第八章	日本の文字
 文字の性質
 文字の種類
 文字の起源發達
 日本に於ける文字の種類
 支那に於ける漢字
 六書
 漢字の字體
 漢字の字形の統一
 日本に於ける漢字
 漢字の字體
 漢字の音
 漢字の訓
 漢字の音字的用法
 萬葉假名或は真假名
 平假名及び片假名
 平假名
 片假名
 假名の作者
 假名遣
 假名遣の歴史
 ローマ宇
 日本に於けるローマ字
 參考書

【文字の性質】
 文字は言語を表はす記號である。音聾による言語(口語)は發するとすぐ消え失せるもので、永く之を保存する事が出來ず、又遠い處へは達し難いものであるからして、之を後までも殘し、又遠方の人々にも通ずる爲に、言語の音聲意義を一定の記號で代表せしめて、目に見える形としたものが文字である。
 文字は一言語と同じく社會的習慣の一つであって、いかなる文字をどう用ゐるかは、社會の異なるに従って違ってゐる。文字の違ひは必しも言語の違ひと一致しない。言語が全く違っても同じ文字を用ゐる事があり、同じ言語をいろいろ違った文字で書く事もある。
【文字の種類】
 世界に種々の文字があるが、その性質によって分類すると、意字と音字の二種に分れる。意字は表意文字とも云ひ、一々の文字が意味を有ってゐるもの、即ち言語の意義上の或單位を代表するものである。漢字のごときはその例である。(「山」「川」「高」「流」など皆意味をもってゐる)。音字は表音文字(又は標音文字)又は音標文字とも云ひ、言語の音を表はすもので、一々の文字には意味が無いものである。假名やローマ字のごときその例である。勿論意字でも、言語の意義を表はすばかりでなく、音をも表はすのであるが、(「山」はサン・ヤマなどの音をもってゐる)、意字は或意味の單位を表はすのが主で、音聲は、その意味を表はすものとして、そのまゝ分析しないで之を表はすのである。「山」の字は「やま」といふ意味をあらはすのが主で、サン又はヤマといふ音をも表はすが、それは「やま」といふ意味を有する音として之を表はすので、同じサン又はヤマでも、「やま」といふ意味をもってゐなければ「山」とは書かない。又サン又はヤマといふ音を全體として表はすので、之をサ・ン又ヤ・マと分析して表はす事はない)。音字も亦意味を表はさない事は無いが(「カ」が「蚊」の意味を、「キ」が「木」の意味を表はす類)、その文字は、何時もその意味を表はすのでなく、音さへ同じであれば同じ文字で書く。又、幾つかの文字が集まって、或意味を表はすのが常である。かやうにして、意字には形と音と義(意義)との三つを具へ、音字は形と音との二つを具へてゐるだけである。
 音字は更に分って二種とする。一つの文字が音節を表はすものを音節文字とし、一つの文字が單音を表はすのを單音文字とする。或は、言語の音を音節に分解して、之を一つ一つの文字に代表させたのが音節文字であり、更に之を單音にまで分解して、之を一つ一つの文字に代表させたのが單音文字であるといってもよい。假名や梵字は音節文字であり、ローマ字ギリシャ字の如きは單音文字である(朝鮮の諺文の如きは、單音文字ではあるが、之を組み立てて音節文字のやうにして之を用ゐる)。
【文字の起源發達】
 文字は、事物そのものを示す爲の記號又は圖畫から發生したものである。まだ文字の無い時にも、或物の形を寫してそのものを示し、又或符號を書いて或事を示した。その形その符號は、その事物自身を直接に示すのであって、その事物を表はす言語とは關係が無かったのであるが、その形その符號がその事物を示す處から、同じ事物をさし示す言語との間に關係が生じて、その形や符號が、その事物のみならず、これを表はす言語をも示すやうになって、はじめて文字となったのである(例へば、目そのものを表はした形が、「メ」といふ語を表はすやうになって、はじめて「目」といふ文字になった)。それ故、最初に出來た文字は、事物の觀念を表はす文字即ち意字である。意字は無論音をも表はすが、意字がその意義にかゝはらず、唯言語の音を表はす爲にのみ用ゐられるやうになって、はじめて音字が出來るのであるが、意字は意義を有する言語の單位を表はすもので、普通の場合單語を代表するものであり、單語の音の形は音節から成立ってゐるのが常であるから、意字から變じてまづ出來た音字は音節文字であり、その音節文字が更に變じて單音文字が出來るのが、文字發達の一般原則である。
【日本に於ける文字の種類】
 我國には古く文字が無かった。漢字が傳はって、はじめて文字を學び、遂にこれで日本語をも寫したが、後には漢字から假名が出來て、以後漢字と假名とが永く用ゐられた。又印度で用ゐられた梵字が僧侶の手で支那から傳はったが、これは梵語を書く爲に用ゐられ、日本語としては、間々人名を之で記すものがあった位である。又ローマ字が西洋から傳はり、之で日本語を書く事もあるが、特殊の場合に限られてゐる。かやうに、我國に用ゐられた文字は、すべて外國の文字か、又はそれから發生したものである。
 しかるに、これ等の外に日本固有の文字があったといふ説がある。所謂神代文字がこれである。これは江戸時代の一部の國學者神道家の間に唱へられたもので、日文(ヒフミ)、秀眞(ホツマ)、天名地鎭(アナイチ)其他種々のものがあるが、これらは神代からあったものとは到底信ずることの出來ないものである。平田篤胤は神字日文傳を著して、日文だけを信ずべきものとし、他は疑はしいとした。然るに、日文は對馬の阿比留家に傳はったといふもので、文字の構成を見ると、單音文字を組み立てて音節をあらはすもので、その形は朝鮮の諺文に酷似してゐる。二三の例を示せば、
  
これは明かに諺文に基づいて作ったもので、諺文は朝鮮の世宗の時はじめて作られたものであるから、日文はそれ以後のものである事疑無い。篤胤は、諺文との類似を認めながら、却って、日文が古く朝鮮に傳はって殘ってゐたのに基づいて諺文を作ったものとしてゐるが、さうで無い事は、諺文創定の歴史や、それまでの朝鮮の文字の歴史を見れば明かである。猶、日文は伊呂波と同じく四十七字であって、濁音を除いて六十種の音節を區別した奈良朝の言語は勿論の事、四十八種の音節を區別した平安朝初期の言語を寫すにも不十分である事、もし日文が實際世に行はれたものとすれば、これで國語を書いたものが殘存すべき筈であるのに、さやうなものはなく、あらゆる違った文字だけを集めた字母表といふべきもののみが存する事、その字母表の順序も「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」となって、かやうな順序は古書にも所見なく、全く意味をなさぬ事、又、一般文字史上單音文字は最發達した段階に屬するものであるから、日文の如き單音文字は我國にはじめて出來た原始的の文字とは考へ難い事などの諸點から觀れば、日文は決して古く我國に出來て行はれたものではなく、ずっと後世に誰かが作ったものと考へられる。日文以外の諸種の神代文字は、更に一層疑はしいものである。さすれば、我國には、固有の文字は無かったのであって、漢字が早く渡來した爲、之を用ゐて日本語をも寫したものとおもはれる。
【支那に於ける漢字】
 漢字は漢民族の間に發生し發達した文字であって、物の形を寫した粗畫や物事を示す符號から發達して、支那語を表はすやうになった意字である。支那では黄帝の時倉頡といふものがはじめて作ったと傳へてゐるが、勿論或箇人の工夫したものではなく、自ら出來、自ら發達したものと考へられる。
 現今に於て見る事が出來る最古の漢字は、段代(西紀前十四世紀)のもので、ト占に用ゐた龜甲獣骨に刻したものである。
【六書】
 支那では、古くから、あらゆる漢字の構成法及び使用法を六種に分ってゐる。之を六書といふ。象形、指事、會意、形聲、轉注、假借が是である。
 (一)象形
 物の形を寫した略書から出來たものである。「山」「水」「鳥」「馬」などの字の原始の形は、そのものの形を書いたものである。
 (二)指事
 形のないもの、又定形の無いものなどを示す爲の符號であって、多くは象徴的のものである。「一」「二」の字の如きは、「ひとつ」「ふたつ」の如き抽象的概念を示す爲に、線を畫いて線の數によって之を示したものである。又、象形字に基づいたものがある。木の形を示した文字の上端に近く一横線を加へて「末」を示し、下端に近く一横線を加へて「本」を示す類である。
 以上、象形指事の二種によって、文字の基本たる形が出來る。以下の二つは、之を合成したものである。
 (三)會意
 二つ(又は二つ以上)の字を組合せて作ったもので、もとの字の意味によって、新な文字の意味を示すものである。「武」は「止」と「戈」との二字を組合せ、「信」は「人」と「言」とを組合せたもので、戈を止むるが即ち武であり、人の言は信なるものであるとの考から來たものである。止も戈も人も言も共にその字の意味をとったのであって、その音は全く關係しない。もとの字と出來上った字との間には、意味上の關係はあるが音の上の關係は無い。
 (四)形聲
 又譜聲ともいふ。二字を組合せて作ったものであるが、一の字から音を取り、他の字からは意味を取ったものである。即ち、一方の字は、その音によって、合成せられた文字が如何なる音であるかを示し、他の一方の字は、その意義によって、合成せられた文字が、意味上如何なる種類に屬するかを示すのである。例へば、「可」と「水」とを合成した「河」は、「可」の字からは音カを取り、「水」からは意味「みづ」を取って、「河」の音はカであって、その意味は水に關するものである事を示す。かやうにして支那語に多い同音異義の語を文字で區別して示すのである。河珂柯軻〓等は皆「可」の音を有する字であるが、その意味は「水」「玉」「木」「車」「土」などの部分によって區別せられてゐる。又河江流潅浸などは、音は異なるがその意味は皆水に關するものである。漢字にはこの種のものが甚多い。
 以上四種の方法によって、あらゆる漢字の形は成立したものである。しかし、文字は、必しもその成立當時の音や意義にのみ用ゐるものでなく、また他の場合に轉用する事がある。次の二つはその轉用に關するものである。
 (五)轉注
 或文字の表はしてゐた語の意味が變化して新しい意味が生じた場合に、この變化した意味を示す爲に新しい文字を作らず、その文字をそのまゝ用ゐて新しい意味を表はさしめるものをいふ。「令」はもと「命令」の義を示す爲に作られた字であるが、命令する意味から新に命令する者といふ義が生じた(縣令の如き)。この新義を示す文字を作らず、やはり「令」を以てその意義を示すのである。その結果として、同一字が二つ又は二つ以上の意味を表はす事となる。時には、意味のみならず、音までも變化したのを、そのまゝもとの字で表はす事がある。「楽」は音楽を示す文字で音はガクであるが、それから「たのし」の義が生じて音もラクとなり、又一方「ねがふ」の義が生じて音もゲウとなったが、その場合にも文字はやはり「楽」の字を轉用した。爲に「楽」にはガク、ラク、ゲウの一二つの音、「音楽」「たのし」「ねがふ」の三つの意義を有するに至った(轉注の意味については諸説まちまちであるが、今は漢字の構成及び使用法を説明するに最適當と思はれる説によった)。
 (六)假借
 或語を表はすに、その語と意味上全く關係なく、只音のみが等しい文字を以てするものである。「しかうして」の義を有する「ジ」の語を示す文字として、或一種の「ひげ」を意味するジといふ語をあらはす爲に作られた「而」の字を用ゐる如き是である。その結果、同字が二つ或は二つ以上の意味を示すやうになるのであるが、前條の轉注の場合と違ふ點は、轉住では、同字の示す種々の意義は互に關係があって、その一つから變じて他のものが出來たといふやうな性質のものであるに對して、假借の場合は、同字の示す種々の意義の間に全く關係のないものである事である。漢字で外國語を示す場合も亦假借に屬する。之を音譯といふ。
 あらゆる漢字は以上六種の方法によって構成され使用されたものとすれば、一々の漢字の起源は之によって説明し盡さるべきであるが、實際はその何れに屬するか定め難いものもあり、またその何れにも屬しないやうなものも少數はあるやうである。しかし大概はこれによって説明する事が出來る。
【漢字の字體】
 漢字の形は、時を經るに隨って變化して種々の字體や書體が出來た。
 現存最古の漢字なる殷代の文字は、かなり原始の形を存して繪に近く、その形から實物を知る事が出來るものが多い。周代のものは銅器の銘文に見られるが、これには、いくらかもとの形から離れて、文字としての形が整って行く趣が見える。之を後世に古文と呼んでゐる。但し、漢代に魯恭王が孔子の宅を壊って壁中から得たといふ禮記、尚書、孝經などの古文は、周代のものではなく、漢代の僞作であらうといはれてゐる。
 周の宣王の時史籀といふ人が初めて大篆十五篇を作ったと傳へられてゐるが、この大篆は古文が形式的になり文字化されたもので、字畫の煩雜なものが多い。之をまた籀(ちう)文ともいふ。
 秦に至って、大篆に改正を加へやゝ簡易にした小篆が出來た。秦の宰相李斯、趙高が定めたと傳へられてゐる。これは、今日まで傳はって、篆書といはれてゐるもので、今も印章や碑額などに用ゐる。
 奏代には、また隷書が出來た。篆書の煩雜なのを簡便にして日常の事務用に供したもので、李斯の作とも獄吏程〓の作ともいはれてゐるが確でない。これが漢代に於て、波を打ったやうな、筆の終を跳ねる勢のものを生じて後に傳はったが(之を八分といふ。隷書の一體である)、一方魏晉代に及んでは、今日の楷書の如き體になった。しかし、これをも猶隷書といってゐたのであって、隋唐に於ても亦同樣であったが、宋代には之を正書眞書又は楷書といひ、隷書は八分體のものをいふやうになった。この八分體の隷書は題字、額板などに用ゐられて今日に及んでゐる。
 漢代には草書が起り後漢の頃から次第に行はれるやうになった。早く書く爲に出來た形で、初は一字一字離して書いたが、後には数字をつゞけて書くもの(連綿草)が出來、晉代には盛に用ゐられた。草書は隷書を略したものが多いが、また篆書から出たものもある。
 行書は、もと隷書(楷書)をやゝ簡硬に書いたものから起ったのであるが、古くは草書と區別せず混じて用ゐられ、後、草書が巧になって却って讀み難くなった爲、これと別れて一體となったものである。行書の名は唐代から見えてゐる。
 以上の諸體のうち、唐代には、古文、大篆、小篆、八分、隷書、行書、草書が行はれたが、宋以後は、小篆、隷書(八分)、楷書、行書、草書が用ゐられてゐる。
【漢字の字形の統一】
 漢字が次第に廣く行はれるに伴って、その字形の不統一を來すは自然の勢である。秦が天下を統一した時、宰相李斯が奏して、天下の文字の秦の文字に合はないものを禁止した。漢代に於ても、種々の異體の字が行はれたので、許愼が、説文解字を著して一々の文字の起源成立を考へて之を正しき形に統一しようとした。六朝から唐初にかけて、種々の異體の字が行はれたのを、唐の顔元孫は干禄字書を作って之を整理し、正俗通の三種に區別し、正體を正しいものとし、通體は許さるべきものとし、俗體は排斥すべきものとした。これより次第に正體に統一する傾向を生じ、宋以後に至っては、刊本の文字は、大抵は正體を用ゐるやうになって、今日に及んでゐる。
【日本に於ける漢字】
 國史によれば、應神天皇の時、百濟から渡來した阿直岐及び王仁を師として、太子が經典を學ばれたとあり、古事記には、王仁が論語と千字文を將來したと傳へてゐる。我國人が漢字に接したのは必しもこの時が最初ではなかったであらうが、この頃から漢文を學ぶものが出來たのであらう。しかし、文章に關する事は、その後も、日本に歸化した韓人の子孫が主として司ってゐたのである。然るに推古の朝にはじめて隋に使を遣してからは、次第に漢文を學ぶものが多く、殊に大化の新政後は、官吏はすべて漢字を知らなくてはならない事となったので、漢字の知識は普及し、詩賦を作るものさへも少くなかったのである。
 漢字は支那の文字で支那語を表はす爲に作られ用ゐられたものであり、漢文は支那の文であって、支那語で讀んだものである。他國人がはじめて漢字漢文を學んだ場合にも支那に於ける讀み方を正しいものとして習ったであらうから、我國に漢文が傳はった時は、百濟人を師として學んだにしても、その讀み方は、支那に於ける讀み方を習ったに違ひない。即ち、漢字はすべて字音で讀み、又漢文を書く場合にのみ用ゐられたであらう。字音は即ち、漢字の讀み方としての支那語に外ならぬ。
 かやうに我國でも、初の中は、漢字は支那語で讀み書きをする場合にのみ用ゐられ、直接日本語とは關係が無かったものと考へられる。勿論當時でも、漢字漢文を支那語(即ち字音)で讀んだだけでは意味がわからない故、之を日本語に譯し、又日本語で解釋する事はあったであらうが、それは、その字その文の譯又は解釋であって、その字又は文の讀み方ではなかったであらう。しかるに、漢字漢文に熟するにつれて、その譯語や譯し方が次第に一定し、一々の漢字や句法に、きまった日本語の單語や句法が常に用ゐられるやうになると、漢字と日本語との間に密接な關係が生じて、遂に漢字が日本語を表はすやうになり、漢字を直接に日本語で讀み、日本語を書く爲に漢字を用ゐるやうになったものと思はれる(例へば「人」の字は、初はジン又はニンとのみ讀み、又ジン、ニンといふ支那語を表はす爲にのみ用ゐられたが、「人」の譯語として、いつもヒトといふ日本語が用ゐられると、遂に「人」を直接にヒトと讀み、又ヒトといふ語を示す爲に「人」の字を用ゐるやうになった)。かやうに漢字の譯語としてきまった日本語を、その字の訓といふ。
 かやうにして、日本では、漢字は單に漢文漢語に用ゐられるばかりでなく、純粹の日本語を表はす爲にも用ゐられる。
【漢字の字體】
 我國では、支那に用ゐられた漢字をそのまゝ輸入して之を用ゐた。六朝隋唐以後に行はれた種々の書體、即ち篆・隷(八分)・眞・行・草の諸體も、すべて之を傳へた。また眞書(楷書)では六朝から唐にかけて行はれた種々の異體の字(正體の外に通體俗體)も古く傳はって盛に用ゐられたが、宋以後、支那に於て正體の字が漸次に勢を得た影響を受けて、後世に於ては異體字は次第に少くなった。
 かやうに日本で用ゐる漢字は殆ど皆支那の文字であるが、稀に日本で新に作ったものがある。之を倭字國字など名づける事がある。「榊(サカキ)」「鱈(タラ)」「閊(ツカヘ)」「峠(タウゲ)」「働(ハタラク)」など、二字又は三字を合せて、その意味を取って作ったものが多い(六書では會意に屬する)。又、支那の字を一部分を變更して作ったものもある。「桙(ホコ)」「杜(モリ)」などその例であって、「鉾」の「金」を改めて「木」として木製のホコをあらはし、「社」の「示」を改めて「木」として、神靈の天降ります樹林なるモリをあらはしたものである。この種のものは、支那の辞書には全く見えないものである。
 又、日本で作った文字が偶然支那の文字と形が一致したものもある。
  (日本) (支那)
  萩 ハギ  ヨモギ
  鰹 カツヲ ハモの大きなもの
  榎 エノキ ヒサギ
  鮎 アユ  ナマヅ
これ等は、支那の字書に見えてゐるけれども、それとは全く關係なく、意味は全く違ってゐる。
 右の如き日本製の漢字は、既に奈良朝のものにも見え、その後に作られたものもあるが、これらは漢字が日本語を表はすやうになってから、日本語に該當する漢字が見當らない場合に、その日本語をあらはす爲に作ったものである。それ故、これ等の文字には字音が無いのが常である(字音は支那語で、支那語にあれば、之に當る漢字が支那にある筈であるからである)。しかし、必要があれば、その一部分の字音を以て、その字の音とする。働をドウ、[木夜](ネムリノキ)をヤと讀む類である(この場合の字音は支那語ではない)。
【漢字の音】
 日本では、漢字に音と訓と二種の讀み方がある。音は字音又は漢字音とも云ひ、古くは「こゑ」ともいった。支那語から出たもので、支那人が漢字を讀む讀み方が傳はって、日本化したものである。日本の漢字音は通例、三種とする。呉音漢音唐音が是である。例へば「行」呉音ギャウ漢音カウ唐音アン(「行宮(アングウ)」「行脚(アンギャ)」など)「下」呉音ゲ漢音カ唐音ア(「下火(アコ)」など)「經」呉音キャウ漢音ケイ唐音キン(「看經(カンキン)」など)。これは、同じ漢字でも時代を異にし處を異にした種々の讀み方が傳はったからである。
 呉音は、最古く我國に傳はったものである。最古く日本人に漢文を教へたのは百濟人であるが、百濟は六朝時代支那南方揚子江下流地方と交通をした故、その地方の發音を學んで之を日本人に傳へたものと考へられる。この系統に屬する字音が即ち呉音であって、佛經の讀み方に傳はってゐる。無論その音は、百濟に傳はって幾分轉化し、日本に傳はって更に轉化し、日本でも亦時代による變化を受けたであらうから、今の呉音がそのまゝ太古の發音を傳へてゐるとは云へず、又幾らか後に傳はった音も混じてゐるかも知れないが、大體に於て、古く支那南方音の朝鮮を經て日本に傳はったものが呉音であると見て大した誤はあるまいと思ふ。
 漢音は、隋唐と交通を開くに及んで支那から直接に傳はったもので、唐の都長安の標準的發音であったであらう。奈良朝以前から奈良朝にかけて、音博士に唐人を任命して、正しい音を教へさせたのは、この音であらうと思はれる。しかし、古來の呉音系統の音は容易に廢れなかったと見えて、平安朝の初に屡法令を出して漢音を學ぶべき事を勸めてゐる。かやうに漢音は隋唐時代の支那北方の標準的字音である。これは、後までも漢字の正しい讀み方として傳はってゐる。しかし通俗化した語には呉音のものが多い。漢音は、隋唐時代に出來た韻書の音と大抵一致して居る。呉音は之と一致しない所があり、殊に平上去入の四聲(語の音調)が之と一致しないものが少くない。
 唐音は、平安朝中期より江戸時代までの間に時々傳へた宋元明清の音である。支那の商人が日本に來たり、日本の僧侶が支那へ行ったりして傳へたもので、當時往來したのは、主として揚子江下流地方であったので、支那南方の音を傳へたものである。鎌倉時代までは宋音といったが、室町頃から後は唐音といった。唐音の用ゐられるのは特殊の語に限られてゐる。
【漢字の訓】
 漢字の訓は、古く「よみ」ともいった。漢字の表はす支那語の意味(漢字の意味)の和譯である。しかし自由な譯ではなく、その字の譯語としてきまった一定の日本語である。訓には、普通はもとからあった日本語を用ゐたであらうが、中には、適當な譯語が無かった爲に、新に作ったものがあったであらう。銅をアカガネ、銀をシロガネ、鐵をクロガネと訓する如きは多分さうであらう。罷をシグマと訓するのは字形から出たもので、明かに漢字によって新に作ったものである。とにかく訓は譯であるから、その日本語としての意味と、漢字の支那に於ける意味とが一致するのが正常で、かやうなものを正しい訓とする。
 日本語を漢字で書く場合にも、漢字を支那に於けると同じ意味に用ゐて、その日本語を正しい訓とする漢字を宛てるのが普通であるが、また、時には日本獨特の意味に用ゐる事がある。それは大體次のやうな場合である。
 (一)日本語と正しく意味の該當する漢字が見當らない時、その日本語と意味の近い、又は意味上關係のある漢字を宛てて之を示した。例へば「串」にはクシの意味は無いが、之にツラヌクの義がある故、クシをあらはす爲にこの字を用ゐ、モリに正しく當る漢字がない故、木の茂った右樣をあらはす「森」の字を以て之に宛てた類である。
 (二)日本語の一つの意義に對して宛てた漢字を、同じ語の他の意義に對しても用ゐた。「私」は公に對するワタクシの義を有する故、ワタクシの訓を宛て、ワタクシの語を表はす爲に之を用ゐたが、後、ワタクシに、自分自身をあらはす予、余といふやうな意味が生じたので、その意味に於けるワタクシをも「私」の字を以て之をあらはした。隨って、本來「私」の字には無かった予、余といふ意味が附く事となった。「預」は關與する意味を有する故、アヅカルと訓したが(アヅカリ知ラヌなどのアヅカル)、後、アヅカルに受托の義(金ヲアヅカルなど)を生じたので、その意味のアヅカルの場合にも「預」の字をそのまゝ用ゐた。これは六書の轉注と同樣のものであるが、かやうにして、日本に於て新なる意味が漢字に加はるにいたった。
 (三)字の形の類似から他の字と混同して、他の字の訓を附け、他の字を用ゐるべき場合に之を用ゐた。「臠」の字は、キザミ肉を意味する字で、見るといふやうな意味はない。これをミソナハスと讀むのは、見るといふ意味ある「鑾−金+目」の字と字形が酷似してゐる所から、この字を用ゐるべきを誤って臠と書いたのが習慣となったものと思はれる。又、地名に不入斗と書いてイリヤマズと讀むが、イリヤマズはイリヨマズの轉じたもので、ヨマズは數へずの義である。それ故不入計と書いたのが、計の字の草書が斗の字と酷似する所から、遂に之を斗と書くやうになったものである。これ等は誤用から出て一般に用ゐらるゝに至ったものである。
 以上の種々の用法は、漢字を以て日本語をあらはす場合に起ったものであるが、漢字の讀み方としてみれば、それは字音ではなく、日本語による讀み方であるから、訓の一種と見られてゐる。しかし支那に於ける漢字の意味と一致した正しい訓とは違った日本獨特の讀み方である。
【漢字の音字的用法】
 日本に於ける漢字は、漢文(支那の文)や日本に輸入せられた漢語(支那語)を表はす爲に用ゐられる事もあり、又日本語を表はす爲に用ゐられる事もあり、その讀み方には音を用ゐる場合と訓を用ゐる場合とがあるが、上に述べたのは、すべて漢字を意味を有するものとして、その意味を標準として用ゐたものである。即ち漢字を意字として取扱ったものであるが、漢字には、また音字的用法がある。即ちその意味にかゝはらず、唯、その讀み方だけによって、或語の音を表はす爲に用ゐる事がある(六書の中の假借が是である)。我國では、國語をあらはす爲に、この方法が盛に用ゐられたが、これは二種に分つ事が出來る。一は宛字であり、一は假名である。
 宛字は、「兎角(トカク)」「丁度(チャウド)」「目出度(メデタク)」「呉々(クレ%\)」の如く、漢字の讀み方(音又は訓)を以て、或語の音を表はすもので、その漢字の意味とその語の意味とは全く關係の無いものである。しかし、漢字は、その讀み方がその語と同音であればどんな字を用ゐてもよいといふのではなく、その語としては、いつも一定の漢字で表はされてゐるのである。之に反して假名として用ゐたものは、漢字の讀み方(音又は訓)によって言語の音を爲したもので、音さへ同じであればどんな字を用ゐてもよく、一語としても、これを寫す文字の形は一定しないものである(アメを阿米とも安米とも阿毎とも書く)。宛字は漢字の音字的用法ではあるが、一語に於てはその形が一定し、その一定した形が意味を有する單位(語)を代表してゐるのであるから、なほ自由な音字的用法とは言へない。假名として用ゐたものは、意味を伴はない言語の音を自由に寫すのであるから、その用法は純粹の音字と全く同じである(宛字といふ名目を前述の如き意味で用ゐるのは、狭過ぎる嫌があるが、他に適當な名目がない故、之を用ゐたのである。
【萬葉假名或は真假名】
 漢字を假名として用ゐたものを萬葉假名又は眞假名といふ。これは我國最古の文獻に既にあらはれ、奈良朝に盛に行はれた。漢字の音を用ゐたものと訓を用ゐたものとある。又一字で一音節を表はしたものが多いが、又二音節三音節などを表はしたものがある。又二字で一音節又は二音節をあらはしたものもある。
 (音)(一字一音節)久爾(クニ) 也麻(ヤマ)
    (一字二音節)欝瞻(ウツセミ) 名豆颯(ナツサフ)
           去別南(ユキワカレナム) 越乞(ヲチコチ)
 (訓)(一字一音節)八間跡(ヤマト) 千羽日(チハヒ) 鹽左猪(シホサヰ)
    (一字二音節)大欲(オボホシ) 酒甞(サケナム) 鈴寸(ス大キ)
    (一字三音節)慍下(イカリオロシ) 寫心(ウツシゴコロ)
    (二字一音節)嗚呼兒乃浦(アコノウラ)
           馬聲蜂音石花蜘〓[虫厨](イブセクモ)
    (二字二音節)水葱少熱(ナギヌル) 辭鴛鴦將待(コトヲシマタム)
           小篠生(シヌバユ)
 かやうに萬葉假名にも種々のものがあるが、その中最明亮で讀み易いものは一字一音の假名である。さうして萬葉假名は、音を表はせばどんな字でもよいのであるから、之を實際に用ゐる場合には、なるべく平生用ゐる書き易い字を用ゐる傾向が生じたが、之を屡用ゐるうちに、その字形も、草體、略字等簡便な形を用ゐるやうになり、それから遂に日本語の音を表はす特別の文字が發生するに至った。平假名及び片假名がこれである。
【平假名及び片假名】
 平假名及び片假名は、萬葉假名から出來た一種の音字である。萬葉假名は漢字の音字的用法である。その用法からみれば假名と同樣であるが、しかし文字としてはまだ漢字である。「波」は「ハナ」「イハ」などのハの音を表はす爲に用ゐられるが、また一方そのまゝ「なみ」の意味を表はす爲にも用ゐられる。意字たる性質を脱却してはゐない。平假名の「は」になっては、それが「波」の字から出たものであっても、之を「ナミ」の意味には決して用ゐない。純然たる音字となったのである。されば萬葉假名も平假名及び片假名も共に假名とは呼ぶけれども、その文字としての性質には相違がある。漢字に對するものは、廣義の假名ではなく、平假名及び片假名である。それ故この二つを假名文字と呼んで區別すればよからうと思ふ(武田祐吉氏は之を略體假名と名づけた)。
【平假名】
 平假名は草假名ともいふ。萬葉假名に用ゐた漢字を非常に略した草書に書いたものから出來たものである。平安朝初期には、漢字の草書と區別し難いものが多く、形の上からも明かに漢字と區別せられるやうになったのは、やゝ後からではあるまいかと思はれる。これは初から獨立して歌や文を書く爲に用ゐられたのであって、女が常に用ゐる所から女手又は女文字といはれた。後世にも歌や假名文には常に用ゐられ、漢字を交へても、行草體の文字と共に用ゐる事が多い。現代には、普通の印刷物に印刷體の漢字と共に用ゐられる。
 平假名は同音に對して種々の違った文字を用ゐる事が多い。しかし、その中最普通に用ゐられる形が次第にきまって來て之を正體とし、その他の同音の文字は變った形と考へられるやうになり、今は之を變體假名と呼ぶ。現代には、筆寫する場合には變體假名をも用ゐるが、印刷物に於ては字體は一定してゐる。それは、明治三十三年の小學校令に於て定められたものに準據してゐるのである。
【片假名】
 これは、初から獨立した文字として發達したものではなく、漢文に音や訓や釋義等を書入れる爲に用ゐた萬葉假名から出たもので、只心覺えだけのものであり、漢文の傍や下に小く附けるものである爲に、なるべく字畫の簡單な文字や、一部分を省略した形を用ゐたのが、その起源である、漢字の一部を省略した略字は、支那にもあり、我國でも奈良朝には既に用ゐられてゐたのである(蜈蚣を呉公、瑠璃を王王、菩薩をササなど)。しかし、これを正しい形として考へたのではなく、或もとの字の略した體と考へたのである。萬葉假名を略したものも之と同じく、初の中は或字の省略形と考へてゐたであらうが、後には、その略した形が本體となり、たゞ音を表はす場合にのみ用ゐられる事となって、はじめて片假名となったのである。
 片假名は、漢字に伴ふ補助的文字として發達した。即ち漢字の訓點に用ゐるか又は漢字と共に日本語を書く時に用ゐられた。従ってその形も甚簡單で、獨立性に乏しい。又、後までも符號的性質を有し、發音や外國語を示す爲に平假名の文中にも混へて用ゐられた。片假名は平假名と違って男子が用ゐるものであった。
 片假名は平安朝初期に出來たものであらう。初は平假名と同じく、同音に對してかなり多くの異體の字が用ゐられたが、鎌倉室町時代に及んで次第に少くなり、江戸初期にはほゞ統一せられた。しかし多少今日とは形の違ったものもある(マを「〓」セを「せ」など)。現今に於ては片假名の形は全く一定してゐるが、その字體は、明治三十三年の小學校令できめられたものである。
 古代の片假名には、漢字の全形をそのまゝ用ゐたものがある。ハミチニヰなどは八三千二井の全形から出たものである。又行草體の文字やその省略形が少くない。「シ」「キ」「ヤ」の如き、「之」「幾」「也」の草體から出たもので、楷書體から出たものとしては説明する事が出來ない。この點で、片假名の字源の研究には、同じく萬葉假名の草體から起った古代の平假名が有力な參考になる。後世に至るに従って字形も次第に本源の形から離れ、筆法も行草から楷書體となって、その形を整へるにいたった。
【假名の作者】
 従來、平仮名は弘法大師の作、片假名は吉備眞備の作と傳へてゐる。この説は既に吉野朝時代にあったやうであるが(大和片假名反切義解に見えてゐる)、信ずる事は出來ない。假名文字は萬葉假名を用ゐてゐる中に、之を簡略に書くやうになって自然に出來たものである。決して一人や二人の手で作られたものではない。それ故、最初は同音に對して種々の異體の字があって不統一であったのが、永い年月を經る中に次第に統一せられて行ったのである。もし特定の人が作って人に教へたのならば、最初からかやうな不統一はなかったであらう。
【假名遣】
 平假名片假名は音字であり、萬葉假名も漢字を音字として用ゐたものである。それ故、假名で國語を寫す場合には、音のまゝに書けばよいのであって、どういふ場合にどの假名を用ゐるかといふ疑は起りさうに思はれないが、實際はさうでない。假名が初めて用ゐられた時代には、音の區別と假名の區別とは一致してゐたであらうが、多くの年代を經ると言語の音聲に變化が起り、もと區別のあった音が同音となった爲に、違った假名が同音に讀まれて、同じ音に對して二種の違った書き方が可能になり、又、もと無かった新しい音が生じて、従來の假名で書くには不適當に威ぜられるやうになって、どんな假名を用ゐるがよいかが疑問になる。これが即ち假名遣の問題である。假名遣といふのは、元來假名のつかひ方、即ち用法の義であるが、假名の用法が問題になるのは、右のやうな場合以外には無いので、自然、假名遣といふ語は、右のやうな場合に限って用ゐられるやうになった。
 右のやうな問題を解決するには二つの方法がある。一は過去の或時代に於ける書方を基準として假名を用ゐ、現代の音聲との不一致を顧みないものであり、一は、現代の音聾に基づいて、之を表はすに適當な假名を用ゐ、過去に於ける書方を顧みないものである。前者を歴史的假名遣と云ひ後者を表音的假名遣といふ。現今我國で正しい假名遣と認められてゐるものは一種の歴史的假名遣である。
【假名遣の歴史】
〔平安朝まで〕奈良朝及びそれ以前の萬葉假名の用法を見るに、同音に對しても種々の違った文字を用ゐてゐるが、しかし違った音は違った文字で書いてゐるのであって、キケコソトノヒヘミメヨロの十二の假名に於ける二類の音の別、及びア行のエとヤ行のエの區別の如き、後世の假名では書き分けないものも、それ%\違った文字を用ゐて區別してゐる。平安朝に入って、キケコ以下十二の假名の二類の別が滅び、ついで、ア行のエとヤ行のエの區別も無くなったが、この音變化に伴って、もと區別した假名も區別せず、同一の文字で書きあらはすやうになり、又平安朝の初期から音便によって變化した音は、もとの書き方に拘らず、違った假名を以て書きあらはしてゐる。かやうに音の變化に伴って假名の用法を變へて行った事は、當時假名を實際の音の通り用ゐるといふ主義が行はれた事を示すものである。
 然るに平安朝の半以後は、イエオとヰヱヲ、語中語尾のハヒフヘホとワヰウヱヲが同音になったのであるが、當時は既に以前から起って次第に盛になって來た假名文の文學が、益盛に行はれた時代であって、平安朝の半以前、これ等の假名が發音上區別のあった時代に出來た歌集や日記物語草子の類が頻に讀まれ又寫された爲に、その時代の書き方が自然に記憶せられて、新に書く場合にも行はれ、實際の發音には區別なき假名の區別が保存せられたのであるが、しかし、發音の上には區別が無いのであるから、時として混同する事があって、同じ語がいくつかの違った假名で書かれた事も間々あったのである(例へば、「思」を昔のまゝに「おもひ」と書き、時として「をもひ」とも書いた)。しかし、これは、平假名を用ゐる假名文の場合に於てであって、元來符號的性質を多くもってゐる片假名に於ては、同音になった假名を混用する事がかなり多かったやうである。
〔鎌倉室町時代〕鎌倉時代に入ると、平假名に於ても同音の假名の用法の混乱不統一はかなり著しくなり、同じ語が人により又場合によって、いろ/\の假名で書かれる事が多くなったので、はじめて假名遣が問題となり、之を統一しようと試るものが出るやうになった。即ち下官集の著者(多分藤原定家であらう)は、近來假名の用法の混雜したのを概して一の私案を提出し、「を」「お」「い」「ひ」「ゐ」「え」「ゑ」「へ」の八つの假名を擧げて、之を用ゐるべき語を示してゐる(同書、「嫌假名事」の條)。これは、昔の歌集や物語などに於ける假名の用法に基づいて定めたものらしく、時に兩樣の假名を許した所もあって、不徹底な點もあるが、その主義に於ては一種の歴史的假名遣といふべきものである。これが定家卿の假名遣として後まで傳はった。同じ頃源親行は、假名遣の紛らはしいものを書き集めて定家卿の校閲を仰いだといふが、そのものは傳はらないけれども、之に親行の孫行阿(源知行)が増補を加へ、新な條項を補った「假名文字遣」が後までも傳はり、世に行はれた。之をも後には定家假名遣といった。この假名文字遣は何によって定めたものか明かでない爲に、後には當時の言語の音調などによったものと解して、語勢的假名遣などと呼ばれてゐるが、少くとも親行の作ったものは、下官集と同じ方針によったものらしく、下官集には收めた語が甚少いのを、語を増して實用に便ずるやうにしたものであるらしく思はれる。下官集や假名文字遣の假名遣は、その當時の發音によったものではなく、前代の丈献に於ける書き方に基づいたものであったとしても、その文獻は、同音の假名が各違った音をあらはしてゐた平安朝半以前のものではなく、既に同音となり、その用法上に混亂を生じた平安朝半以後のものであったらしく、爲に、古代の用法と一致しないものがあった。例へば、「をく」(置)「をる」(折)「とをし」(遠)「うへ」(植)「ゆへ」(故)「まいる」(參)など。これ等の假名遣は、定家の名によって世に廣まり、後世までも歌文に携はる人々の準據する所となった。
〔江戸時代〕江戸時代に入ると、前代まで發音上區別があったジとヂ、ズとヅ、アウの類から出たオーの音と、オウ又エウの類から出たオーの音とが同音となった爲に、これ等の假名の區別も亦假名遣の問題となるに至った。江戸時代になっても、定家假名遣(假名文字遣)は依然として行はれたが、しかし、この時代には、その中に矛盾や誤謬のある事を説くものも出來、遂に契沖にいたって、一の新しい假名遣を稱へて、定家假名遣に大改訂を加へた。契沖は萬葉代匠記を作る爲に、あらゆる古代の文獻を渉獵したが、その際、假名遣に注意して研究した結果、平安朝半以前の文獻に於ては、同音の假名の用法が一定して、その區別が儼然として存する事を見出し、この時代の文獻に於ける實例によって假名遣を定め、定家假名遣の之に違ふものは、皆誤謬であると斷定した。契沖は、元禄三年頃に出來た代匠記の精撰本をはじめとして、以後の自著にこの假名遣を用ゐ、また和字正濫鈔を作って之を公にした。この契沖の創めた假名遣は、古代の文獻に基づく歴史的假名遣である。
 この契沖の説は、根據が極めて明白であるのみならず、古代の文獻に於ける假名遣は國學の研究には是非必要なものである故、以後の國學者の間に行はれて、國學の流布と共に次第に世に廣まり、定家假名遣に對して古假名と稱せられた。契沖の定めた假名遣には間々誤もあったので、揖取魚彦は之に訂正を加へ又缺けたものを補って古言梯を作ったが、大に行はれた。
 契沖の正濫鈔には、字音の語を收めたが、それは古書に假名で書いた實例のある少數のものだけで、あらゆる漢字の假名遣には及はなかった。本居宣長は、萬葉假名に用ゐた漢字の字音を、支那の音韻表である韻鏡と比較して日本の假名の區別と韻鏡に於ける音の區別との對應の原則を定め、且つ字音を假名で書いた例をも參照して、字音の假名遣を定めた(字音假字用格)。かやうにして、契沖と同じ主義によって、字音を假名で書く場合の假名遣の基準を立てたのである。しかしながら、宣長の韻鏡研究には、猶、不備や誤謬があったので、その後、太田方(全齋)は、更に韻鏡を研究して、これに現はれてゐるあらゆる文字の音の正しき假名を定めて、
漢呉音圖を作った。この漢呉音圖の説に基づき、宣長の説を訂して漢字音の假名遣を定めたのが白井寛蔭の音韻假字用例である。寛蔭の説は、後の學者に採用せられたが、理論に走って實際を離れた嫌が無いでもない。
 契沖は、同音の假名が明かに區別せられた時代の文獻に存する實例に據って假名遣を定めたが、古代の文獻に實例の無い語は、此方法によって定める事は出來ない。その場合に契沖及びその流を汲む學者の執った方法は、(一)傍例によって定める。例へば、一昨日を「をとつひ」と書いた例によって、一昨年を「をととし」と定める類である。(二)傍例も無いものは語源を考へて定める。檳榔をアジマサといふのは、「味勝る」の義から起ったものとし「あぢまさ」と定める類である。(三)傍例もなく語源も明かでないものは、姑く假名文字遣のやうな従來の書き方による。以上のやうな方法によるのであるから、中には諸説紛々として歸着する所を知らないものもあり、又前説の誤が、後の研究によって訂される事もあるのである。これは、この種の假名遣には避ける事の出來ない事である。
 江戸時代には、右に述べたやうに、國學者を中心として、契沖のはじめた假名遣が次第に世に行はれたけれども、堂上家の如き保守的な人々は、猶定家假名遣を用ゐた。また漢學者の如き、平假名の文に親しまないものは、あまり假名遣に注意せず、また戯作者や一般民衆は、かなり勝手な書き方をした。
〔明治以後〕明治維新後、政府で法典を編纂し、又學校の教科書を作るに當って、國學者の用ゐた契沖以來の歴史的假名遣を用ゐたが、雜誌や新聞其他一般の出版物は必しも之に従はなかった。しかのみならず國語國字改革論の一として、假名遣を改定して、發音と假名とを一致させようとする論さへ識者の間に唱へられた。しかし、明治二十年代に日本の古文學の研究が興ってからは、假名遣に注意し、假名遣の教科書などもあらはれるやうになったが、一方假名遣改定の論も盛であって、明治三十三年には文部省でも、小學校教育に於て字音の語だけは一種の表音的假名遣を用ゐる事とし、國定教科書も、これに據ったが、明治四十一年に至って、省令を廢して、國定教科書はすべて歴史的假名遣による事となり、以後中等學校の教科書も、新聞雜誌なども、大概之に従って今日に及んでゐる。それ故、今日正しい假名遣として認められてゐるのは、契沖以來の歴史的假名遣であるといふべきである。しかし、世には猶熱心に表音的假名遣を用ゐるべき事を主張してゐるものもあり、文部省國語調査會でも一種の表音的假名遣案を定めて發表し可否を世に問うた。
【ローマ宇】
 ローマ字は、欧洲及亜米利加の大部分に於てその國語を書く爲に用ゐられてゐる文字であって、單音文字に屬する。古く、伊太利から諸方に廣まったもので、その根源に溯れば、埃及文字から出たものである。埃及文字は、埃及で發生した意字であって、事物の形を書いた繪文字から發達し、それぞれ意味を有するものであるが、後にはその形を簡略にした略體字も出來、單に音を表はすためにも用ゐられたのである。この略體の文字が、古く埃及と交通したフェニキヤPhoeniciaに傳はって、その言語を寫す爲に用ゐられ、こゝではじめて音字に變化して、一種の音節文字となった。このフェニキヤ文字が小亜細亜や多島海にあった希臘民族の殖民地から希臘本土にまでも傳はり、希臘人は之を以て自國語を寫したが、こゝではその形が變ったと共に之を單音文字として用ゐるにいたった。これが即ち希臘文字である。希臘でも東部に行はれたものと西部に行はれたものとの間に小異があったが、西部に行はれた文字が後に伊太利に傳はって、その國語たるラテン語を寫す爲に用ゐられ、その際多少の取捨と變形とが行はれてローマ字になったのである。古代のローマ字は、今日の頭文字(ABC等)の形であったが、それから今日普通の字體(abc等)が發達した。近世に至っては、印刷體と筆寫體とが區別せられてゐる。
【日本に於けるローマ字】
 ローマ字は室町末期に西洋人と共に我國に渡來した。當時日本へ來た西洋人は葡萄牙人西班牙人英吉利人などがあったが、最勢力のあったのは葡萄牙人であり、中にも、耶蘇會の宣教師は熱心に日本人の間に基督教を宣布し、後には教習所や學林を開いて、日本人にも西洋の學問を教へたので、日本人の中にもローマ字の知識あるものが出來たのである。これ等の西洋人が日本語をローマ字で寫すのに、初の中は、いろ/\の書き方をしたのであるけれども、後には耶蘇會士の間に一定の方式が出來たのである。それは、葡萄牙語に於けるローマ字の用法に基づいて、當時の日本語の標準的發音を寫したものであって、葡萄牙語にないやうな日本の音聲も、特別の工夫をして之を寫してゐる。それは大體次のやうなものである。

 ア   a    イ  i(j,y) ウ   u(v) エ ye    オ   uo(vo)
 カ   ca    キ qi    ク   cu(qu) ケ qe(que) コ   co
 ガ   ga    ギ gui    グ   gu    ゲ gue    ゴ   go
 サ   sa    シ xi    ス   su    セ xe    ソ   so
 ザ   za    ジ ji    ズ   zu    ゼ je    ゾ   zo
 タ   ta    チ shi    ツ  tcu    テ te    ト   to
 ダ   da    ヂ gi    ヅ  zzu    デ de    ド   do
 ナ   na    ニ ni    ヌ   nu    ネ ne    ノ   no
 ハ   fa    ヒ fi    フ   fu    ヘ fe    ホ   fo
 バ   ba    ビ bi    ブ   bu    ベ be    ボ   bo
 マ   ma    ミ mi    ム   mu    メ me    モ   mo
 ヤ   ya    イ  i(j,y) ユ   yu    エ ye    ヨ   yo
 ラ   ra    リ ri    ル   ru    レ re    ロ   ro
 ワ   ua(va) ヰ i(j,y) ウ   u(v) ヱ ye    ヲ   uo(vo)
 キャ kia           キュ kiu           キョ kio
 ギャ guia           ギュ guiu           ギョ guio
 シャ  xa           シュ  xu           ショ  xo
 ジャ  ja           ジュ  ju           ジョ  jo
 チャ cha           チュ chu           チョ cho
 ヂャ gia           ヂュ giu           ヂョ gio
 ニャ nha           ニュ nhu           ニョ nho
 カウ co<  コウ co>
 サウ so<  ソウ so>
 タウ to<  トウ to> ツウ tcu<


耶蘇會で刊行した教義書日本語學書等に於けるローマ字書きの日本語は、すべてこの式に據って居る。但し、當時のロドリゲスの日本文典などには、キケヅをqui que dzuと書くなど小異がある。又葡萄牙以外の外國人は、その本國流のローマ字書き方を用ゐた。かやうな日本語のローマ字書きは、日本人にも知られてゐたであらうが、しかし主として西洋人の間に用ゐられたものであった事は疑無い。
 江戸時代に入っては、和蘭以外の西洋諸國との交通を禁じ、西洋の文字を讀む事を許さなかった爲に、日本人はローマ字に接する機會がなくなったが、寛政以後、その禁が漸くゆるんで蘭書を讀むものが次第に多くなったので、蘭學者の間にローマ字で日本語を書く事が起った。そのローマ字の用法は和蘭語に於けるものに從ったが、五十音圖の組織に合致せしめたので、當時の實際の發音に合はない所がある。

 ア a イ i ウ oe エ e オ o
 カ ka キ ki ク koe ケ ke コ ko
 ガ ga ギ gi グ goe ゲ ge ゴ go
 サ sa シ si ス soe セ se ソ so
 ザ za ジ zi ズ zoe ゼ ze ゾ zo
 タ ta チ ti ツ toe テ te ト to
 ダ da ヂ di ヅ doe デ de ド do
 ナ na ニ ni ヌ noe ネ ne ノ no
 ハ fa ヒ fi フ foe ヘ fe ホ fo
 マ ma ミ mi ム moe メ me モ mo
 ヤ ja イ ji ユ joe エ je ヨ jo
 ラ ra リ ri ル loe レ le ロ lo
 ワ wa ヰ wi ウ woe ヱ we ヲ wo

かやうにローマ字で日本語を書いたけれども、それは蘭語を學ぶ階梯とするのが主であって、實用には供せられなかったものと思はれる。
 しかるに、明治以後廣く西洋諸國と交通するに及んで、西洋人に對する場合には、日本語をローマ字で書くのが習慣となって、今日に及んでゐる。さうして、日本語の書き方は、西洋に於ては、十九世紀初頭以來の獨逸、和蘭、英吉利、佛蘭西等の學者は、各其の國に於けるローマ字の用法に準じて、日本語の實際の發音に近い綴り方を用ゐたのであるが、日本に於ては、明治以後英語が次第に盛に行はれるやうになり、漢字假名等を廢して、ローマ字を以て日本語を書くべしといふ論も起り、遂に明治十七年、主として西洋で學んだ日本の學者に、日本語に通じた西洋人も參加して羅馬字會が設立せられ、翌十八年、ローマ字による日本語の書き方を定めて發表した。それは、假名書きに據らず實際の發音により、子音は英語の發音を取り母音は伊太利獨逸又はラテン語の發音を取ったものである。この羅馬字會のローマ字綴り方は、當時あった最優れた和英辞書なるヘボンの和英語林集Hepburn:Japanese - English Dictionaryの改訂第三版(明治十九年刊)に採用せられて廣く世に行はれ、爾後、政府の文書のみならず、外國でも日本語を書く場合にはこの式を用ゐるのが慣習となってゐる。
 然るに、ローマ字を日本に於ける常用文字とすべしと主張する人々の一派に、右の羅馬字會式の綴り方(これはヘボンの辞書に採用せられたから、ヘボン式と呼ばれる)は外國人の書き方を主としたもので、日本人には不適當であるとし、これとは異なる書き方を主張するものがあったが、後に之を日本式羅馬字と稱した。その(ボン式と異なる主な點は次の通りである。
      (ヘボン式)       (日本式)
 サ行音   sa shi su se so   sa si su se so
 ザ行音   za ji zu ze zo   za zi zu ze zo
 タ行音   ta chi tsu te to   ta ti tu te to
 ダ行音   da ji zu de do   da di du de do
 ハ行音   ha hi fu he ho   ha hi hu he ho
 サ行拗音 sha   shu  sho  sya  syu  syo
 ザ行拗音  ja   ju   jo  zya  zyu  zyo
 タ行拗音 cha   chu  cho  tya  tyu  tyo
 ダ行拗音  ja   ju   jo  dya  dyu  dyo


この日本式は、假名式及び五十音圖式ともいふべく、單音文字なるローマ字の特質を没却した嫌のあるもので、實際の發音に合致しない所が少くない。この一派の書き方は、之を主張する人々の熱心なる努力によって、近來かなり行はるゝに至った。

【參考書】
(文字一般)
 世界文字學 高橋龍雄
 T. W. Danzel: Die Anfaenge der Schrift, Leipzig 1912.
 H. Jensen: Gescichte der Schrift, Hannover 1925.
 J. Vendryes: Le Languege, Paris 1921.
  其他言語學一般に關するもの
(漢字)
 支那文字學 武内義雄(岩波講座日本文學)
 中國文字變遷考 呂思勉
 字例略説 同上
 中國文字學 顧實
 段註説文解字 許愼撰段玉裁註
 漢字要覧 國語調査委員會
 漢字の形音義 岡井愼吾
 禹域出土墨寳書法源流考 中村不折
 漢字原理 高田忠周
 漢字詳解 同上
(日本の文字)
 同文通考 新井白石
 國字考 伴直方
 字體考 佐藤誠實
 欟齋雜考 木村正辞
 現代國語精説 日下部重太郎
  其他國語學一般の參考書
(神代文字)
 神字日文傳 平田篤胤
 日本古代文字考 落合直澄
 假字本末附録 伴信友
 (假名及び假名遣)
 假字本末 伴信友
 文藝類纂(字志)榊原芳野
 假名考 岡田眞澄
 和翰名苑 縢孔榮
 かな字鑑 松下太虚
 假名遣及假名字體沿革史料 大矢透
 假名源流考 大矢透
 假名の研究 大矢透
 假名の字源について 橋本進吉(明治聖徳記念學會紀要)
 音圖及手習詞歌考 大矢透
 假名遣の歴史 山田孝雄
 疑問假名遣 國語調査委員會
 和字正濫鈔 契沖
 假字大意抄 村田春海
(ローマ字)
 日本ローマ字史 川副佳一郎
 國字問題の研究 菊澤季生

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