをつけるんだよっていう、そういう、学習した内容というのはありますけど、ほかにはやっぱり、人と接して、あるいは、マスコミとか作品とかを通して、なんとなく慣れていくようなところが、非常に大きいと思うんです。あのー、私が最初、日本語と韓国語の役割語を対照しようと思ったきっかけは、日本語の小説の韓国語翻訳版とかを見たときに、会話文に違和感があったからなんですが、やっぱりそこで一番気になったのは男女差なんです。日本語の小説だったら、もうほんとにちょっとしたやりとりだけで、あ、この人は女性、この人は男性っていうのが、すぐわかるんですけれども、韓国語にしたときにそれがすごく薄れてきているなというのがあって、で、韓国語での男女差ってどうなんだろうって、もうちょっと詳しく調べてみようということになったんです。韓国語の方も、性別差がないわけではないんですよ。性差が現れてはいるんですけど、やっぱり日本の方がすごく顕在的なのに対して、韓国語の方は潜在的で、「こうこうこう違うでしょ」って言われると、「ああ、たしかにな…」っていう程度であって、あんまりそれをこう、意識して使うというのはないような気がします。

金水:太田さん、改めまして、放送の送り手として、言葉の性差っていうものにどういう意識を持っているか、あるいは自分のアイデンティティとのギャップに対して、何か感じるところがありますでしょうか。

太田:そうですね。私としては、いま、ちょっと混乱している状態ですね。というのは、この研究を始める前は男性語女性語がスポーツ関連の番組やニュースのテロップにたくさん出てくるのは、男性は男性語が似合うとか、男性語を話すはずだとか、女性は女性語が似合うとか、女性語を話すはずだというステレオタイプがあって、それにかなり影響されたものなんじゃないかっていう仮説のようなものがあって始めたんですけれども、実際分析してみると、先ほど申し上げたように、場面によって使い方に違いが出るということもわかりました。また、男性語女性語の機能としては、男らしさ女らしさっていうものももちろんあるんですけれども、それだけでなく、感情とか興奮した口調とかを表現できるという別の機能もあって、それを表現するために使われることもあるということがわかったので、これは性差だけを考えてればよいというそんな単純な問題ではないんだ、もっと複雑ないろいろな要素が絡み合っているということがわかったわけです。ですから、私自身はそれを整理しきれておらず、ちょっと混乱している部分もあるという感じです。ただ、そういう中でも、例えば、女性の、すごい美人のアスリートには女性語をつけているんだけども、美人とはいえない選手には使ってはいないぞというような(笑)すごく極端な例があったりもするわけです。ほかにも、例えばある民放で、ある国のイケメン選手を取材した企画があったんですが、その選手について、同じ国の女性選手が「かっこいいでしょー」というようなことを言っているんですが、そのコメントは、女性語満載で訳されていたりっていう、すごくジェンダー的なステレオタイプのもとでわかりやすく使われている例はやっぱりあるんですね。そういう例については、やはり、あまりにも安易に使いすぎているのではないかと思ったりして、ちょっと引っかかったりはするわけです。あと、今回ディレクターにいろいろ話を聞いた中では、女性のディレクターだと、「私自身がそういうしゃべり方はしないので、そういう女性語を使った訳し方はしません」っていう人が結構いました。そういう意味では、放送の現場っていうのは今も男性がすごく多いので、そんなことが、ステレオタイプに影響された女性語の使われ方と関係しているってこともあるかもしれません。その辺りについては特に放送現場ではあまり今まで意識していなかったことかもしれませんので、今後も注意して見ていき、機会があれば提示もしていければとは思っています。

金水:阿藤さんは、先程の話にもありましたけど、作り手にとっては男言葉と女言葉があるっていうのはすっごいありがたいっていうか、便利な装置ではある、ということですが、阿藤さんさっきの話からすると、それは完全にバーチャルなものとして操作している、自分のアイデンティティとは切れてる、ってそんな感じなんでしょうかね。その、自分自身の女性性と、女言葉っていうのは、あまり結びつけてなくて、創作の面だけでのお話っていうふうに、割り切ってらっしゃるというか、あまり意識したことはないですか。

阿藤:そうですね、私…、よくわからないですけど、私、東京に行ってしばらくの間は、ホントに本で勉強した言葉しか知らないので、むこうで、養成所の同期生としゃべるのに、「〜〜かしら?」とか言って、(金水:ああー、)「え、何?」なんて驚かれて、ああ、「かしら」っていう言葉はみんなは使わないんだ、「〜〜じゃん?」って言わなきゃいけないんだ、とかって勉強したんですよ、(金水:なるほど、)ほんとに。でも、例えばさっきの『セゾン・ド・メゾン〜』の中で、それこそ女性語満載のシーンがあったりする、それは私にとっては、ごっこ遊びみたいでとっても楽しいんですよ、(金水:ああー、ごっこ遊び)そうですね。それで、その、性差が全然ない、そういう場合も、私にとってはやっぱり、「ごっこ」…おんなじなんです、だから、男女差、性差があるかないか、あることばを使うか使わないかっていうのは、例えば、「すっごくいいですねー、やばいっすよ」っていうような言葉遣いを、今回のお芝居の中では使うか使わないか、のとおんなじですね。私、今は専門学校で教えてるんですけど、そうすると、私もやっぱり言っちゃうんですよ、「やばいやばい、すっごいいい」っていうような感じで。一旦「やばい」というのを「とてもいい」という意味で使っちゃうと、この感覚をほかにどう言えばいいのか、わからなくなったりするんですよね、でも、やっぱり、それをたとえば、うちの親が見に来たらわからないだろうなあと思いますから、今回は客層こんな感じだからやめておこうとか、学校の公演だったら、ぐっとリアルな若者ことばに寄せていこうとか、ほんとに一個一個、一語一語、言葉を選んでいっています。ホントに自分流、まあ、気分で選んでるんですけど、男女差とかそういうことだけじゃない、あらゆることがそうですね。口癖なんかもそうです。どんなことでも「でも」っていう接続詞で始める人とか、物事にちょっと距離をおいて、あんまり中に加わらないような人には、とにかく「別に、別に」っていう言葉を繰り返させるとか、それを意識的にやって、その人の、口癖みたいなのを先に作って、だからこの人はこういう人なんだっていうふうに、

金水:なるほど、キャラクターの、設定みたいな

阿藤:はい、両方なんです。その人物、その人の口調って同時に表れてくるんで、書いていて苦しくなったら、この人は「別に」ととにかく対応してみよう、そしたらどんな人物なのかが見えてくるかな、って思う部分と、自分がそう決めなくてもその人が勝手に「別に」とか「どっちみち」とかそういうことばっかり言い始めて、あ、そうなんだ、そういう考え方をするのかなーって思う部分と、両方、両方から攻めていく、という、

金水:なるほど。男ですけど、本浜さん、いかがですか。

本浜:ジェンダーの話と小説ジャンルと、それと、作者のスタンスというのを結びつけて話をしたいと思ったんですけども、おそらく文学という、まあ小説なんですけども、純文学と、それと、エンターテイメントといったものが、それも、80年代にそれまでの大衆文学から変わっていったというふうに言われているんですけども、純文学系の作品と、エンターテイメント系の作品と二つ、あると思うんですね、で、成功して映画かベストセラーになるのは、間違いなくエンタメの方が盛んで、純文学は…という形でですね、そのようなことも言われたりなんかしますけど、たぶん、ジャンルによっても多分違うと思うんです、おそらく、役割語というものが、たぶん多用されているのが、たぶんエンターテイメント系の作品ということに、なるかというふうに思うんですけども、その例として沖縄出身の代表的な作家を二人あげたいと思ってるんですけども、一人は目取真俊という作家です。彼は、『水滴』という作品で、これは戦争の記録っていうのがテーマになっているんですけども、それで芥川賞を取ったんですけども、彼の作品はですね、沖縄の言葉っていうものを、いろんな言葉の書記システムに当てはめて、それで会話の言葉を作るんですね、で、読み飛ばせないんですよ。おそらく、それは彼の、作家の意図なんですね。わざと読みにくいような形の会話体にして、そこで読者にそこをまたがせない。そこを読みにくい日本語に仕立てることで、沖縄の言葉を使うことによって、読者に考えさせたい、たぶんそういった意図が、彼にはあるんじゃないかなというふうに思ってるんですね、で、その中で、彼は、そのー、特に、彼自身の祖母からの、たとえば昔の話とか戦争の話とかを聞いて、それを小説に書きたいといった、そういう感じですけれども、で、そういったものを話す語り部っていうのが、おばあちゃんという、年取った女性というのが、彼の語り口には多いんですね、それは非常に密接に関わったんです、で、もう一人は、これはエンタメ系の作家なんですけども、池上永一という作家がいて、シャングリラという作品がアニメ化されたりしてるんですけども、彼の去年単行本で出た作品で、テンペストっていうのがあって、沖縄の首里城を舞台に、女性が男性(実は宦官なんですが、)になりすまして、琉球王朝の役人になる、っていうこういった話なんですけども、その中では、彼は、分厚い上下巻で出てますけども、彼はホントに、役割語のオンパレードなんですね、で、お姫様にはお嬢、お姫様言葉、お嬢様言葉を当てて、琉球の国王には、王様言葉を当てて、そういった役割語で作品を作っているというのですね、で、そこに描かれている女性像というのは、さっき言ったように、このお嬢様的な、あるいは宝塚的な、あるいは少女漫画的な、そういったキャラクターを作っている、まあ、そういった部分です、ところが、おそらく彼のスタンスと、目取真俊が戦争という今の沖縄の担うベース的といったものにこだわっている作家だとすると、彼はですね、70年生まれで、復帰のちょっと前なんですけども、世代的にいうと、復帰世代というか、その、沖縄が戦争後統治下にあったことを知らない世代の感覚をしてるんですね。で、彼にとってみると、たぶん、彼にとったら、東京で作家活動をしてますが、例えば、沖縄のイメージというのは、戦争という暗いイメージがなくて、かつては貿易で栄えた琉球王国のイメージであったり、あとは、沖縄の上層の人々の生活であったり、多分そこに彼は関心があって、書きたいと思ったんですね、だから作家のスタンスと、小説の置かれるジャンル、それと、役割語をどう使うかというのは、多分密接に関わっているんじゃないかなーという風に考えてます。

金水:はい、ありがとうございました。非常に、まとめ的なご発言で、ありがとうございました。フロアの方でもこれだけの内容ですから、いろいろ質問されたいこともたまってきたんじゃないかと思うんですが、ここで、ちょっとフロアの方にひらきたいと思いますが、

 

翻訳の難しさ

 

細川:大変興味深いお話をありがとうございました。鄭先生に二つほど質問させていただきたいことがあります。私、細川裕史と申しまして、明日ドイツ語の助詞と役割語に関しての発表をやらせていただくんですけども、その際に、やはり、翻訳、役割語の翻訳というのを一つのテーマとしてあげたいと思っております。先生のお話ですと、韓国の学生さんは、日本語の中の役割語を韓国語に訳すことを通じて、日本語の役割語を学んでいた、というお話だったと思います。その後のお話で、男女差は翻訳しづらいというお話もありましたけれども、発表の中では、大阪と長崎の女性と、役割語の違いは、上司と下人、階級差のある役割語、そして、上と下という身分差のある階級化、役割の違いが訳されたというふうに理解できました。そこでお伺いしたいんですけども、まず、一点目は、役割語、の種類の中で、例えば男女差以外にも、この種類の役割語は、韓国語でうまく訳せなかったんだという学生からリアクションがあったというのがあればお教えいただきたいと思います。そして、二番目に、翻訳した、ということでおっしゃいましたけども、学生が、既存の、韓国語にある役割語を用いて、例えば漫画を、翻訳したんでしょうか、それとも、学生が、授業を通じて、韓国語の役割語を、造語して翻訳したんでしょうか。その二点をお教えいただけたらと思います。

鄭 :あ、はい。まず、一点目の、どんな役割語が翻訳しにくいかということですけれども、授業の中で、私の方で、小説とか、あるいは漫画とかを選んで、学生に、訳してみなさいって、宿題として課したことがあるんです。その中で学生が一番苦労したのは、電車男、だったんです。わざと、いろんなパターンをやらせたいなって思ってたので、いくつかの小説を使ったんですが、その中で、電車男というのは、ネット用語ばっかりの、ネットでのやりとりをそのまま載せてるものなんですね。で、この電車男というのは、実は韓国語版があるんです。で、両方を見ながら、すごく面白いなと思ったんですけれども、両言語版で同じような表現もあれば、日本のネットだからこそ使われる表現、韓国語のネットだからこそ使われる表現もあって、それを、うまく、こう混ぜ合わせて使っているんだなっていうのを感じました。それで、学生とその辺を見ながら一緒にやってみたりしたら、かなり難しくて、語彙的な面でいうと、オノマトペの訳がすごく難しいとか、まあ、学習者ならではの、そういった議論がいっぱいありました。で、あとー、えーっと、もう一個の話は何でしたっけ?

金水:もともと韓国語にあったものを使うのか、 あるいは、新しく作り出しているか、混ぜ合わせたりするっていうこと…

鄭 :あの、学生の最終レポートは、どっちもオッケーということでした。なので、自分が、もう、韓国語でもいいし日本語でもいいし、作った台詞をやってもいいし、登場人物を設定してそれでもいいし、あるいは、元々ある作品を、韓国語の作品に日本語の自分が訳を付けるとか、日本語の作品に韓国語の訳を付けるとか、どちらでもいいですよ、という感じで。

金水:材料っていうかね、日本語の役割語を韓国語に翻訳するときに、韓国語の、元々あったものを、当てはめるだけなのか、あるいは、今まで韓国語になかったものを、無理矢理日本語に合わせて、作り出す、混ぜ合わすとかそういうことはなかったんですか、という質問。新しいのを作っちゃう、翻訳語で。

鄭 :あ、あー、そうですね。あのー、新しい言葉を作っちゃう…、それは…、それは、ちょっと、はい、あんまり、見あたらなかったと思います。はい。

杉藤:杉藤です。大変面白く伺いました。鄭さんに伺いますが、韓国語と、日本語の対比のお話をうかがってると、まあ、大体見当がつきましたけれども、大変なこと言ってますよね?あれの、教育の出発に、金水さん、金水教授が最初から関わってらしたのかな、と思います。そうじゃないですね。

金水:違います、独自におやりになったのです。

杉藤:大変、ああいう風にスムーズに行けば、教育に使えるっていう、あるいは、演劇にも使えるという、目安が、あすこで、生き生きと、こう出てきて、このシンポジウムで、ちょっと得したというような感じがしました。

鄭 :ありがとうございました。

 

科学的研究対象としての役割語

 

匂坂:早稲田大学の匂坂です。非常に面白いお話きかせていただいて、ありがとうございました。特に、教育の方々のご苦労っていうのはですね、ああやっぱりそうなのかってことで、今回のシンポジウムを通じてですね、学ばせていただいたんですが、たぶん、この中では、いわゆる…、あんまり分け方好きではないんですが、いわゆる理系文系でいうことで分けると、僕は理系というか、その観点から、ちょっとお話を聞かせていただきたいんですが、これはどなたに、ということではないんですが、この役割語の、今のものの利用に関しては、教育の面であるとか、言語的なものを記述していく、ていうこと自体がまず非常に大切なんだっていうことはよくわかるし、いろんな意味で、性急にですね、そこから、いわゆる、特に、その我々が目先のことを説明したい、そんなことを考えてる側の人間からすると、はるかに先のことを見据えていらっしゃる。我々もそういうことを考えないではないんですが、一点だけ、その、気になるのはですね、どういう対象の人たちを対象にしてこういう話をするのか、っていうのが、常によくわからないんですね。だから、どういうことかと申しますと、今の、お話しいただいた例で、例えばNHKのテロップのことを考えますと、例えば、今日お話があったような形では、感情移入で意味がある、あるようなところでは、それを積極的にだされてるっていうお話なんですが、その場合はその場合で、お話にあったように、作る側、まあ、テロップなんかもそうなんでしょうけども、作る側のものの意図が入る、つまり、それは、避け得ないことなんですが、よくある?ということから考えたときに、それがどれだけのものをもつのか、まあ、そうやって言っちゃうとテレビぜんぶあるのかもしれませんけど、その反面、じゃあ、逆に、日本語、日本人がしゃべった時のテロップを流したときにですね、例えば敬語を落としているんですね、あれは非常に、なんていうんでしょう、それそのもの自体がすごくこう抵抗あると思うんですね、だから、まあ、それは、日本人は日本人としてそのまま見るんでしょうけど、あれをそのまま見たとき、なぜ無礼な言い方をしているかという、そういう捉え方をされかねない。で、今は、一つのわかりやすい例として申し上げたんですが、全体としてどういうことを申し上げたいかというと、例えばその、教育の方でもそうなんですが、なぜ、ある、違う言葉を使うのかっていうことは、当然のことながら日本人としては、今のお話どれも、理解できるんですね。ところが、一部の部分しかわからない、たとえば、現代、現代若者言葉で、ある部分を使う人とか、あるいは、さらにもっとブレイクダウンして、あるスラングを使う、コミュニティーとかいうことになりますと、受け手としゃべり手の間で、どれだけの知識が共有されているかっていうことによって、それの情報の授受っていうのが全然違うわけですね、翻訳ってまさにそういう問題があると思うのですが、だから、バックグラウンドをお互いパラフレーズできないってことが、コメントできないっていうことになっちゃうんだと思うんですけども、そういう全体の中でですね、現実的な問題を、考えてるってことで、すごく面白いなと拝見したんですが、ともかくある部分を聞いて、それの、受け手と、話し手の、元々情報が違う状態において、じゃあ、どうすんのが正解なのか、多分現実的にも一つのおっきな問題なんじゃないかと思うんですけど、そういう受け手と話し手との感覚っていう、今ありのまんまのケーススタディじゃなくて、受け手と話し手との間でのコミュニケーションとしての役割語ですね、そういう見方で全体をもっと通して、ケーススタディじゃなくて、もっと通して見せていただけると、より、もっと学問的だし、我々使う側からしても、使いやすくなるんじゃないかと、ずっと思っているんです。

金水:えっと、あのー、非常におっしゃることはよくわかるのですが、多分現実的には、バックグラウンドっていうのをはかれないままに、やらないとコミュニケーションっていうのはできないんですね。たぶんね。で、誤解も当然生じるわけですが、それが、いわば、言葉の変化を生み出している、定延さんもそのことを強く意識してらっしゃるだろうと思うんですけれども、ただ、おっしゃるように、ある種のモデルにのっけるには、例えば、知識が同じ状態である、あるいはちょっと違うとか、いろんな知識の違いをセットしたときに、言葉がどういうふうに使われているかとか、背景的情報が、誤解される誤解されないみたいなことも、ある種のやっぱり限られたモデルの中での、コミュニケーションの中で、役割語がどう働くか、っていうのは、それはある種、実験的にやって価値はあるだろうと思うのですが、ちょっとデザインどういう風にしたらいいのかわかりませんけども、将来的には、なんかそんなこともやってみたいなと、私自身は思いましたけれども。

太田:テロップに関して言うと、おっしゃることはその通りだと思います。要は、その制作者が、ウサイン・ボルトには「オレ」という一人称代名詞を使って、マイケル・フェルプスには「ぼく」という一人称代名詞を使って、というようなことをすれば、多くの受け手は、そのまま、この選手はきっとそういう人物なんだろうなーというふうに受け取るわけですね。それがホントにいいのか、っていう部分はもちろんあります。ただ、私もこの研究を始めたばかりなのでまだ言えることは多くはないんですけれども、今の時点で思うのは、テレビというメディアでいうと非常にいろんなものが変化してるので、その中で試行錯誤をしていくしかないのではないか、ということです。今日お話をした翻訳の字幕テロップについて言うと、例えば、ロサンゼルスオリンピックの時のテロップには、色がまったく付いていません。白い字のテロップばかりです。その当時は、単純に意味を伝えるだけの機能しかもたない字幕だったんです。もちろん文末も「ダ体」です。当時は多分、「紙焼きテロップ」という、紙に手書きで書いていたテロップだったんですね。今みたいに、翻訳文を発注したらすぐにテロップが電子的に仕上がってきて、あっという間に放送に出せるというようなそういうものではなかった。もちろん、色も付けられる技術はなかったから白い文字ばかりだったわけです。一方で、今は、例えば、ウサイン・ボルトの「オレがナンバーワンだ」っていうテロップには、ジャマイカの国旗の色が付いていたりするわけです。そういうことが簡単にできる技術が最近ではあるわけです。(金水:ああ、)ほかにも、例えば字体についても、いくらでも演出が可能です。例えば女の子の発言で、内容やしゃべり方がかわいらしい発言だったら、かわいらしい丸文字にできたりとかも簡単にできるっていう、視覚的な意味での演出がいくらでもできるようになったんですね。そういう中で、メディアの送り手にはどこまで演出が許されるのか。それは言葉遣いにも関わってくるわけです。特に、テロップっていうのはもともと書き言葉であるところから始まったはずですが、今やとても話し言葉的になってきました。ニュースでも最近は、日本人がインタビューでしゃべっているのまで全部、テロップでも文字化して出してるっていうようなことになってしまっていますから。そうした中で、じゃあ、テロップの役割ってなんだろうか、っていうことも含めて、時代によって変わっていく部分もあるわけです。あと、今さっき言われたように、メディアリテラシーというものとも関わってくると思います。最近では、視聴者側にも、テロップに出てくる内容が全てだとは思ってないっていう人もいるかもしれません。この点においては制作者側のメディアリテラシーと、両方が相まって、その中で、メディアや社会が変化していく中で、一番いい形、その時代の中で一番いい形っていうのを、探っていかなくてはいけないんだろうなーというのが、今、私が考えていることです。

金水:ありがとうございました。まだまだ、議論も尽きなくて、もっとしゃべりたいという方もたくさんいらっしゃると思うのですが、とりあえず時間がきましたので、このくらいでシンポジウムを閉じさせていただきたいと思います。パネリストの皆さんにもう一度、拍手を。

(拍手)