第七章	口語の變遷
 研究資料
 口語變遷の時期區分
 第一期の口語
 第二期の口語
 第三期の口語
 概括
 參考書

 我國の口語には、上に述べた方言及び標準語の外に、猶、階級、職業、年齢、男女などの違ひによる種々の相違があるのであるが、これ等については、まだ委しい確實な研究が出來てゐないから、之を省略して、口語の時代による變化の大要を述べる事にしたい。
【研究資料】
 一般に國語研究資料として如何なる種類のものがあるかは
既に述べたが、こゝでは、各時代の口語の状態を明かにすべき各種の資料の中、最重要なものを擧げる。
 各時代の言語の状態を知るべき根本資料は、まづ第一に、その時代の言語で書いた文獻であるが、文獻に存する言語は文語(即ち文字に伴ふ言語)であって、口語ではない。しかし過去の口語は、我々が之を直接に知る事は到底不可能である故、文獻に基づいて、之を推定するの外ない。諸種の文獻に存する言語は、口語と非常に違ったものもあり、又之に甚近いものもあらう。又一つの文獻の中でも、或部分、例へば對話の部分だけは口語に近いものもあらう。それは、その文獻の性質や、成立當時の事情などを考へ、又他の文獻の言語と比較するなどの方法によって判斷すべきである。
 文獻に載せられた言語の外に、語學書其他の記載によって、或時代の口語の状態を知り得る事もある。
 右の外、現代の諸方言、及び、佛教や種々の藝能に傳はってゐる讀誦法や語り方謡ひ方なども有力な參考資料となる。殊に、これ等のものは、文獻によっては容易に知り難い、過去の言語り音聲を考へるには缺くべからざる資料であって、諸種の方言、ことに遠僻の地の言語には、いろ/\珍しい音がある事は勿論であり、平安朝以來の傳統を有すると考へられる佛教の聲明(聲楽)や、經文などの讀誦法、鎌倉時代に始まった平曲の語り方、室町時代に始まった謡曲の謡ひ方や狂言の詞、江戸時代に始まった浄瑠璃の語り方などには、今日と違った發音法や讀み方が見出される。これ等は、悉く古代の音の名殘とする事も出來ず、又必しも、創始時代の發音をそのまゝ傳へたものでないかも知れないが、少くとも、中には過去の音聲を傳へてゐるものもあるであらうから、他には容易に得難い資料であるといはなければならない。
 とはいふものの、これ等は畢竟參考資料たるに止まる。第一の根本資料としては、各時代の文獻に據らなければならない。その主なものを時代順に擧げれば、
 奈良朝前のものとしては、魏志後漢書以下、支那歴代の史書の倭人傳に日本の人名地名官名があり、我國では、推古天皇以後の金石文が傳はってゐる。古事記、日本書紀の歌謡は、奈良朝初期に書かれたもので、それより前のものではあるが、永く口傳へに傳はって來たものであるから、言語としては、非常に古い時代のものを少しも違へず殘してゐるかどうかは疑問である。近年見出された琴歌譜の歌も記紀の歌謡と同性質のものであらうが、平安朝初期の筆録と思はれるから、幾分後の言語が混じてゐるかも知れない。藤原朝から奈良朝にかけては、萬葉集の歌や續日本紀中の宣命、法王帝説、風土記、佛足石歌、歌經標式などがある。
 平安朝のものは、初期には神楽歌、催馬楽、古今集の歌などあり、又佛典や漢籍に訓を施したものもある。和訓のある辞書としては、新撰字鏡、和名類聚鈔などがある。次いでは、物語日記草子などの假名文があって、大體、宮廷を中心とした京都の口語を傳へ、殊にその對話などは口語に極めて近かったらうと考へられる。院政時代以後には、今昔物語、打聞集、天仁百座法談、寳物集の如き説話集の類は口語に近いものであったらうと思はれる。類聚名義抄や色葉字類抄などの辞書は、主として漢文の訓を集めたもので、古語も混じて居たであらうけれども、當時の口語も多かったであらう。
 鎌倉時代には、宇治拾遺、十訓抄、古今著聞集、無住の沙石集や雜談集其他の説話集、法然、日蓮、親鸞、道元などの假名の書簡法談、當時の新興文學たる保元平治平家など(殊にその對話の部分)の中には口語に近いものがあらうと思はれる。僅かしか殘ってゐないが、園城寺傳記の中の延年舞の開口の詞は、當時の口語を髣髴たらしめるものがある。
 室町初期のものは、纏まったものは無いやうである。謡曲の對話は此頃の口語を傳へたものであらうが、室町末期以前の本が見出されないので斷言し難い。唯、世阿彌自筆の能が三篇あるので、その一端は窺ふ事が出來る。中期以後は、五山の學僧や公家たちの漢籍や佛典の講義筆記がかなり多く殘ってゐて、當時の口語の面影が見られる。これ等は史記抄、周易抄、臨濟録抄など、抄と名づけられたものが多い故、抄物と總稱せられてゐる。辞書には下學集や節用集などに口語が多く收められてゐるやうである。室町末期から安土桃山時代にかけては、西洋の宣教師が日本語を學ぶ爲の教科書ともいふべきものがある。天草本伊曾保物語(正しくは、「エソボのハブラス」Esopo no Fabulas.一五九二年天草版)、天草本平家物語(正しくは、「日本の言葉とイストリアを學び知らんと欲する人の爲に世話に和げたる平家の物語」Nifon no cotoba to Historia uo narai xiran to fossuru fito no tameni xeua ni yavaraguetaru Feiqe no monogatari. 一五九二年天草版)この二つが主なもので、純粹の口語を羅馬字で寫した點に非常な價値がある。耶蘇會の教父等の共編に成る日葡辞書(Vocabulario de lingoa de Iapam. 一六〇三年長崎版)と、ロドリゲスJoa‾o Rodriguez著日本文典(Arte da lingoa de Iapam.一六〇四−八年長崎版)とは、當時の口語に基づく詳細な辞書と文典で、口語研究の無二の寳典である。其他、閑吟集や室町時代小歌集などの歌謡や、舞の本なども資料になる。狂言の詞も、大體室町時代のものであらうが、狂言記のは江戸時代のものが混じてゐるかも知れない。猶、支那で出來た日本語學書や日本國誌の類、たとへば薛俊の日本寄語、華夷譯語中の日本館譯語、全浙兵制日本風土記には、この時代の單語があつまってゐるが、當時の音聲の研究には大切な資料である。朝鮮の海東諸國紀にも、日本の人名地名が見える。
 江戸時代には、笑話の書には、古くから口語が混じてゐる(この類には醒睡笑、きのふはけふの物語、戲言養氣集をはじめ、多くの書がある)。文學書では元禄頃からの歌舞伎の脚本の類、浄瑠璃、殊に世話淨瑠璃、浮世草子の類、その後興った、洒落本、滑稽本の類など、皆資料になる。松の葉や松の落葉、淋敷座之慰のやうな歌謡集も參考になる。文學以外のものでは、講義説教又は講演の筆記の類がある。耳底記(烏丸光廣)のごときは最古いものであり、説教書や佛書の講義の類も、初期からあったやうであるが、中期以後のものがかなりの數に上る(刊本も少くない)。心學や神道の講釋の書も口語のものが多い。評判記の類には全部口語のものがある。この時代の外國關係のものでは、初期には、朝鮮人康遇聖の作った捷解新語、西班牙の宣教師コリヤードDiego Colladoの懺悔録(NIffonno cotobani yo> confesion to mo-su yo-dai to mata Confesor yori gozensacu mesaruru tama no canyo>naru gio> gio> no coto. 一六三二年羅馬版)と、辞書及び文典(共に一六三二年羅馬版)、末期には、和蘭人ホフマンJ.Hoffmanの日本文典(A Japanese Grammer.一八六八年ライデン版)などが主要なもので、口語研究資料としてそれ%\獨自の價値をもってゐる。
 以上、文獻によって知られる口語は、主として京都の言語を中心とした標準語的の言語であって、それ以外のものとしては、萬葉集の東歌及び防人歌に見られる東國語と、洒落本、黄表紙、滑稽本、川柳等に存する江戸語が、やゝ纏まったもので、其他のものについては斷片的の資料が存するに過ぎない。但し、關東方言については、右の外、室町時代及び江戸初期の佛書の講義筆記に關東語で書いたものが二三あり、また雜兵物語のやうなものもある。
 右のやうな有樣であるから、歴代口語の變遷も、京都地方の標準語的の言語の變遷を主とするの外無い。
 琉球諸島の言語は、歴史時代の最初から日本語とは別の言語として存在し、獨特の發達をして來たもののやうであるから、その歴史は別に攻究すべきである。古代琉球語の資料としては、西暦十二世紀の中葉から十七世紀の中葉まで殆ど五百年間に出來て傳誦せられてゐたオモロ(神歌)を集録した「おもろさうし」(天文元年、慶長十八年、及び元和元年に集録した)があり、朝鮮の海東諸國紀の附録なる語音翻譯、明の華夷譯語中の琉球館譯語、音韻字海などにも語彙を集めて音を註してゐる。その後のものとしては、組躍のやうな戯曲や、諸種の歌がある。
【口語變遷の時期區分】
 國語の歴史が何時頃から初まるかは、いろ/\の考へ方があらうが、西暦三世紀頃の日本語が支那の史書に見えて居り、我國でも、古事記や日本紀に神代の歌が傳はって居るとはいふものの、前者は、人名地名官名等二三十語に過ぎず、後者は久しく口誦せられて、奈良朝の初にはじめて筆録せられたもので、後世の轉訛が無いとは言はれないのであるから、これによって直に太古の日本語の状態を知る事は出來ない。漢字は、かなり古くから我國に入ってゐたけれども、それで日本語を書いたものは、概して推古天皇の頃より後のものしか殘存せず、それも、纏まったものとしては奈良朝以後のものであるとすれば、日本語の状態についてやゝ確實に知り得るのは、主として奈良朝以後であって、それより前に溯り得るとしても、推古天皇以前は甚不確實になるのである。他日琉球の言語との比較研究が完成し、又、他に日本語と同系の言語が見出された結果、或は更に古い時代の状態を明かにし得る事があるかも知れないが、それでも、その年代を定める事は殆ど望が無いであらう。我々は、今日に於ては、推古朝以後、殊に主として奈良朝以後の状態を明かにし、出來れば、之を基礎にしてそれ以前の状態を推測するの外無い。即ち、國語の歴史時代は、主として推古朝の頃にはじまると見るべきである。
 推古朝から今日までは千三百餘年、奈良朝の初からは千二百餘年になるが、この間の口語變遷の時期を如何に分つべきかについては、まだ定説が無い。これは、各時代各時期に於ける口語の状態の精細な研究がまだ出來上らない爲である。従來の研究の結果によれば、奈良朝と平安朝との間、及び室町時代と江戸時代との間には、その言語にかなり著しい相違があるから、その間にそれ%\時期を劃するのは至當と考へられる。平安朝の院政時代以後と、それより前との間にも相違はあるが、これは前二つのものに比してはさほど著しくない。鎌倉時代の言語と室町時代の言語との間にはかなりの差異が見られるのであって、その間に時期を劃すべきやうであるが、鎌倉末期から室町中葉に至る間の各時期の口語の状態がまだ明かになってゐないので、どこに境界を置くべきかがまだ定まらない。それ故、假に、前に擧げた二つの境界線によって、三つの大きな時期に分って置きたいと思ふ。即ち、奈良朝の終までを第一期とし、平安朝の初から室町時代の終までを第二期とし、江戸時代以後を第三期とする。
【第一期の口語】
 推古朝より前は先史時代ともいふべきもので、主として推古朝から奈良朝の終まで凡二百年の間である。奈良朝の文獻にあらはれた言語が研究の基礎となる。その中心となるのは大和地方の言語である。
 (一) 音節の種類
 當時はまだ假名文字(平假名片假名)無く、萬葉假名(漢字)で日本語の音を寫してゐるが、その萬葉假名の用法を調査した結果によると、當時は後世假名文字で書きわけただけの音節を區別した。即ち、伊呂波四十七字の各に相當する音節を區別し、又、其の清音と濁音とも區別したと認められる。それ故、後世では同音に發音するイエオとヰヱヲ、ジズとヂヅ、一語の中及び終のハヒフヘホとワヰウヱヲを當時は明かに區別した。その外に、エキケコソトノヒヘミメヨロの十三の假名に相當する音節が更に各二類に分れて、語によってそのどちらを用ゐるかが定まってゐた。たとへば、同じケに當る音節でも、タケ(竹)イケ(池)ケムリ(煙)などのケと、ケフ(今日)サケブ(叫)ケリ(助動詞)などのケとはそれ%\別類に屬し、前者には、ケの萬葉假名の中で氣宜開該戒などの文字を用ゐ、後者には祁鶏啓家計谿などの文字を用ゐて之を區別した。尤も、この兩類の區別を混同した例は絶無ではなく、假名によってはかなり多いものもあるけれども、概してこの區別があった事は否定出來ない(奈良朝の文獻にかやうな假名の區別がある事をはじめて見出したのは、本居宣長の弟子なる石塚龍麿であって、その著假名遣奥山路にこの事を發表した。但し龍麿は、ヌに二類の別ありとし、ノにはその別なしとしたが、ヌには別なく、ノに二類の別があると見た方が正しいやうである)。右の十三の假名の中、濁音あるものに於ては、濁音の假名にもこの兩類の區別がある。かやうに、當時は、後の假名文字では區別しない音節の區別があったのであって、伊呂波四十七の外に、その濁音二十と前述の十三の假名とその濁音七つ、合計八十七の音節の種類があったのである。さうして、古事記に於ては、右の十三の外に猶モにも二種の區別があるのであるが、これは、古い時代にあった區別が古事記だけに殘り、他には滅びたものと考へられるから、更に古い時代に於ては、もっと多くの音節の區別があったかも知れない。
 右の諸音節の發音は、これに相當する假名文字の今日の發音と大體に於て同じであったらしい。但し、チツヂヅはti tu di duであり、ハヒフヘホの初の子音は、現代のハヘホに於ける如きhではなく、フの子音の如き、兩唇を合せて發するFであったらしい。しかし、もっと古い時代に於てはpであったらうと思はれる(それは琉球の方言の中に殘ってゐる)。即ち、ハヒフヘホの最古の音はパピプペポで、後に次第にファフィフフェフォに變ったのであらう。そのp音であったのは何時の事であるか明かでないが、奈良朝に於ては一語の中及び終ではFであったと考へるべき根據がある。語の初に於てはどうであったか明かでないが、當時既にFになってゐたのではあるまいかと思はれる。サ行の音は今のやうな音でなく、チャチチュチェチョであったらうとの説もあるが疑はしく、シャシシュシェショでなかったかと思はれる節もあるが確かでない。ガ行子音は現代東京語の語の初に來るやうな音(ガクモン、ギリなどのガギの音節の初の子音)で、語の中及び終に來るやうな鼻音(ナガイ、クギなどのガギに於けるng音、音聲文字ではng)は無かったかとおもはれる。
 エキケコ以下十三の假名に相當する音節に於ける二類の別の内、エの二類は母音のeとyeとの區別であって、前者は五十音圖ア行のエであり、後者はヤ行のエに相當する。エ以外のものは、キヒミ(以上イ段)ケヘメ(以上エ段)コソトノヨロ(以上オ段)の十二の假名に關するもので、五十音圖ではイエオの三段に屬するが、その各に於ける二類の別は、多分普通のieo等の母音の附いたものと、之に似た中間母音又は二重母音などの附いたものとの差であるらしい(さすれば、エの二類の別は音節の初の子音の有無であって、五十音圖では行の相違にあたり、エ以外の十二の二類の別は、音節中の母音の相違であって、五十音圖では段の相違にあたり、兩者その性質を異にする)。さうして、これ等に於ける二類の別は、奈良朝に於ては、保たれてはゐるが、多少亂れたものがあり、奈良朝末期には混同したらしいものもあって、かなり兩者の發音が接近してゐたものと考へられる。しかし古い時代には、もっと違った音であったかも知れず、またもっと多くの音節に於ても同樣な區別があったかも知れない。東國方言に於ては、右のやうな二類の區別は、奈良朝に於て既に無かったやうである。
 以上の外に、文字の上にあらはされてゐない音聲の差異があって、實際はもっと多くの音があったかとも疑はれるが、今斷定する事は出來ない(例へば、濁音の前の母音が常に鼻音化するやうな事があっても、必しも之を文字に書きあらはさなかったであらう)。
 (二) 語頭音及び語尾音
 純粹の日本語にはラ行音が一語の最初に來る事がなかった。また、濁音で始まるものも無かったらしい。少くとも一語の最初では清音と濁音とを區別しなかったらしい。漢語にはラ行音や濁音で始まるものがあったであらうが、この期には、まだ外國語式の發音と考へられて居たのではあるまいかと思はれる。又、一語の終には母音が來るのが常であった。漢語を學んでm n ng(ng音)及びptkで終る發音を學んだであらうが、これは漢語(即ち支那語)の場合に限られてゐたであらう。
 (三) 動詞の活用
 四段上一段上二段下二段及びカ行サ行ナ行ラ行の變格の八種が區別せられてゐた。下一段はまだ存在せず、「蹴る」といふ語は、「くゑ」「くう」とワ行下二段に活用したやうである。活用形式は、現今の文章語のと大抵同じであるが、前述したエキケ以下十三の音節に於ける二類の音の別は、活用語尾にもあらはれて、カ行ハ行マ行の活用に於て、四段の已然形の語尾ケヘメは命令形のケヘメと區別があり、四段の連用形の語尾キヒミは、上二段の將然連用のキヒミと區別があった。又「……する事」の意味を有する「取らく」「申さく」「見らく」「告ぐらく」「來(く)らく」「爲(す)らく」のやうな形があった。
 (四) 形容詞の活用
 ク活用とシク活用との區別があった。活用形は、まだ十分に統一せず、現今の文章語の如き、ク・ク・シ・キ・クレ(以上ク活用)シク・シク・シ・シキ・シケレ(以上シク活用)の形の外に、猶將然形には、ク活用にケ、シク活用にシケの形があって、「無けば」「ほしけむ」「善けく」の如く用ゐられ、已然形にも、ク活用にケ、シク活用にシケの形があって、「善けど」「苦しけば」の如く用ゐられた。多分この方が古い形であらう。又「無み」「險(サカ)しみ」の形も盛に行はれた。
 (五)係結
 係結の定まりは、大抵正しく行はれた。即ち、「ぞ」「や」「か」「なも」の助前を承けて文を終止する時は連體形を用ゐ、「こそ」を承けて文を終止する時は已然形を用ゐる。但し、「こそ」の結びが形容詞、又は形容詞式の活用を有する助動詞である場合には「衣こそ二重も善(え)き」「
己が妻こそ常(とこ)めづらしき」のやうに必連體形で結ぶ定まりであった。
 (六)語彙
 純粹の日本語の外に、漢語や梵語も用ゐられた。日本民族は、古く蝦夷即ちアイヌ人と接觸した爲に、その言語が日本語中に入ったものも多少はあったであらうし、又久しく朝鮮と交通して、大陸の文物を朝鮮から學び傳へたのであるから、朝鮮語を國語に混へて用ゐたものも少からぬことゝ思はれるが、これ等はその由來が久しい爲に、純粹の國語と混じて區別しがたく、後には、日本人自身でも、もと外國語から來たものである事を忘れたものが多かったと考へられるのであって、今之を指摘する事が出來ない。支那と交通したのも甚古い時代からであって、古く傳はった支那語が日本語に混じて、日本語のやうになったのもあったであらう(「うま」馬「うめ」梅などはこの種のものと考へられてゐる)。漢字漢文の傳はったのも太古の事であるが、推古朝の頃までは、或一部のものが主として之を用ゐたので、一般の言語に及ぼす影響は甚しくなかったと考へられるが、推古朝以來支那と直接に交通し、隋唐の文物制度を輸入するに及んで、漢語を學び漢文を讀むものが多くなった爲に、上流社會の人々の口語に漢語をまじへる事も少くなかったであらう。萬葉集の歌にも、五位雙六過所(通關券)、法師などの語が見えてゐる。中にも「法師」などは、よほど通俗化してゐたと見えて、正倉院にある奈良朝の文書には「僧」の字の傍に「法志」(即ち法師)と訓したものがある。又、佛教が盛に行はれた爲に、佛語としての梵語も亦國語に混用された。即ち、萬葉集の歌にも、婆羅門など見え、佛足石歌にも釋迦といふ語が用ゐられてゐる。
【第二期の口語】
 平安朝の初から室町時代の終に至る約八百年の永い時代である。この間に更に時代を分つとすれば
 (一)平安朝(但し院政時代以後を除いた三百餘年)
 (二)院政及び鎌倉時代(凡二百五十年)
 (三)室町時代(凡二百五十年)
大體右の如く三つに分てばよからうかと思はれる。この第二期は京都の言語が中心となってゐるのであって、平安朝初期には多少第一期の言語の特徴を殘してゐるが、平安朝に發達した京都の口語が、後の文語の基礎となり、院政及び鎌倉時代以後、文語は漸く固定したが、口語は之と分れて次第に變遷し、室町時代の後半には、種々の點に於て現代の口語に近くなったが、猶平安朝以來の口語の特徴を存してゐる所が少くない。
 (一) 音節の音變化
 平安朝に入ると、前期の終から既に混同する傾向のあったキケコ以下十二の假名及びその濁音の假名の二類の別は全く失はれて同音となり、單純なる母音ieoを有する音節となったやうである。エの二類の別(ア行のエとヤ行のエ)は、最初の中は大體保存せられてゐたが、朱雀村上兩帝の時代には同音となってしまった(平安朝初期、エの二類の別がなほあった時代の音聲の状態を大體に於て代表するものが「あめつち」の誦文であって、これは「あめつちほしそらやまかはみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるおふせよえのえをなれゐて」の四十八字から成り、「え」が二つ出てゐる。伊呂波四十七字は、エの別が失はれてからの音聲の状態を代表するものである)。次いで語の中及び終のハヒフヘホが、その初の子音Fが次第にwに近くなって遂にワヰウヱヲと混同し、ヰヱヲはその初の子音wが次第に弱くなり、遂に失はれてイエオと混同するやうになったのであるが、この變化は大體一條天皇の頃には完成したらしい(即ち、それ以後は、伊呂波四十七字の中で、實際の發音上區別あるのは四十四だけになった。この點に於ては、現代の口語と同樣になったのである)。
 ハヒフヘホは、語の初に於ては第二期を通じてFa Fi Fu Fe Foの音であったやうである。チツヂヅの音節は、平安朝に於ては第一期と同じくti tu di duであったと思はれるが、室町中葉以後はchi tsu dji dzu(音聲文字ではtlong Si tsu dlong Z like 3i dzu)と變じてゐる。この變化は徐々に起ったのであらうが、大體鎌倉時代の末までは、もとの形が用ゐられたのであるまいかと思はれる。かやうに音は變化したが、なほジとヂ、ズとヅの區別はあった。(ジはji、ヂはdji、ズはzu、ヅはdzu)
 平安朝に入っては、音便といはれる音變化が生じた。之は、種々の音殊にiuを含む音節がイ、ウ、ン又は促音に變化するのをいふのであって、スキガキがスイガイ(透垣)となり、シロキモノがシロイモノ(白粉)となり、ウツクシクテがウツクシウテ(美しうて)、オミナがオウナ(嫗)となり、ノムドがノンド(喉)、ツミタルがツンダル(摘んだる)、サカリナリがサカンナリ(盛なり)、アルベキがアンベイとなり、タモチテがタモッテ(保って)となる類である。これは、平安朝初期から多少あったものと思はれるが、その後、口語には盛に行はれるやうになった。その結果、多分漢語にはあったであらうが、純粹の國語には普通は用ゐられなかったらしいンの音(鼻音又は鼻母音で成る音節)及び促音が國語にあらはれるやうになった(平安朝では、ン音及び促音は假名では書き表はされてゐない事が多い。又「い」「う」と書かれてゐるものの中に、ン音を表はすものがあらうと思はれる)。
 院政時代以後、音便は益盛に行はれ、動詞形容詞の語尾や、助動詞助詞なども、音便の爲にその形が變り、室町時代に於ては、それが口語に於ける定まった形となったものが少くない。
 日本語は、母首の音節が語の中又は終に來て、直前の音節の母音と二つの母音が竝んであらはれる事は極めて稀であった(奈良朝の文獻では、カイ「擢」、マウク「設」、マウス「申」など極めて少數の例があるに過ぎない)、然るに、漢語には、もとから母音の重なるものがあり、又語尾のng音m音などが、日本化して遂にウ又はイの音となった爲に、その前の母音と重なるやうになったものもあり、又純粹の日本語でも、平安朝に於ける音變化によって、「ゑ」「へ」「ゐ」「ひ」「ふ」「を」「ほ」等の音節がその子音を失ひ、又所謂音便によって種々の音節がイ、ウなどになった爲、二つの母音が拉ぶやうになったものも少くない。これ等の相竝ぶ二つの母音が、平安朝以後に於て合體して、一の長母音となったものがある。即ち、u音が(一)oを含む音節(五十音圖オ段の音)の次に來る時、ouの母音が合してoの長音となり(「功」のコウがko-となり、「僧」のソウがso-となり、共のキョウがkyo-となる類)(二)eを含む音節(エ段音)の次に來る時、euの母音が合してyo-音(音聲文字ではjo:)となり、その最初のyは、その前の子音と合して拗音となった(「葉」のエウがyo-となり、「教」のケウ、「妙」のメウは、それ%\kyo-、myo-となった)。従って、キョウ、ショウ、チョウの類と、ケウ、セウ、テウの類とは同音になった。以上二種の變化は比較的早く起ったものらしく、院政鎌倉時代に於ては、この兩種のoは同音であったやうである。又u音が(三)aを含む音節(ア段の音)の次に來る時、auが合體して、遂にoの長者となったのであるが(「行」のカウがko-となり、「明」のミャウがmyo-となる類)、それはauから直にoになったのでなく、まづaoとなり、更に開音のoの長音となり、更に普通のoの長音となったと考へられる(開音のoは普通のoよりももっと多く口を開いて發する、aに近いオの音。英語のallのaの音と同類で、音聲文字ではreversed cであらはす)。然るにこの類は、室町時代の終までは、まだ大體開音のoの長音であって、(一)及び(二)の類とは發音上區別があって混同する事がなかった。
 かやうにウはその前に來る母音と合體して長母音となる事があったが、イはさやうな事は無く、エイ、レイなどは。ei reiと發音した。但し、室町時代には、方言によってはアイの類を一の長母音に發音したものもあるらしい。
 (二) 語頭音及び語尾音
 この期に於ては、ラ行音及び濁音も、普通、語の最初に用ゐられるやうになった。ハ行音は、平安朝に於て語中語尾に於けるものがワ行音と同音になった結果、以後は普通語頭にのみあらはれる事となった。ウマ(馬)ウメ(梅)のウが平安朝に於てm音となり、後にはウマル(生)、ウバ(嫗)、ウモル(埋)などのウも、mとなって、mの音節が語頭に來る事となった。語の終には、母音の外、ンのやうな鼻音又は鼻母音も用ゐられるにいたった。
 (三) 動詞の活用
 平安朝に於て、「蹴る」が下一段に活用して、はじめて下一段活用が出來、動詞の活用形式はすべて九種となった(今日の文章語と同じ)。第一期に盛に用ゐられた「取らく」「すらく」等の形は、口語としては平安朝初期に滅びた。平安朝の盛時に於て、口語には、文を終止する場合に連體形を用ゐる事が少くなかったが、この傾向は、時代を經ると共に甚しくなり、室町中葉以後に於ては連體形を用ゐるのが常となった。爲に、ラ行變格はラ行四段と區別がなくなり、活用の種類は八種となった。又、四段、ナ變、ラ變の動詞の連用形に音便が生じて、室町時代に至っては、「書いて」「取って」「舞うつ歌うつ」「頼んだ」又は「頼うだ」「措いた」「喜うで」などの形が一般に用ゐられた。
 (四) 形容詞の活用
 第一期に於て將然形としてク、シクと共に用ゐられたケ、シケの形、已然形としてケレ、シケレと共に用ゐられたケ、シケの形が、この期に入って滅び、「善み」「清み」の形も早く用ゐられなくなって、平安朝に於ては、形容詞の活用は今日の文章語と同樣の形に統一せられた。しかし、平安朝に於て、音便によって、連用形がウ、シウとなり、連體形がイ、シイとなったものがあるが、この形は、その後口語に於ては次第に勢を得、室町中葉以後には普通の形となった。終止形は、院政鎌倉時代には、シク活用では、時にシシの形をも用ゐたが(惜しし、烈しし、厭はししの類)、動詞と同じく、形容詞でも連體形が終止形の代りに用ゐられる事が次第に多くなり、遂に室町時代には、それが一般化して、口語の形容詞の活用は次の如くなった。
 善 ク  ウ  イ  イ  ケレ
 苦 シク シウ シイ シイ シケレ
但し、關東方言では、連用形にク、シクの形を用ゐた。
 (五)係結
 係結は、平安朝に於ては大體正しく行はれた。但し、第一期に於て、「こそ」を形容詞、又は形容詞式に活用する助動詞で結ぶ場合には、連體形を用ゐる定まりであったのが、この期では、動詞で結ぶ場合と同じく已然形で結ぶ事となった。院政鎌倉時代に至ると、係の助詞なくとも連體形で文を終止する事が多くなり、室町時代には、遂に口語では連體形で結ぶのが普通となり、又、係の助詞も、鎌倉時代以後用ゐられなくなったものや、その用法の變って來たものなどあって、連體形で結ぶ係結は特殊の法則としては感ぜられなくなった。「こそ」の係結だけは、室町時代にも猶行はれたが、まゝ亂れたものもある。
 (六)語彙
 音便の爲に、その形を變じた語が少くない。漢語は段々通俗化して、口語に多くあらはれるやうになった。第一期では漢語の國語中にあらはれるのは、大抵名詞の類に限られてゐたやうであるが、平安朝に於ては、「切(せち)に」「優に」「掲焉(けちえん)に」「具す」「念ず」など副詞動詞などにまで用ゐられ、更に「しうねし」「さうぞく」の如く、語尾を活用させてさへ用ゐられるに至った。以後も、この傾向は益甚しく、佛教、殊に院政鎌倉時代に起った平民佛教によって、僧侶の口から、漢語が庶民の間に傳はり、無學な人々も漢語を用ゐるに至ったのであらうと思はれる。又、平安朝中期から室町時代にかけて、宋元明と交通した結果、彼の地から傳はったものの名として當時の支那語をそのまゝ用ゐたものもあったが、殊に、彼地に渡って僧堂の生活をして歸った禪僧によって、寺院や僧侶の制度や行事などの名、衣服食物などの名目が傳はって、鎌倉室町時代には盛に行はれた(「維那(イノ)」「門司(モンス)」「看經(カンキン)」「行脚(アンギャ)」「拂子(ホッス)」「蒲團(フトン)」「卓(ショク)」「椅子(イス)」「鈴(リン)」「鑵子(クヮンス)」「托子(タクス)」「楪子(チャツ)」「湯瓶(タウビン)」「焙爐(ホイロ)」「饅頭(マンヂウ)」「杏子(アンズ)」など)。又、室町時代には、西洋との交通が始まり、葡萄牙西班牙和蘭等の商船が來航し、又、熱心な基督教の宣教師が渡來して、鋭意吉利支丹(即ち基督教)の宣布に従事し、九州から畿内地方までも入り込んで、多くの豪族や庶民の歸依を得たが、その爲に、貿易品の名や、基督教關係の名目として西洋語が國語中に入った。それは主として葡萄牙語であって、基督教關係の名目も葡萄牙語を用ゐ、拉丁語も多少は用ゐたが、之も葡萄牙語流に發音した。カネキン(canequin)カルタ(carta)カッパ(capa)ボタン(bota‾o)タバコ(tabaco)サラサ(sarasa)ラシャ(raxa)など、基督教關係にはキリシタン(christa‾o基督教)バテレン(padre教父)ハッハ(papa法王)バウチズモ(bautismo洗禮)アンジョ(anjo天使)クルス(cruz十字架)ジュイゾ(juizo審判)デウス(Deus天主)など甚多い。
【第三期の口語】
 江戸時代の初から現代にいたる三百餘年の間である。室町時代に於て、現代の口語に近くなったとはいふものの、猶、平安朝以來の言語の特徴をかなり殘してゐたのが、この期に入って、江戸初期に更に變化を重ねて、大體現代の口語の特徴を具へるやうになったのである。この期の口語の重要なる點に於ける變化及び特徴は、
 (一) 音節の音變化
 ジとヂ、ズとヅの音は、室町時代にはジは、ji(音聲文字ではlong zi)ヂはdji(dlong zi)、ズはzuヅはdzuで區別せられてゐたが、江戸時代に入っては、ヂ、ヅの初のd音が弱くなり、遂にジ、ズと同音になった(京都の言語では、室町末期に既にこの混同が起ってゐたやうである)。この變化は、東國に始まって近畿地方に及び更に西方に擴まったやうである。
 室町末期までは、auから來たオーの長音は開音であって、ou euから來たオーの長音とは區別があったが、江戸時代に入ると、開音のオーは普通のオー音に變じて、兩者の區別が無くなった(即ち、「かう」「さう」「たう」と「こう」「そう」「とう」が同音となり「きゃう」「しゃう」「ちゃう」と「きょう」「しょう」「ちょう」と「げう」「せう」「てう」とが同音となった)。又eiの音は次第にe-にかはって行ったやうである(禮「れい」塀「へい」がre-he-となった)。
 Fa Fi Fu Fe Foと發音したハヒフヘホの音は、江戸初期から漸次にha hi Fu he hoの音に變じて行った。
 かやうにして、江戸時代後半に於ては、大體今日の標準語の發音のやうになった。
 (二) 動詞の活用
 江戸初期に上下二段の動詞が上下一段に變った。この傾向は既に室町末期の京都語に見えたが、當時東國では既に一段に變ってゐた。その影響が次第に京都の言語に及び、更に西方の諸國にも傳はったのであらう。又ナ行變格は、江戸初期には、なほその特徴を保ってゐたが、半を過ぎると四段式に活用するやうになったらしい。かやうにして、動詞の活用は、四段、上一段、下一段、カ變、サ變の五種となった(この點で今日の標準語と同樣になった)。
 (三) 形容詞の活用
 將然形「く」「しく」は江戸初期には「くは」「しくは」として猶多少用ゐられたが、次第に用ゐられずなって、形容詞の活用は、今日の標準語のやうになった。
 (四) 係結
 「こそ」を已然形で結ぶものだけは、江戸時代にも猶名殘を留めてゐたが、しかし時代が下ると共に益用ゐられなくなり、遂に全く滅びた。
 (五)語彙
 江戸時代に於ては漢語の口語に用ゐられる事が前代よりも幾分多くなったらしいが、明治以後、教育の進歩と共に益多くなって行った。西洋の新事物を輸入するにあたって、その名稱として新に作った漢語が多く、これも盛に口語に用ゐられるにいたった。
 江戸時代に支那との交通によって、新しい支那語が多少輸入されて用ゐられた。西洋の言語は、江戸時代の初、吉利支丹の禁斷によって、室町以來の基督教關係の外來語は大抵用ゐられなくなったが、これに關係ないものは引續いて行はれ、益通俗化して行った。和蘭とは通商をつゞけた爲、その語が多少輸入せられたが、江戸時代の半以後蘭學が盛になってからは、かなり多くの和蘭語が用ゐられた。しかし、後に英語が行はれるに及んで、廢れたものが少くない。後までも用ゐられてゐるのは、コンパスkompas.ブリキblik.ペンキpik,pek.ペンpen.ゴムgom.ヅックdoek.サーベルsabelなど。
 維新前から明治以後にかけて、英語、獨逸語、佛蘭西語等が學習せられたが、中にも英語が最盛で、種々の名目に用ゐられて口語に入ったものが甚多い。獨逸語は、醫學哲學社會科學登山スキー等の用語に、佛蘭西語は美術關係の語に多く用ゐられる。明治以後西洋から輸入した事物に對しては、譯名を用ゐるのが普通であったが、近來は、原語をそのまゝ用ゐる事が甚多くなった。
【概括】
 以上述べた所によれば、口語は、第二期即ち平安朝から室町時代に至る間に於て、種々の點に於てその面目を改め、更に江戸時代の初期に於ける種々の變化を經て遂に現代口語のやうな特徴を具ふるにいたった。現代の標準語及び多くの方言は、語彙や種々の表現法に於ては江戸時代の口語と大に趣を異にした所があるけれども、その音聲及び語法の大綱に於ては、江戸時代の口語とさしたる相違は無い。但し方言の或ものに於ては、二三の重要なる點に於て、今猶第二期の言語の特徴を殘してゐるものがある。例へば、九州の大部分や土佐の方言にジとヂ及びズとヅの區別があり、九州の大部分や紀州の一部に二段活用の動詞が殘り、東北や出雲の方言にハ行音の或ものにFの子音を存するなどその例である。
【參考書】
 國語史概説 吉澤義則
 口語法別記 大槻文彦
 高等國文法 安田喜代門
 假名遣及假名字體沿革史料 大矢透
 疑問假名遣 國語調査委員會
 古代國語の研究 安藤正次
 奈良朝文法史 山田孝雄
 假名遣奥山路 石塚龍麿
 上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法 橋本進吉(國語と國文學第八卷第九號)
 古言衣延辨 奥村榮實
 平安朝文法史 山田孝雄
 平家物語の語法 山田孝雄
 足利時代の言語に就いて 新村出(東方言語史叢考)
 室町時代の言語研究(抄物篇)湯澤幸吉郎
 文禄元年天草版吉利支丹教義の研究 橋本進吉
 國語史上の一劃期 春日政治(日本文學講座)
 近代口語一斑 松尾捨治郎(國文法論纂)
 外來語について 市河三喜(ことばの講座第一輯)

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