第三章	國語學の諸問題
 問題の考察
 一、國語の多樣性から
 二、言語の構成から
 三、言語の二面性から
 一般言語學的研究
 國語問題及び國語教育の問題

【問題の考察】
 國語學は、國語即ち日本語の研究を目的とするものであるが、日本語の研究といっても範圍が極めて廣く、研究すべき問題は無數にあって、一々之を擧げ盡す事は出來ない。こゝでは、國語研究の全範圍に亙って、如何なる種類の問題(研究事項)があるべきかを考察したいと思ふ。
 一つのものでも觀點の違ひによって色々の姿があらはれて來るものである。國語も、種々の違った方面から觀察すれば、色々の部面があらはれ、そこに研究すべき各種の問題が見出されるのであるが、どういふ觀點からすれば、あらゆる部面を盡す事が出來るかは困難な問題であって、人によって所見を異にするであらうけれども、次の三つの違った方面からすれば、少くとも重な問題は、大概その中に包含されようと思ふ。
 (一)國語の多樣性から
 (二)言語の構成から
 (三)言語の二面性から
左に之を説明しよう。
【一、國語の多樣性から】
 前章に述べた通り、一口に日本語といっても、決して一樣なものではなく、その中に、互に違った多樣な言語を含んでゐる。この多樣性が實際の國語にどう現じてゐるかを見るに、まづ現代の國語には、口語と文語との區別がある。口語は談話に用ゐる言語であって、口に發し耳に聞くものであり、文語は文書や書物に用ゐる言語であって、文字に書いて讀むものである。兩者の間には、一は耳に訴へ一は目に訴へるといふ根本的の相違がある外に、猶言語として多少の相違がある。現代の日本語はどんな言語でも口語か文語か二つの中の一つに屬するもので、それ以外のものは無い。
 處が、この口語も文語も亦決して一樣なものではなく、その中に種々の言語の違ひがある。まづ口語に於ては、土地土地に各違った言語が行はれてゐる。東京の言語、青森の言語、福岡の言語、鹿兒島の言語、皆それ%\違ってゐる。かやうなその土地土地の言語を方言といふ。現代の口語は、地理的に云へば、全國諸方言の總和であるといってよいのである。かやうな各地の方言に對して全國に通じて行はるべき言語として多少教育ある人々の間に知られてゐる言語がある。之を標準語といふ。現代の標準語は、東京の言語(東京方言)に基づいたもので、之に甚近似してゐるが、全然同一といふのではない。口語には、方言の差異の外に、また階級による相違、年齢による相違(子供の言語などは著しい相違がある)男女による相違、職業による相違などがある。これ等は特殊語とでも名づくべきであらう。
 次に文語の中にも、また種々の違った言語がある。之を大別すれば二種となる。一は口語體の文語であり、一は文章語體の文語である。口語體の文語は口語文といはれるもので、現代の口語に基づく文語であり、文章語體の文語は、所謂文語文であって、文字に書く時の言語として前代から傳はって來た特殊の言語、即ち文章語を用ゐるものである。この兩者の間には明かな相違がある。さうして口語體の文語にも、對話體のもの(「さうであります」「さうです」式の文)と非對話體の文(「さうである」式の文)との違ひがあり、文章語體の文語にも、また普通文、書簡文(候文)、漢文など數種の別があって、之に用ゐる言語にも、之を文字に書く形式にも相違がある(これについては後章に委しく述べる)。
 以上の種々の言語は、同時に竝び行はれてゐるのであって、之を用ゐる人々の住む土地や、屬する階級や團體や職業や身分や、又は之を用ゐる場合の違ふに隨って、違った言語が用ゐられるのであるが、平生その地の方言を使ってゐる人が他の地の人に會った時には標準語を用ゐ、手紙を書く時は候文を書くといふやうに、同一人で、二つ三つの言語を併せ用ゐる事もあると共に、又、その地の方言しか知らないものも稀でなく、それでも、その地の人々と意志を通ずるには少しも不自由を感じない。實際これ等の言語は、何れも他の言語の助を借らずして十分言語としての役目を果す、それだけで獨立した言語である。
 さうして、かやうな種々の言語は、現代に於てはじめて出來たものではなく、多くは古くから傳はって來たもので、皆それ%\自身の歴史を有し、時代時代に於て、各違った形や姿を現じ來ったのである。
 かやうに、日本語といはれてゐるものの中に種々の違った言語があり、その一つ一つが互に獨立した別々の言語と見得るものであるとすれば、これ等は區別して考ふべきものであって、國語の研究も、その中のどの言語を研究するかに隨って區別せらるべきである。
 以上のやうな國語の見方からして起る特殊の研究問題としては、日本語中に幾つの違った言語が區別せられるか、それ等の言語は各如何なる範圍に行はれ、又は如何なる場合に用ゐられるか、その特質は何處にあるか、これ等の言語は幾種類に分れるかなどの問題がある。
【二、言語の構成から】
 國語にかぎらず、あらゆる言語は色々の要素が結合し、種々の單位から成立ってゐる構成體である。之を分解して、要素や單位を見出し、いかに構成せられてゐるかを考察する時、國語研究の種々の部面や問題があらはれて來る。
 言語の二要素 言語は音聲によって、思想を表はすものである。一定の音聲に一定の思想が結び付いて、その音聲が思想を表はす符號となり、その音を聞けばその思想を思ひ浮べ、その思想が思ひ浮べばその音を發し得るといふやうになって初めて言語が成立つ。その音と思想とは、聯想によって結合してゐるのであって、どんな音にどんな思想を結合させるかは、社會的習慣としてきまって居り、社會の違ふに隨って違ってゐる。この音聲と、音聲によって表はされる思想、即ち言語の意味(又は意義)との二つは、言語たる以上は必なくてはならないもので、音聲であっても、意味を思ひ起させないものは、單なる音聲であって言語の音でなく、思想であっても、一定の音聲に伴って心の中に浮ぶものでなければ、單なる思想だけで言語の意味ではない。かやうに、言語は音聲と意味との二つの要素から成立ってゐるものである。
 音聲の方面から見た言語の構成 今、言語の音聲の方面について觀察して見ると、言語は音聲の連續であるが、しかし、どこまでも連續するのでなく、音の句切りがある。「けさ朝顔がさきました」といふことばは、「ました」の次で音を切るのが普通であるが、又「けさ」で句切って、更に「朝顔がさきました」と音を續ける事も出來る。すべて、句切りと句切りとの間の、一つゞきに發音する音を音聲學では「息の段落」(Breath group)といふ。この「息の段落」は長くも短かくもなるのであるが、實際の言語に於て、出來るだけ短く句切って發音し、息の段落を出來る限り多くした場合には、前の文ならば「ケサ|アサガオガ|サキマシタ」と三つになるのであって、それ以上句切って發音する事はない。即ち、かやうな一句切が、實際の言語に於ける最短い息の段落で、音聲上の一種の單位であるが、特別の場合でない限り、息の段落は意味の方の句切りと一致するものであって、右のやうな最短い息の段落は、皆意味をもってゐるのである。かやうなものを、私は假に文節と名づけてゐる。
 音節 言語の音聲を、右に述べたやうな、實際の言語に於てあらはれ得べき最短い息の段落に分っても、なほその一段一段に或意味を伴ふのであるが、更にこれをその意味に關係なく、音聲としてのみ觀て、實際の發音上出來る限り短く句ぎって發音すると、前の例では「ケ・サ・ア・サ・ガ・オ・ガ・サ・キ・マ・シ・タ」と十二に句切る事が出來る。かやうに意味に關係なく、實際の發音を出來る限り短く句ぎった一節を音節といふ。すべて日本語の音聲は、かやうに句切る事が出來るのであって、つまり日本語の音聲は、すべて音節から成立ってゐると見ることが出來る。たま/\,それ以上句ぎる事が出來ないのがあるが、それは、只一つの音節で出來てゐるのである。かやうにして實際の言語を分解して得た各の音節は互に比較してみると、悉く違ったものではなく、同一のものがあって、同じ音節がこゝかしこに現はれてゐるのであって、或一定の言語について見ると、之に用ゐられる互に違った音節は決して無數にあるのではなく、一定の數に限られてゐる。
 單音 次に、或一定の言語に用ゐられる種々の違った音節を互に比較して見ると、「サ」と「メ」、「コ」と「リ」のやうに、全く違って共通する所のないものもあがる、中には、「サ」(sa)と「ス」(su)「サ」(sa)と「カ」(ka)のやうに、そのどこかの部分に音の同じ所があって、その異同にしたがって、更に幾つかに分ける事が出來るものがある。それを出來るだけ細かく分けた一つ一つを單音と稱する(s,k,aなどはその單音を表はす文字である)。どうしても分解出來ぬ音節もあるが、それは、只一つの單音で出來てゐるものである。(日本語では、アイウエオのやうに、只一つで音節をなす單音はわかり易いが、他のものは、多くは結合して音節になってゐるので、一寸わかりにくい。しかし、サスセソなどを互に比較してみれば、最初の部分が共通である事が耳で聞きわける事が出來るのみならず、之を發音する時の舌の位置、口の開き方、息の出し方などを觀察すれば、同じ音である事が一層明白になる。)
 音節と單音 かやうに、音節は單音に分解出來るもので、音節は、一つ又は二つ以上の單音で出來てゐるのである。單音は音節を作る材料となるもので、音節の形は如何なる單音で出來てゐるか、その單音がどういふ風に結び付いてゐるかによってきまるのである。さうして、一定の言語に於ては之に用ゐられる異った音節の數に限りがあるやうに、音節を組立てる違った單音の數にも限りがあって、かなり少數の違った單音が、或は只一つで、或は二つ以上樣々に結びついて、いろ/\違った音節を作るのである。この一定の言語に用ゐられる、あらゆる單音を集めたものを音聲組織といふ。猶單音から音節を構成する方法も、一定の言語には或きまりがあるのであって、決して無制限のものではない。
 音節による言語の構成 又前に述べた、實際の言語に於てあらはれ得べき最短い息の段落(前の例の「ケサ」「アサガオガ」「サキマシタ」の類。何れも意味をもってゐるので、假に文節と名づけたもの)は、すべて音節から成立ってゐるものであるが、音節(又は單音)が、その中のどういふ位置に用ゐられるかに従って、多少の制限がある事がある。例へば東京語に於ては、「ガイコク」(外國)のガと、「ナガイ」(長)のガとは違った音で、(前者はga、後者はnga。音聲文字ではgaとngaとで區別する)、前者は右のやうな音の連續の最初にのみ用ゐ、後者はそれ以外に用ゐる。
 又右のやうな音の連續が二つ以上の音節で出來てゐる場合には、その音節の間に音の高低強弱の關係即ちアクセントがきまってゐる。アクセントは語を發音する時に、どの音節を強く又は高く、どの音節を弱く又は低く發音するといふきまりである。日本の現代語ではアクセントは高低の關係で、この音節は高く、この音節は低いといふ風にきまってゐる。さうして全部の音節の數によって、いくつの違った型があるかがきまってゐる。
 言語の音聲上の單位と構成法 かやうに言語を、その意味を離れて音聲だけについて見ると、言語は一定の單音から構成せられた音節によって構成せられたもので、單音から音節を構成するにも一定のきまりがあり、また、音節が、意味を有する一種の音聲上の單位(文節)を構成するについても、或制限がある事があり、その上にあらはれるアクセントについても或類型が見出されるのである。
 意味の方面から見た言語の構成 次に言語を意味から切り離さず、意味に従って分解してその構成を考へて見るに、我々が言語によって思想をあらはすに當って、非常に多くの語を用ゐる場合があって、その場合には言語の音聲を長く續けて發するが、そんな場合にも、いつまでも續けて發音する事なく、處々で切って、また續けるのである。その切れ目は、普通の場合に於ては意味の切れ目と一致してゐる。その切れ目のつけ方は、かなり自由であって、前にあげた例によれば「ケサ|アサガオガサキマシタ」と二つに切る事もあり、「ケサアサガオガ|サキマシタ」と二つに切る事もあり、「ケサ|アサガオガ|サキマシタ」と三つに切る事があり、又その間ですこしも切らない事もある。これらの切れ目は、つけてもつけなくても勝手であるが、しかし、最後のサキマシタの次は、いつでも切れ目をつける。これは、或事項を言ひ終った所である。「ケサ」や「アサガオガ」では、まだ言ひ終らず、音は切れても意味は完結しない。かやうに或纏まった思想を言ひ終った所は、必音が切れるのであって、その切れ目までの一つゞきの言葉を文といふ。即ち、文は内容から云へば或纏まった思想をあらはしたもので、外形から言へば、何時もその終に音の斷止があるものである。
 文構成の最小單位 一つの文は、實際の言語に於ては、いつでも最初から最後まで一つゞきに發音して、その中間に切れ目をつけないものもある。「いゝえ。」「さうです。」などはさうである(「さう」と切る事はあるが、「さうです」といふ場合に「さう|です」と句切って發音する事はない)。しかし、多くの文に於ては、中間で切る事が出來るものがある。前に擧げた「ケサアサガオガサキマシタ」の如きはその一例である。その切り方にはいろ/\あるが、出來る限り多くの句切りをつけて、細かく切ると、右の例では「ケサ|アサガオガ|サキマシタ」の三つとなって、これ以上に句切る事は出來ない。(「アサガオ|ガ」「サキ|マシ|タ」といふやうに句切って發音する事は、實際の言語には無い。)かやうな一句切は、實に文を構成する最小單位であって、何時でも或きまった意味をもち、きまった動かない形を具へてゐる(即ち、一定の音節が一定の順序に竝び、その各音節のアクセントがきまってゐて、何時でもそれだけは一つゞきに發音せられる)。さうしてそのきまった意味と外形とをもって、或一つの文を構成する單位となるのみならず、又他の文を構成する單位となる。一つの文は、かやうな單位の一つ又は二つ以上で構成せられるものである。かやうな單位は之を句と呼ぶもの(神保格氏言語學概論)又詞と呼ぶもの(松下大三郎氏標準日本文法)などあるが、私は假に之を「文節」と呼んでゐる。
 單語 この單位(文節)は、一つの單語であることがあり、單語に助動詞や助詞をつけたものである事もある。助動詞や助詞は今日普通に單語と認められてゐるが、何時も單獨に用ゐられることなく、必他の語に附屬して之と共に用ゐられる點に於て、他の種の單語と性質を異にするが、之をも單語と見るならば、此等の單位(文節)はすべて單語(一つ又は二つ以上)から成立する。即ち文は單語を材料として構成せられた、かやうな單位によって直接に構成せられたものである。それでは、單語はどんなものかといふに、やはり文節と同じく一定り音から成立ち、一定の意味を持ってゐるものである(助詞や助動詞を附けて文節を作る時は多少音やアクセントが變化する事がある)。さうして上のやうに考へて來れば、單語を、直ちに文を構成する單位と見るのは不穏當であるけれども、文を構成する材料になることは疑ひない。
 文と單語 かやうに考へて來ると、言語は個々の思想を表はす單語を材料とし、之を以て文を構成して或纏った思想を表はすやうになってゐる。我々が實際言語を用ゐる場合には、いつも之を文として用ゐると見ることが出來るのである。我々は、纏った思想を言ひ表はさうとする場合には、それを一つの單語で言ひ表はす事もあるが、多くの場合には之をいくつかの部分に分解して、その部分部分を表はすに適當な個々の思想を表はす單語を選び出し、之を適當に組立てて一つの文として、はじめて之を言ひ表はすのであり、又聞き手の方は、文を組立ててゐる個々の單語を順々に聞いて、その單語の表はす個々の思想をたよりとして、之を綜合して、話手の傳へようとする完き思想を了解するのである。
 以上の如く考へて來ると、あらゆる言語は單語であると見ることが出來ると同時に、あらゆる言語は實際に用ゐる場合には、總て文として用ゐると見ることが出來るのである。
 單語とその構成 單語は、一切の事物を言ひ表はす基礎となるもので、その数が多く、その意味も、その外形(音)も種々樣々である。
 次に單語は、「やま」「かは」のやうに、意味と形の上から見て、それ以上分解出來ないものもあるが、また分解し得べきものがある。「やまかは」は「やま」(山)と「かは」(川)の二つから、「あまがさ」は「あめ」(雨)と「かさ」(傘)との二つから成立ったものと考へられる。成立からいへば、二つの單語が合したものであるが、合した上は一つの單語となったので個々のものは獨立しない。しかし、各意味を有する二つの部分から出來てゐる事は明かに認められる。又「時めく」「學者ぶる」「お寺」「御本」の如く、單語に、或意味をあらはす接頭辞又は接尾辞を加へて出來た單語もある。「はるか」「はる%\」の「はる」は、獨立することなく、いつも他のものと共に單語をなしてゐるが、接頭辞接尾辞とは異なり、意味も形もその單語の中心となってゐる。かやうなものを語根と稱する。語根は、重なり又は他の接頭辞や接尾辞を附けて單語を造る。かやうな單語は、或意味をもってゐる單位から構成せられたもので、その構成法には右のやうにいろ/\の種類があるが、かやうな單語の構成法はあらゆる語にあてはまるのではないけれども、それでもたゞ一つや二つに止らず、いくらかの語に於て共通な法式として存するものである。
 單語の語形變化 又單語の中には、語形を變ずるものがある。活用する語といはれてゐるものが是であって、「讀む」といふ語が「あれも讀み、これも讀む」のやうに、詞の切れ續きによってヨミ、ヨムとなり、又「讀まず」「讀めば」の如く、續く語の相違によって、ヨマ、ヨメとなり、又、「これを讀め」の如く、命令の意味を加へて言ひ切る時はヨメとなるといふ風に、切れ續きの違ひ又は附帶する意味の違ひによって、同じ語がその形を憂へるのである。その語形の變るには、yoma,yomi,yomu,yomeの如く終の母音がかはるのもあり、mi,miru,mire(見)の如く、ルレのやうな語尾が加はるのもあり、oki,oku,okuru(起)のやうに、母音が變化しその上に語尾が加はるものもあるが、それぞれの語に於て、いかなる場合にいかなる形を用ゐるかがきまって居り、一語に於ける語形變化は一定の型をなして、多くの語に於て同樣にあらはれてゐる。
 かやうな語形變化は、同じ意味をあらはす形(「讀む」ならばyom.「起く」ならばok)に、異った母音や語尾がついて出來るもので、變化した一つ一つの形(ヨマ、ヨミ、ヨム、ヨメ等)もやはり單語である事は疑ないから、その性質に於ては、語根に接尾辞が附いて出來た單語と根本的の相違なく、語形變化も、單語の構成法の一種と見てもよいものである。
 文の構成 文は、嚴格に言へば、直接に單語から構成せられるものでなく、前に述べた文構成上の最小單位(文節)から構成せられる。しかし文節は單語から構成せらるゝのみならず、單語一つで出來た文節も少くないのであって、單語は、間接に、或場合には直接に、文の構成に干與する。さうして文全體の意味は、文に用ゐられたすべての單語の意味によって定まる。しかし、單語をただ集めただけでは、單語の意味が結合して一つの纏まった意味を有する文にはならない。どんな單語をどんなに結合させれば、その意味がどんなに結合するかは言語上の習慣としてきまってゐる。又或種類の語は、或他の種類の語と直接結合しないやうな事もある。「大層」「殆ど」「屡」のやうな單語は「事」「物」「人」のやうな語とは結合しない。「或」のやうな語は「大層」「殆ど」「屡」とは結合しないが「事」「物」「人」などとは結合して「或事」「或物」「或人」のやうに一つの結合した意味をあらはす。しかしその場合にも「或」は他の語の前に來る事が必要で、もし後に來れば意味の結合することは無い。又活用する語の活用した一々の形が、それ%\用ゐる場合がきまって居るのであって「面白い」「善い」などは、「事」「物」「人」につゞく場合には「面白い」「善い」の形を用ゐ、「見える」「聞える」などに續く場合には「面白く」「善く」の形を用ゐなければならない。又言ひ切る場合には「面白い」「善い」の形を用ゐて「面白く」「善く」の形を用ゐない。かやうに、單語が文の中に用ゐられ、或は言ひ切りとなり、或は他の語と結合して、結合した意味を表はす爲には、その言語に於ける一定のきまりに従はなければならないのである。單語が文節を作るに當っても、やはり一定のきまりがあって、所謂助動詞や助詞は單獨で文節を作らず、他の種類の單語と共に文節を作るが、その單語の種類によって、或種類の助動詞や助詞につゞくが他の種類のものにはつゞかないといふやうなきまりがある。すべて、これ等のきまりは、文構成上のきまりと見る事が出來るもので、そのきまりは、單語毎に違ってゐるのではなく、或種類の單語一般に通ずるものであり、新しい單語が出來たとしても、やはりこのきまりに従はせる性質のものであるから、文構成上の通則、法式の意味で、文構成法といふべきである。
 又單語は、すべて文の中に用ゐられるものであるが、すべての單語は同じやうに用ゐられるのでなく、語によってその用法が違ってゐる。その用法の異同に従って單語を分類したものが所謂品詞である。
 言語構成の單位と構成法 以上、言語の構成を音聲と意味との二つの方面から觀察して、音聲に關するものと單語に關するものと、文に關するものとの三つの部面がある事を見たのであるが、音聲の基礎的單位は單音であって、それから音節其他の單位が構成せられ、之によって言語の外形が形づくられるのであり、意味を有する單位として最重要なものは單語であって、一方これに基づいて文が構成せられると共に、單語の中には更に小さい單位(語根、接頭辞、接尾辞など)から構成せられたものもあるのである。一の言語に用ゐられるあらゆる違った單音は、個々別々の存在であって、一によって他を推す事は出來ないものであるが、之を集めたものを、その言語の音聲組織又は音韻組織といふ。又、一の言語に用ゐられるあらゆる單語も亦個々別々のもので、一を以て他を推す事の出來ないものである。之を集めたものをその言語の語彙といふ。然るに、単音によって音節を作り、音節によって、意味を有する言語單位を作る場合のいろ/\のきまりは、多くの場合に通じて存するもので、通則又は法式ともいふべきものである。又、單語を用ゐて文を構成する場合のきまりや、單語以下の單位で單語を構成する場合のきまりも、亦多くの場合に通じて行はれる通則又は法式といふべきものである。すべて言語構成の法式又は通則を論ずるのが文法又は語法であるとすれば、右に擧げた音聲上の種々の構成法や、單語の構成法や、文の構成法は、すべて文法(語法)に屬する事項といふ事が出來る。かやうにして、上に述べた種々の部面に關する種々の研究事項は、音聲組織、語彙、及び語法の三つに總括する事が出來る(近來の言語學では、語法の中から音聲に關するものを取って之を音聲組織と併せて音聲論、又は音韻論とするものが多い。さすれば、音聲論と語彙と語法の三つになる)。即ち、音聲組織の研究には、一つの言語が、どれだけの違った單音から成立ってゐるか、その一つ一つの單音はどんな性質のものであるかといふ問題があり、語彙の研究には、一の言語にどれだけの違った單語が用ゐられるか、その一つ一つの單語の意味はどうであるか、外形はどうであるか、いかに構成せられてゐるか、いかに活用するか、どんな品詞に屬するか等の問題があり、語法に關する研究には、音聲に關しては音節の構成法や、音節が更に大きな音聲上の單位を構成する時如何なる法則が行はれてゐるか、アクセントの性質は如何、アクセントにはどんな型があるか等の問題があり、單語に關しては、單語の構成法にはいかなる種類のものがあるか、活用にはどんな型があるか、活用した各の形は、どんな場合に用ゐられるか等の問題があり、文に關しては、語によって文を作る場合にどんな方法があり、どんなきまりがあるか等の問題があるのである。さうして右のやうな種々の事項は言語の違ふに従って異なり、同じ言語でも、時代の遷るに従って變化するものであるから、日本語中でも、違った言語毎に、又時代毎に研究しなければならない。
 文語に於ける特殊の部面 以上擧げたいろ/\の部面は、いかなる言語にもあるものであるが、文語即ち文字を伴ふ一言語に於ては、猶一つの別の部面がある。即ち文字に關するものであって、一々の文字が言語のいかなる要素如何なる單位を表はすか、又一言語の種々の單位なる單音、音節、單語はどういふ文字でどんなにして表はされるか、又文はどんな形で表はされるかといふやうな問題があって、その一つ一つの文字の讀み方及び意味、單語を假名で書く時に起る問題である假名遣の事、漢字と假名で書く時に起る送假名の事、文を書く形式の一部分たる句讀法の事などが問題になる。さうして、この部面に於ても、やはり一々の文字の讀み方や意味、一々の單語の書き方などの如く個々別々のものと句讀法や送假名などの如く多くの場合に通じてのきまりとがある。これも言語の種類の相違や時代の相違によって違ひ、決して一樣ではない。それ故、各種の言語毎に、又各時代毎に研究すべきである。
【三、言語の二面性から】
 言語は時と共に變遷し、時代時代に面目を異にする。絶えざる流動轉變は否むべからさる事實であるが、しかしながら、一つの言語の或一つの時代又は時期だけについて見れば、多少動揺はあるとしても、大體に於て、或定まった状態を呈する。これは、言語としては必然的な性質であって、いかに變遷の激しい時代に於ても、昨日の言語が今日の言語と異るやうでは、思想交換の役目を果すに支障を生ずるからである。かやうにして、時代を重ね時期を經るに隨って順次に一の状態から次の状態へと移って行くのである。さうして言語は、その如何なる状態に於ても、それで思想交換の役目を果して行くのであって、或時代に生れた人々は、その時代に於ける言語を用ゐて、十分に意志を通ずる事が出來、その言語が前の時代に於て如何なる状態を呈したか、又次の時代に於て如何になり行くかを知らないでも少しも不自由を感じない。かやうに、言語の状態が一時代又は一時期に於ては比較的安定である事と時を重ねて轉變する事とは、あらゆる言語に通じた二面性ともいふべきものであって、それから二つの異った言語研究の態度が生れる。一は一時代又は一時期に於ける状態を明かにするもの、一は各時代を通じて史的展開を明かにするものである。一は静態の研究であり、一は動態の研究である。今之を記述的研究及び史的研究と呼ばう(この名稱は必しも適切でないが、便宜に隨って用ゐる。ソシュールF. de Saussureは、前者を静態言語學linguitsique statique又は共時言語學ling synchronique. 後者を進化言語學ling. evolutive又は通時言語學ling. diachroniqueと呼んだ。Cours de linguistique generale. 小林英夫譯言語學原論參照)。
 記述的研究 記述的研究に於ては、或一時代一時代の言語の状態を明かにするのであるが、違った言語であれば同時代に於ても違った状態を呈するかも知れないのであるから、(一)に擧げた國語中の種々の言語の一つ一つについて、その一一の時代(無論現代をも含む)に於ける状態如何を調べなければならない。
 之を明かにするには、(二)に擧げた言語構成の要素や各單位や構成法、即ち音聲組織や音節の構造やアクセントや語彙や語の構成法や文の構成法等の一々について、どうなってゐるかを明かにしなければならない。又、日本語中の各種の言語がいかなる範圍に行はれ、又いかなる場合に用ゐられるかを明かにすべきである。
 史的研究 史的研究に於ては、言語の史的展開を明かにするのであって、國語全體、又は、その中の一種の言語、又は音聲や語法或は語彙に屬する事象が、いかにして生じ、いかに發達し、いかに變遷し、或はいかに衰微し廢絶したかを迹づけ、且つ出來るかぎり、之を起した事情や原因を探求するのである。記述的研究の對象とした、時代時代に於ける言語上の事實が基礎とはなるが、たゞ各時代の事實を明かにするばかりでなく、時の流れに隨って、一の状態から他の新しい状態に移って行った過程を明かにしようとするのである。かやうな研究の態度を以て音聲上の事實に臨めば音聲史の研究となり、語法上の現象に臨めば語法史又は歴史的文法の研究となり、個々の單語に臨めば語源研究となる。又、國語中の諸種の言語については、各地の方言の起源、發達、その分布の變遷、標準語の發生弘布、書簡文其他文語の發達分化の歴史、其他種々の特殊語の歴史等の問題がある。國語全體については國語史の研究となるのであるが、國語の起源の問題は、即ち國語系統の問題であって、之については、日本語の祖語如何、日本語と同じ祖語から分れ出た言語が他にあるか、それと日本語との親近關係如何等の問題が生ずる。その解決の爲には日本語以外の諸國語にまでも研究を及ほさなければならない。更に、言語上の史的事實がどうして起ったかといふ問題になると、言語に影響を及ぼした一切の事項を明かにして、それと言語との關係を考へなければならないのであって、國語内の諸種の言語相互の接觸や、日本語に及ぼせる外國語の影響は勿論、社會の變動、文化の發達、事物の變遷、思想の變化などにまで關聯して研究しなければならないのである。
【一般言語學的研究】
 以上三つの方面から觀察して、國語研究にいかなる部面があり、いかなる種類の問題があるかを考へたのであるが、猶之に逸した部面がある。それは、日本語中の各種の言語の相違や時代による變化に拘らず、日本語全體としての特質は如何なる點にあるか、必しも時代に拘らず、一般に日本語に於て見らるゝ音聲變化、意義變化、語法の變化等に、いかなる種類のもの、いかなる型のものがあるか、日本語は、世界の言語の中、いかなる種類に屬するかといふやうな一般的の問題であって、國語學よりもむしろ一般言語學に近いもの、少くとも一般言語學に關聯したものである。
【國語問題及び國語教育の問題】
 以上考察した國語研究の種々の部面及び問題の中には世に所謂國語問題を含まない。國語問題は、現在の國語及び文字が不統一であり複雜であって、學習に多くの勞力を要し、實用上に不便を來す故に、之を整理し單純化して學習を容易にし實用に便ずる事を目的とし、その爲には如何なる方法をとるべきかを考究するものである。個々の問題としては、何を以て標準語と認むべきかといふ標準語制定の問題、現に各種の文語が用ゐられてゐるが、いかなるものを一般普通のものと認むべきかといふ標準文體の問題、假名遣を簡易にするには如何に之を改むべきかといふ假名遣改定問題、普通一般に用ゐる文字としては何を探るべきかといふ國字問題などがある。これは、現在及び將來の社會に實行すべき方策に關する問題であって、國語に關するものではあるが、社會各方面との關聯を考へて決定すべき問題であって、科學としての國語學の範圍外に屬するものである。又國語教育に關する問題もあるが、これも教育の範圍に屬するもので、國語學とは別のものである。國語問題や國語教育の問題は、國語學の應用的方面と見れば見られないでもないが、しかしこれ等の問題は單に國語學の應用だけに止まるものではない、とはいへ、かやうな問題を考へるに當って、國語學の知識が甚大切である事はいふまでもない。

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