第六章	日本の標準語
 標準語の性質
 古代の標準語
 京都語と標準語
 江戸語の發達
 東京語の流布
 現代の標準語
 參考書

【標準語の性質】
 一つの國語中の方言と方言との違ひが甚しくない間は、違った地方の人々が相會した場合にも各自分の方言を用ゐて大した困難なく思想を通ずる事が出來る。然るに、方言の違ひが甚しくなった時代に、違った地方の人々が直接に交際すると言語の不通の爲に不便を感じることが少くない。そこで違った方言を用ゐる人々が會談する時に、誰にでも通ずる共通の言語が必要になるのであって、その必要に應ずる言語が所謂標準語である。即ち、標準語は口語に屬し、方言が或地に限られてゐるのに對して、土地に拘らぬ共通語である。また普通語ともいはれるが普通は共通の義である。
 それではどんな言語が標準語になるかといふと、或地の言語(即ちそこの方言)が基礎になって出來るもので、政治商業工業其他文化の中心になる地方、殊に近世に於ては都市の言語が土臺になる。これは、かやうな土地は、全國の交通の中心となり、諸地方との交通が盛に行はれる爲、自然その言語が各地の人々に知られる機會が多いのみならず、かやうな土地はあらゆる文化の進んだ處として他の地方の人々から尊敬の念を以て見られる爲に、感化力が強く、その言語もよい言語正しい言語と考へられ易く、隨って各地の人々に行はれ易い情勢にある。猶又かやうな土地が文藝の中心となって、その土地の言語で書かれたものが全國各地の人々に讀まれる場合には、その言語の傳播力は一層強く、種々の方言を用ゐてゐる人々の間に知られ又用ゐられるやうになる。殊に近世の都市は、各地から移って來た人々が雜り住んでゐる爲に、都市の言語は他の地方の言語のやうな極端な方言的特質を有せず、いはば多くの方言を折衷し中和したやうな性質を帶びて居り、隨って違った方言を用ゐる人々の間にも行はれ易い性質をもってゐる。かやうにして、一國の中心たる地の言語は自ら全國に普及して、違った地方の人々が會談する場合に(少くとも、自己の方言でわからぬ場合には)その言語を用ゐるやうになる。標準語は、かやうな言語が基礎になって、之に多少の取捨が施され、全國共通の言語として適當なやうに修正されて行はれるものである。
 今日文明の進んだ國々では國民教育機關に於て、全國一樣に標準語を教へてゐる。隨って標準語は次第に教育を受けた人々の間に弘まり、それさへ覺えれば、全國各地のいくらかでも教育を受けた人々と話をするに差支ないやうになり、その國語を代表する言語となるのである。
 又、標準語は教育に用ゐられる言語であり、教養ある人々の間に知られてゐる言語である。隨って、只自然に鹿え、教育のない人々にも知られてゐる方言に比して、好い言語であり正しい言語であると考へられるやうになるのである。自然、標準語を用ゐる事が、即ち方言を排斥する事であると考へられるやうにもなるが、しかし、實際に於て、標準語は、相異なる方言を話す人々の間に用ゐるのがその本來の性質で、公開の席や他郷の人に對しては之を用ゐるのが至當であるけれども、家庭又は同郷人の間で方言を用ゐる事は、必しも妨の無い事である。我々は、標準語に習熟すればよいので、方言を棄てる事は、その必要條件ではない。
【古代の標準語】
 現代の日本の標準語といふべきは、東京語に基づく東京語式の言語である。ところが、古い時代に於て標準語といふべきものがあったとしたら、それは大和山城地方の言語、殊に平安朝以後は京都の言語である。奈良朝に於ては、方言の違ひはあったであらうが、それも後世と比べると、その違ひは割合に少く、各自の方言でかなり自由に意志を通じることが出來たであらう。かういふ時代には、標準語の必要はあまり感ぜられなかった事とおもはれる。
【京都語と標準語】
 然るに平安朝以後、各地の方言の差異が次第に甚しくなって行った時代に於て、京都の言語は、和歌及び假名文に用ゐられて、文學上の雅語として永くその位置を保ち、又都の人々は、自己の言葉を正雅なるものとし、東國筑紫などの田舎言葉を、「だみたる」「横なばりたる」「聲うちゆがみたる」ものと考へてゐたのである。鎌倉時代に至って、關東に幕府が開かれ、政權は東に遷ったけれども、京都はなほ文化の中心であって、言語に於ても一般には京都の言語が正しいものと考へられたものと思はれる。勿論、當時京都の言語が廣く諸方に知られ、また用ゐられたのではあるまいけれども、一國内に多くの言語の相違がある時に、京都の言語だけが、訛の無い正しい言語と考へられてゐたとすれば、直に之を標準語であるとするのは不當であるとしても、少くとも標準語たるべき重要な資格を具へたものといふを憚らぬ。
 建武中興の業が破れて、足利尊氏が幕府を室町に開いた頃は、公家の人々も坂東聲をつかったといふのであるから、京都の言語は關東方言の影響を受けて、面目を改めたであらうが、しかしながら、京都言葉の優越はその後もかはらず、能の謡ひに於ても京都のアクセントを正しいとしたらしく(金春禪鳳の毛端私珍抄)、ロドリゲスの日本文典にも、都の言語は最よろしく、言葉に於ても發音に於ても學ぶべきものであり、五畿内及びその近隣の數國を除くの外は、開合清濁が正しくなく、己がさま%\に訛って發音する事を述べてゐる。さうして、ロ氏の文典に京都の言語の正しい事を述べながら、なほ都の人々にも、或音の發音に二三の誤ある事を指摘してゐるのは、一層標準語の觀念に近いもので、實際、標準語は、或地の言語に基づくものではあるが、その言語そのまゝではなく、之に取捨が加へられるのである。この趣が一層明白なのは、江戸初期の安原貞室の著「かた言」であって、これは、都の言語の正訛を考へて、訛言を匡正する爲に作ったものである。
 かやうに京都の言語を、正しい、模範的のものとする考は、江戸時代に於ても絶えず、京都の人々は明治以後に於ても、まださういふ考を捨てなかった。しかるに、江戸時代後半に至っては、關東に江戸語が成立して、それが次第に勢を得る事になったのである。
【江戸語の發達】
 徳川氏が江戸に幕府を開いてから、江戸は政治上の中心になり、諸國の武士がこゝに集り、商業工業その他の種々の業務に従事するものが諸方から移り住んで年々人口が殖えて行ったのである。江戸の言葉は、その土地がら關東の方言が土臺になってゐるのであるが、武士の中では徳川氏直參の三河武士の言葉が勢力があり、京大阪から新たに江戸へ移って來たものも少くなく、殊に伊勢近江などの商人が來て業を勞むものが多かったのであり、これらに召使はれるものは、主として關東の諸國から集って來たのである。三河の言葉は東西兩部方言の相混る中部の方言であり、京阪、近江伊勢の言葉は西部方言、殊に近畿地方の言葉である。さうして、江戸は關東地方にあるから、無論關東方言の勢力の中にはあったけれども、又これ等の中部西部の方言が混じてゐたのである。此等の言葉は初の中は相對立してゐたが、江戸時代の半以後になると互に融合して江戸語といふ一つの獨特の言語が成立した。この言語は江戸府内四里四方にのみ行はれたもので、こゝを一歩踏み出すと所謂葛西言葉のやうな純粹の關東方言が行はれてゐたのである。當時西方には京都語が昔ながら勢力があって、それから見れば、江戸語はまだ十分勢力を得るに至らなかったが、それでも、少しづゝ諸國に知られる機會はあったのである。即ち諸侯の參勤交代によって諸國の武士が、郷國から江戸へ出、又江戸から國へ歸って行き、又江戸の藩邸に在勤してゐたものが、國へ轉勤する事があったので、自然、武士階級に江戸語が知られるやうになったと思はれる。その他政治上業務上の用向で江戸へ來、又江戸から四方へ赴く人々も、かなりあったであらう。又後になると、江戸語で書いた洒落本、黄表紙、滑稽本、人情本などが出來、文字によっても諸方へ廣まる機會があったのである。
【東京語の流布】
 然るに、明治維新の後、都を江戸に定められて名を東京と改め、こゝが日本の中心となったのであるが、封建の制を改めて中央集權の制をとった爲、地方と中央との關係が緊密になり、政府も文明の利器を利用して交通の便を開いたので、各地との往來が頓に頻繁になって、東京の言語が地方に廣まる機會が多くなった。明治十年代には、國語改良論者によって、口語に基づく文語(口語文)の必要が唱へられ、小學讀本にも口語文を載せるやうになり、明治二十年代には口語文の小説もあらはれたが、これ等は、概して東京語式の言語を用ゐた。日清戦争後、東京の教育ある社會に行はるゝ言語を基礎として標準語を定むべしとの論が起り、小學校の教育も漸く言語匡正に意を注ぐにいたったが、日露戦争後自然主義の文學が起ってからは、小説はすべて口語文を用ゐる事となり、遂に新聞雜誌までもことごとく口語文となり、小學から中學の教科書にも口語文を多く採用する事となって、東京語式の言語が、文語として日々國民の大多数に讀まるゝにいたった。一方、文明の進歩と共に交通の便が大に開けて、東京式の言語がます/\地方に廣まるやうになった。かやうにして、今日に於て標準語といふべきものは東京式の言語以外に求めることは出來ないのである。
【現代の標準語】
 前述の如く、現代の日本の標準語と見るべきものは東京語式の言語であるが、今日ではまだ十分全國に普及せず、之を使ふ事が出來ないものも少くない上に、之を使ふものでも、その人々の方言の影響を受けて、かなり方言化した標準語を用ゐるやうな有樣であって、實際に於ては、まち/\である。それでは、どういふのが正式の標準語であるかといふに、東京式の言語であるが、實際の東京語(東京方言)と同一ではない。昔の江戸語の正系である純粹の東京語は、寧ろ下層社會に行はれてゐるものであって、ヒの音をシと發音し(ヒバチをシバチと云ふ)、(大根)をデーコン「無い」をネーといひ、「眞白」をマッチロ、「眞直」をマッツグといふやうなものである。教育ある社會では、さすがこんな言ひ方は用ゐないが、それでも、「道理で」をドーレデと云ひ、「第一」(「第一に」の意味)をダイチといふのも、純粹の東京語である。これ等は標準語として全國に用ゐる事は出來ない。かやうな譯で、大體東京の教育ある社會の言語を標準とすべきであるが、しかし、之を悉く、そのまゝ採用する事は出來ない。
 大體東京語に基づき、これまで正しい言語と考へられて來た文章語の要素をも取り入れて作られた普通の口語文の言語は、標準語に近いものであるけれども、これも人によって多少の相違がある上に、その發音に至っては、同じ文字でも、人により地方によっていろ/\の發音をする故、實際上統一せられてはゐない。
 かやうに現代の標準語は、唯、東京語式の言語といふだけで、東京語そのまゝでもなく、又、或きまった動かない姿で現に行はれてゐるのでもない。かなり漠然とした抽象的存在である。しかしこれは、必しも日本語に限った事でなく、あらゆる標準語は、多少かやうな性質をもってゐるもので、つまり、標準語は、現實に存する言語に取捨を加へて、かくあるべしと定めた抽象的な規範又は標準であって、實際に用ゐる場合には、之と多少の相違が生ずるのが常である。唯、現代日本の標準語は、その規範そのものに、まだ不定な點があるのであって、それをどう定めるかが、今後の問題として殘ってゐるのである。之を定めるについては、東京語自身の調査も必要であり、口語文其他の文語の調査や全國諸方言の調査も必要である。
 前述の如く、標準語と方言とは決して相容れないものではない。けれども、標準語が盛に行はれるやうになると、方言は次第に標準語に近づき、各地の方言の差異は益少くなって、遂には全國の方言が標準語に近い言語に統一される事もあり得べきである。
【參考書】
 國語學精義 保科孝一
 現代國語精説 日下部重太郎
 標準語に就きて 上田萬年(國語のため)
 東國方言沿革考 新村出(東方言語史叢考)
 東西兩京の言葉争ひ 吉澤義則(國語説鈴)
 人類と言語 イェスペルセン著、須貝清一、眞鍋義雄譯

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