兄     小林多喜二 …‥昨夜寢たのは二時だったと賢吉は思った。それは弟だって知ってる筈だった。彼がなるべく音をたてないようにして床に入ったそのとき、隣りに寢ていた弟が眼を開けた。 「何時? おそかったねえ」 「あゝ…‥二時だろう」 「ホウ…」 と弟は云った。 彼は今弟にゆり起されながら寢った時間を数えてみた。伯父の東京に行く汽車は六時半だから、今六時頃だろう。すると、たった四時間より眠らない事になる。たった四時間だ、と思うとそれだけで癪にさわった。それに弟だって知っているんだのにと思うと一層のことだった。が賢吉は今朝伯父を停車場まで送って行かなければならなかった。それは十分解っていた。けれども極端な寢不足からくる不愉快で、叫んだ。 「馬鹿ッー 誰が起きないって云つた。分ってるよ」 彼は蒲団をはぐりかけている弟の手を力まかせに振拂った。 「時間だよ!」 もう云った弟の声も変にふるえた。 賢吉は弟の変に楯をつく態度にカッとした。弟は伯父の家に貰われている事から、よくこんな態度を彼にとった。今まで頭全体を何かで覆っていたような眠気がパッと飛び去ってしまった。眼があいた。枕頭に大きな身体の弟がつっ立っていた。(下からなのでなおそう見えたかも知れない。)下を見下している邪気を含んだ鋭い弟の眼とうちあった。 「だから云ったんでしょう。朝が早いからすぐ行っておいでって……」 「うるさい!」 「また、あの子供のようなTを相手にして、くだらない事を云ったんだろう」 「だろう」が皮肉に鋭く、侮辱した調子にひゞいた。賢吉は電気を總身に感じた。身體の激動を意識した。その瞬間彼は自分の右手に、ゾッとするような快よい衝撃? を感じた。一つ、二つ!「もっと/\」そう云った興奮を覺えた。 が、すぐ次のモーメントだった。彼はよろ/\とよろめいた。枕につまずいた。用心を失った身体は斜め後に倒れた。 「何をする!」  伯父が賢吉を抑えた。 賢吉は伯父につかまえられながら、何かを叫んだ。手と足を、何かをするように動かした。賢吉ははじめて、顔を真赤にした弟が立ちふさがるように立っているのを見た。こんな時にはいつもすわる凄い弟の眼をみた。胸ははだけられていた。が、興奮の極点にいた賢吉には弟は何か没交渉の人間のように小さくみえた。それは、よく学校で先生の話を聞いていると、教壇にいる先生がだん/\小さくなり、その声まで別なところから聞えてくるように思われる事がある。そんなようであった。……その小さい弟が動いた―――ように彼は思った。と同時に、彼の右肩が、グッとつっとばされた。彼の身体は後にひっくり返された。續け様に彼は身体に打撃を感じた。 「…‥よせ久ニ!」 伯父が叫んだ。 彼はどうにでもなれという気になった。が伯父の態度が彼を怒らした。彼ばかりを抑えて弟を抑えないのか!? 「少し勉強をせ! 毎晩々々遊びに行つて……馬鹿」 弟はそう云った。 「何が勉強だ!」 「机に向ったことがあるか、フン」 「勉強ってどんなものか知ってるか? よけいなことはよしてくれ。生意気な。学校で特待生になるのばかりが勉強なんだろう。フン……ぶんなぐってやるぞ」 賢吉はブル/\ッと顫えた。 伯父が停車場にゆくと云ったとき、賢吉は行かないと云った。 あとに殘ると、賢吉は急に泣き出してしまった。 賢吉は弟の特待生であることには無関心で居れることは居れた。が「弟が特待生だ」という意識にいつもどつかでこだわされていた。この立場が彼には気恥かしかった。然し絵をかき、小説をかく賢吉にとっては、弟の所謂特待生の態度は多くの不満と嫌悪を感じさすものであった。少しのうらやましさも感じはしなかった。が世間の人はそうは見てくれなかった。この点、世間のことを考慮に入れると、賢吉はそう落付けない気持になるのだった。 「なあに、そんな事」と弟を否定しながらも何かしら彼は弟にこだわされていた。そして弟の態度はすべてが賢明で平穏で、柔和で親切で、常識的であった。賢吉は始終イラ/\し、偏執で、神経質だった。この気質の差異が伯父の心持を一方に片寄らした。さっきの伯父の態度が鮮やかに浮かんできた。 弟のそういう態度なり、技巧? がたくみに四圍に当てはまって行くのを賢吉は随分うらやましく思った。(勿論唾棄すべきことだとも思ったが)少し離れたS市に獨り生活している母の心も、弟は巧みに取り入れていた。日曜日毎に訪ねた。伯父の方から出る小遣が餘ると母に送ってやった。賢吉は母については随分想っていた。が、より以上どうにも出來なかった。そういう感情を表にあらわしたくはなかった。それに母が変に誇張して事情を訴えてくる事などにある不快さを覺えていた。・…‥そんな事からつい/\母と隔っていた。 「…‥久二は伯父のうちにくれてやったのだから、あまり世話になれない。それだのに久二は、とき%\来てくれて・…・」 こういう母からの手紙はあからさまに賢吉へ云いかけられていた。そんな態度が嫌であった。 「弟は偉いんだ。・…‥俺はどうせ、フン」 賢吉は心の中で自嘲した。 二三日して、賢吉はその朝の出来事をTに話した、 「ホウ、俺を子供と云ったって?」 Tは快活に大きな声で云って笑った。 「そんなに俺は子供らしいかなあ」 「あんな奴のことだ、何にが分るって?一 「特待生様か、ハゝゝゝ」 「俺たちの事なんか分るものか。それからなあ、俺に勉強せって云ったんだ。俺は、馬鹿、貴様勉強って知っているか、特待生になることばかりが勉強なんだろうって云ってやったよ」 「ホウ、兄貴が意見された傾向だねえ」 「ウン、夜遊びに出るなって・…・」 「驚いた、どうも秀才もそうなると困る」 「ウン・…・」 「じや、どうだい、心を入れ変えて、所謂ハゝゝゝ、その勉強家になったら。そして特待生にでもなり、親孝行でもしたら」 Tと別れてから、賢吉は、Tの笑談に云った言葉がへんに重っ苦しく意味ありげに思い出された。自分のとっている道が誤っているんではないだろうか、と否定的になったりして迷わされた。 「今日は・…‥特待生は?……」 Tはそれから、いつでも賢吉を訪ねてくると、そう云った。 「友達のところへお出掛」 「ホウ、めずらしいことだ」 Tは原稿をとり出し、賢吉の前に置く。 「新作だ」 「そうか・…‥ずい分長いねえ」 「読んでみてくれ。それから此の前のはどう思う。読んだか?」 「うん、読んでみた。そうだなあ……」 と賢吉は自分の思っている事を云う。 そして話は色々でる。 しばらくしてから、賢吉は、 「いゝものを見せようか」 と、変に今までとは異った口調で云つた。 「何に?……」 「…‥が、よすかなあ」 とためらった。 「何んだい、じらすなよ」 「フ・・・・・・ン」 賢吉は立って次の室に入った。彼はそれを見せていゝか、悪いか知らなかった。が一つには興味が湧いていた――よく人たちがそうしたものに覚えやすい…‥。それよりは、自分の気持は今のところTにでもみせて・…‥所謂一つの心持のはけ口を見つけなければ、たまらないと思ったからであった。彼は弟の机のひき出しの中の箱をもち出した。 「なんだい?」 「まあ、中を見れ」 Tは箱をあけた。そして中から華奢な花模様のあるレターを取り出した。 「何んだい、ラヴレターかい?」 とTは賢吉を見上げた。がTはそこに意外に厳粛な、真面目な賢吉の顔を見て変に思った。 「よく見れ」 Tは一つを取り上げてみた。 「アーツ、何アんだ、特待生様のじゃないか・…‥う―ん」 Tは頓狂な声をあげた。が、すぐ何かをはばかるように、ひくゝ 「フ…‥ム。うまくやってる」 と、さゝやくように云った。 賢吉はじっとTのそういう様子をみていた。Tの、大きな声を初めあげ、すぐひくゝ云った、その気持が彼にはうなずけた――それは賢吉の手前を考えたものであった。 「癪だ! ・…‥弟が・…・」 賢吉は投げ出すように大きな声で云った。 Tはそれには答えず、二三の手紙を見ていた。 「あてられるねえ。人のラヴレターを見る位つまらないものはない」 とTが云つた。「なアんだ、三人からも来ているんだねえ、これアます/\・…・」 が、調子をちょっと真面目にして、 「が、こんな不真面目な態度で三人も相手にするような淫売的なものなら誰だつて出来るさ。少し自尊心を抑えれば、ねえ、フン」 とつけくわえた。 賢吉は、然し、そういうTの、暗に彼に同情し、彼をなぐさめている心持を感じた。 「癪だ。特待生に女とくるからなあ、弟はまったく、うらやましい…‥」 「なアにこんなもの、俺たちにだって出来るさ……」 Tが、こんな場合に於ける兄の心持を察して言葉をかけている、という事を賢吉は知った。 「今晩だって、何處へ行ったものだか」 賢吉は嘲笑的に云った。「・…兄弟って嫌なもんだ……」 Tはそれについて何か云おうとするようにしたが、やめてたゞ賢吉を見上げた。 「特待生に女か! 弟は要領がいゝ、まったくうまい、要するに偉いんだろうサ」 「要領がいゝ?・…‥フン、まあ偉いことにして置け」 Tはそう同情した。そしてぬすみ見るように賢吉を見上げた……。 (一九二二・一二、発表) http://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/