第九章	日本の文語
 文語の性質
 文語と口語
 現代の文語
 口語體の文語
 文章語體の文語
 日本の文語の變遷
 漢文
 祝詞及び宣命の文
 變體の漢文及び書簡文
 和歌及び和文
 女子の書簡文
 假名交り文と和漢混淆文
 明治以後の文語
 普通文
 口語文
後記

【文語の性質】
 文語は文字を伴ふ言語であって、讀んだり書いたりするものである。すべて言語には、音聲と意義との二つがその構成要素として缺くべからざるものであるが、文語はその上に文字といふ要素が加はって、文字と音聲と意義との三つから成立ってゐるのである。文字は文語の外形であって、目に見える形であるが、しかし、文語は、いかなる場合に於ても文字が現實に目前に無ければならないのではなく、文字に書く事又は文字に書かれてゐる事を想定しただけでもよい。例へば、人に向って「履歴書には、最後に右之通相違無之候と書くのですよ」といったとすれば、「右之通相違無之候」といふ文字は目の前には無く、唯ミギノトーリソーイコレナクソーロ―といふ音聲が現實に耳に聞えるだけであるが、それでも文語たるを失はないのである。つまり、現實の文字は無くとも、文字の觀念をさへ伴って居れば文語といふことが出來るのである。又文語に於ける言語の音聲は、その文の讀みであるが、これも音讀する場合は現實に耳に聞える音聲が伴ふけれども、黙讀する場合には音聲は全く伴はない。それでも、音讀しようとすれば出來るのであって、これも音聲の觀念さへあればよいのである。しかし、默讀に慣れると幾分音聲の觀念が弱くなり、甚しきに至っては、文字を見てその意味は直に理解し得ても、之を正しく發音する事が出來ないか又は全く音讀する事が出來ないやうな場合も無いでもない。かやうなものは、その文語を完全に知ってゐるとは言はれないのであり、又、その文字が言語を表はす文字でなく、意味だけを示す符號の性質を帶びるやうになったとも見られるのである。
【文語と口語】
 純粹に音聲にのみよる言語即ち口語は、その場限りで消え失せるものである。それ故變化し易い。文語は、持續性を有ってゐる文字に伴ふものであるから、變化する事が遲い。殊に、文字にあらはれた形は、いつまでも守られて、音聲の變化に伴はない事が屡ある。又口語は同時代の人々の言語にしか影響を及ぼさないが、文語はいつまでも殘って、時代を隔てた人々にも影響を及ぼす事がある(例へば、今日、萬葉集の言語を用ゐて歌を詠むなど)。
 文語と口語との實質上の相違は、國により時代によって樣々である。概して言へば、はじめて文字でその言語を寫すやうになった時代に於ては、文語と口語との差異は、あったとしても極めて僅かで、口語をそのまゝ文字に寫せば即ち文語となったであらう。然るに、年代を經るに従って、口語との間に差異が出來、遂には甚しい相違が生ずる事もある。支那の文語、日本の文章語の如きこの例である。しかし、また口語と甚近い文語が行はれてゐる事もある。英獨佛等の普通の文語や我國の口語文などその例である。しかし、それでも、談話に用ゐる口語そのまゝではなく、文語獨特の語や言ひ方が混ずる事が多い。
 一方に於て、文字によらない口語であって、その性質が文語に甚よく似たものがある。文字を用ゐない民族の間に傳誦せられた神話傳説文學などの言語、例へば、印度のヴェーダVedaやアイヌのユカラYukar(敍事詩)の如きものがそれである。此等の用語は、普通の談話に用ゐる口語とは違った古い時代の言語であって、口語には用ゐない古い時代の言語が文語に用ゐられるのと趣を同じうする。さうして、その言語は、律語であって、口語のやうに自由に話すのではなく、之を唱へ又は語るのであるが、唱へ又は語るのは、文を讀むのと同性質の作用である。かやうなものは、丈字を使はないけれども、文語のやうに比較的に固定したもので、文語的口語ともいふべきである。かやうなものは文字の無い時代に多いけれども、文字を用ゐる時代に於ても全然無いのではなく、我國に於ても謡曲や淨瑠璃などの謡ひ物や語り物、及び諺などの言語は、これと略同性質のものである。
【現代の文語】
 現今我國に行はれてゐる文語は、之を普通に書き表はす方法から觀ると、二種に分ける事が出來る、
 (一) 漢字と假名とを混用するもの
 (二) 漢字ばかりを用ゐるもの
(二)は漢文のやうな特殊なもので、(一)が最普通に用ゐられてゐる形である。その外に、假名ばかりを用ゐるものも無いではないが、特別な場合に限る(電報の文、子供に讀ませるものなど)。又ロ―マ字で書く事もあるが、これも或特別な場合か、又は特殊な目的を有する人々(ローマ字を國字とすべしと主張するものなど)に限って、普通には行はれない。
 次に文字を離れて、言語そのものの實質上から觀察すると(一)口語體の文(口語文)と(二)文章語體の文(文語文)との二つに分ける事が出來る。口語體の文は、現代の口語による文であり、文章語體の文は、文字で書く時に用ゐる言語として前代から傳はって來た特殊の言語、即ち文章語(世には單に文語といってゐる)によるものである。この兩種の文語の相違は、之に用ゐる語彙にも存するが、それは絶對的のものではなく、その根本的の相違は語法にあるのである。即ちその語法は、口語體の文語は大體に於て現代の口語(談話に用ゐる言語)と同じく、文章語體の文語は過去の或時代の言語の語法を保存してゐるのである。さうして、音聲や讀み方に於ては、兩者殆ど差異が無い。
【口語體の文語】
 口語文といはれるもので、現代の口語に基づく文である。現代の口語といっても、或方言に基づく事は特殊な場合に限られ、普通は、大體標準語又は之に近い言語である。場合によっては、口語文に用ゐられて一般化した爲に、標準語に用ゐられる事もあるのである。口語文は漢字と假名とを混へて書くのが普通で、場合によっては假名ばかりで書き又ローマ字で書く事もある。
 口語文は對話體の文と非對話體の文とに分ける事が出來る。對話體の文は、特定の對手に話しかける態度のもの(手紙の文などは、最著しいものである)、非對話體の文は特定の對手を豫想しないものである。この兩者の間の最顯著なる言語上の差異は、對手に對する敬語(最廣い意味の)の有無に在る。例へば、對話體「この道路は宮樣の御出でになりました時に修繕したのであります」。非對話體「この道路は、宮樣の御出でになった時に修繕したのである」
【文章語體の文語】
 普通、交語文といはれてゐるもので、現代の口語とは違った特別の言語即ち文章語によるものである。これは更に數種にわかれるのであって、種類の違ひによって、その用語のみならず、文字に書き表はす方法にも違ひがある。現代に行はれる文章語體の文語の最も主なものは(一)普通文(二)書簡文(三)漢文である。
 (一)普通文 文章語體の文語の中、最廣く用ゐられるものである。公用文はこれによるものが多い。その用語はかなり自由であって、人により場合によって種々の違ひがある。漢字と假名とをまじへて書く。
 (二)書簡文 正しくは文章語體の書簡文といふべきで、俗に候文といふものである。手紙に用ゐる特殊の文語で、對手や自己に關する語や、挨拶の言葉などに、他の種の文語には用ゐない語句や言ひ方がある。拜啓、謹啓、拜復、尊家、貴兄、弊家、御清祥、御健勝、參上、拜趨、敬具、頓首、仕候、致候、申候、御座候など。書簡文は、普通文と同じく漢字と假名とを交へて書くが、慣用の語句には、假名をまじへず、漢字のみを用ゐて、順序を顛倒して讀むやうな特別の書き方を用ゐる事が多い。被下度、難有奉存候、奉深謝候、被寫入候、目出度存候など。女子は順序を顛倒する書き方は用ゐないが、「申候」、「御座候」などは常に用ゐる。
 (三)漢文 元來支那の文であるが、日本に傳はって、之を讀むばかりでなく、今日でも、漢文で書く事がある。漢文は、元來、支那語を漢字で寫したもので(勿論漢字のみを用ゐる)、之を初から順に字音で讀めば支那語となるのである。我國でも佛經は全部字音で讀むのであって、若しかやうに漢文を取扱へば、それは支那の文、支那の言語であって、日本語とは直接關係の無いものであるが、右のやうな讀み方は、寧、例外で、我國では之を日本語に譯して讀む。例へば、「學而時習之不亦説乎」は、ガクジジシフシ、フエキセツコではなく、マナンデトキニコレヲナラフ、マタヨロコバシカラズヤと讀むのが正式の讀み方となってゐる。即ち、我國に於ける漢文は、文字の形に於ては支那文と同樣であるが、之を讀めば日本語となるのである。かやうに漢文を日本語に譯して讀むのを訓讀と稱するが、訓讀に用ゐる言語は、今日の口語とは違ひ、文章語に屬するものであって、その讀み方は、あらゆる場合を通じて略一定してゐる。即ち、前掲の「學而時習之不亦説乎」の文は、誰でも大抵「マナンデトキニコレヲナラフ、マタヨロコバシカラズヤ」と讀む。この讀み方は、「學んで時に之を習ふ、亦説しからずや」と書いた文の讀み方と同じことである。さすれば、右の漢文は「マナンデトキニ…」の日本語を文字に書きあらはす方法の一つであるとも見られる。
 右のやうな次第であるから、我々は漢文を支那の文、即ち外國語の文とは見ずして、日本の文語の一種として取扱ふのが至當であると考へる。さうして、その讀み方は文章語に屬するから、之を文章話體の文語の一種とするのである。(訓讀の語には、時に字音で讀んだ語、即ち漢語をまじへるけれども、全體としては日本語である。)
 我國では、漢文の形をそのまゝにしておいて、之を日本語に譯して讀むのであるが、その讀み方を明かに示す必要がある時は、漢字の傍に種々の符號や假名をつけて示す事になってゐる。
  學<テ>而時習<フ>v之<ヲ>。不2亦説<カラ>1乎。有<リ>v朋自2遠方1來<ル>。不2亦楽<カラ>1乎。人不v知<ラ>而不v慍<ラ>。不2亦君子<ナラ>1乎。

語の順序を示すレ一二等を返(カヘリ)點と云ひ、語句の切目を示す○などを句讀點と云ひ、語の讀み方を示す假名を捨假名(近來は送假名とも)といふ。かやうな符號や假名は、讀み方を明かにし確かにする爲のみのものである。これが無くともさう讀むべき事は勿論である。
 漢文は支那文であるからして、日本人が書き、之を訓讀するものであっても、その文字にあらはれた形及び文字の意義用法に於ては、正しい支那文でなければならない。漢文は今日に於ては、實用に用ゐられることは甚稀である。たゞ、辞令の或種のものに於ては、漢文式の書き方が常に用ゐられる。「任東京帝國大學教授」「敍正三位」「依願免官」など。
 以上の三種が現代の文章語體の文語として最著しいものである。しかし、近來の情勢では、文章語體の文語は用ゐられる範圍が次第に狭くなり、口語文が之に代って益廣く用ゐられる傾向がある。
【日本の文語の變遷】
 我國では漢字が傳はってはじめて文字を知ったのであって、我國最初の文語は漢文である。後に漢字で國語を寫すやうになって、純粹の日本の文語が出來た。又、古く語部があって、古事を語り傳へたといふから、文字によらざる傳承があったので、その用語は多分前述の文語的口語の性質を帶びたものであったらうと思はれるが、委しい事はわからない。
 時代が下ると共に、文語の新しい種類が出來たが、それでも、古來のものが全く絶える事は稀で、同時代に種々の文語が並び行はれる事が多い。
 今文語の變遷を説くに當り、時代によって分たず、專ら文語の種類によって分ったのは、系統を追うて簡約に敍述するに便宜であるからである。
【漢文】
 我國ではじめて學んだ文語は漢文である。漢文は支那の文で、言語としては外國語であるが、文字に書くには、これ以外の方法はなかったであらうから、ものを書く必要のある場合には漢文を用ゐたであらう。殊に、隋唐と交通し、支那の文物制度を輸入してからは、漢文は公用文として一般に用ゐられた。
 漢文は、初は外國文として取扱ひ、之を全部字音で讀んだであらうが、しかしそれだけでは意味が明かでない故、之を日本語に譯したであらう。漢文を譯す時の日本語は、勿論特別の言語ではなく、當時の口語《この部分著述集では「古語」となっており意味が異なってしまう》を用ゐたに違ひない。しかし、漢字に適當な譯語が見あたらぬ時は新に譯語を作ったであらうし、又漢文の語法や言ひまはしが日本語と一致しない場合には、漢文のを直譯してそのまゝ日本語にあてた事もあったであらう。後世文選讀(モンゼンヨミ)と稱する、漢語の音と訓とを共に讀む讀み方の如きも、漢文を文字に即して日本語に譯す爲の方法であって、隨分由來の古いものであったらうと思はれる。「關々雎鳩」を、クヮンクヮントヤワラギナケル、ショキウノミサゴと讀み、「窈窕淑女」をエウテウトユホビカナル、シュクジョノヨキムスメと讀む類)。かやうにして、漢文を譯す時の言語には、談話の時の言語とは違った語や言ひ方が多少まじる事もあったであらうが、勿論著しい相違は無かったであらう。かやうな漢文の譯讀法は、時を經ると共に次第にきまった形をとるやうになり、奈良朝の頃には、普通の語や句法には、大概一定した訓や訓讀法が出來てゐたであらう。
 しかし、漢文の正式の讀み方として、支那人のやうに全部字音で讀む事は、多分奈良朝に於ても行はれたであらうし、平安朝に入っても初の内は廢れなかったかと思はれるが、支那との國交も絶え、漢文學が漸く衰へると共に、いつしか忘れられて、專ら訓讀のみが行はれ、遂にそれが我國に於ける漢文の普通の讀み方となったものと思はれる。さうして、漢文の訓讀法は、古くから、當時の口語に基づいたもので、口語には用ゐないやうな漢語(字音でよむ語)も混じ、直譯風の言ひ方などもまじって、口語と全く同じではなかったであらうが、その發音や語法などは大概口語の變遷に伴って變化して來、又、時には學者の考によって改める事もあったのであらうが、院政時代以後、漢學が次第に衰へると共に、従來の訓讀法が墨守せられて、固定化するやうになったのである。鎌倉時代の末から宋學が入って、經書など古來の解釋が改められた爲に、朝廷の博士家でも、その説に従って訓讀を改めた所もあるけれども、しかし、主として古來の訓に従ってゐたに反して、禪僧などは、かなり勝手な讀み方をして、博士家の非難を受けたが、しかも、言語として觀れば、やはり主として平安朝以來の訓讀の語を用ゐ、その語法に從った。
 江戸時代に入って、林道春などは、やはり、主として古來の訓讀に從ったのであるが、これは、國語譯としては、かなり馴雅なものであるけれども、漢文には相當する文字のない語を附け加へて讀む事多く、訓讀によって直に原文の文字を想起せしめる事が困難な上に、鎌倉時代ことに室町時代以後の口語變遷の結果、主として平安朝の口語に基づく漢文訓讀の言語との間の相違が次第に多くなり、江戸時代に至っては、解し難くなった語や語法もあったので、道春の後に出た山崎闇齋、野中兼山、佐藤一齋、後藤芝山などは、訓讀法を簡約にし、原文の文字と訓讀とをなるべく近づかせるやうにしたのであって、ことに佐藤一齋の訓讀の如きは、あまり簡に過ぎて、日本語としては意味を成さない箇所さへ生ずるに至った。左に博士家以來の諸家の訓讀の例を聖げる。
 (博士家)  學{マナムテ}而時{ニ}習{ナラフ}v之{ヲ}不{ス}2亦不悦{カラ}1乎。有{リ}b朋{トモ}自{ヨリ}2遠方1來{レルコト}a不{ス}2亦楽{タノシカラ}1乎{ヤ}。人不{ス}v知而{ヲ}不v慍{イカラ}不{ス}2亦君子{ナラ}1乎{ヤ}
 (道春)  學{テ}而時習{フ}v之{ヲ}不2亦説{カラ}1乎{ヤ}有b朋自{リ}2遠方1來a不2亦楽{カラ}1乎人不{シテ}v知{ラ}而不v慍{イキトヲラ}不2亦君子{ナラ}1乎{ヤ}
 (兼山)學{テ}而{シテ}時{以}習{フ}v之{ヲ}不2亦説{シカラ}1乎有v朋自2遠方1來{ル}不2亦楽{シカラ}1乎人不{シテ}v知{ラ}而{シテ}不v慍{ラ}不2亦君子{ナラ}1乎
 (一齋)學{テ}而時{ニ}習{ハス}v之{ヲ}不2亦説{ハ}1乎有v朋自2遠方1來{ル}不2亦楽{マ}1乎人不{シテ}v知{ラ}而不v慍{セ}不2亦君子{ナラ}1乎
 (芝山)學{テ}而時習{フ}v之{ヲ}不2亦説{カラ}1乎{ヤ}有{リ}v朋{トモ}自{リ}2遠方1來{ル}不{ス}2亦楽{タノシカラ}1乎{ヤ}人不{シテ}v知{ラ}而不v慍{クマ}不2亦君子{ナラ}1乎{ヤ}

 佐藤一齋や後藤芝山のやうな訓讀法が幕末には勢力を得て明治以後にまでも廣く行はれた。かやうに、漢文訓讀の語は、江戸時代に於て多くの變化を受けたけれども、しかし、猶他の種の文語に對して特徴を失はなかったのである。その特徴は、主として平安朝の後半以後の口語の特徴であって、「進んで」「退いて」「行いて」「以って」「同じうす」「なんなんとす」「なんだ」(涙)「いかんぞ」(如何ぞ)「なんぞ」(何ぞ)のやうに音便によって變化した形が多い。また、「けだし」(蓋)「あに」(豈)「何すれそ」「可けむや」のやうに、平安朝の口語には用ゐられなかった語や語法があるのは奈良朝又はそれ以前の口語の形が、口語としては滅びた後までも、漢文訓讀の語として、殘ってゐるのである。
 かやうに、漢文の訓讀法は古い傳統をもってゐるのであるが、近來、學校の漢文教科書の類には平安朝の和歌及び假名文に基づく文語の文法に従って訓讀するものが多く、もしこれが一般化したならば、古來の訓讀法は、その傳統を絶つであらう。
 漢文の訓讀を示す方法としては、平安朝初期に乎古止點が出來て、當時出來た片假名と共に用ゐられた。乎古止點は、漢字の一定の位置に一定の記號(點や種々の線など)を附して、漢字の讀み方や、漢字につけて讀むべき語をあらはすもので、後世の捨假名にあたる。返點や句讀點も亦乎古止點によって示される。さうして假名は之と相補ふやうに用ゐられた。これは平安朝に於て盛に用ゐられたが、用法がやゝ煩瑣である上に、家により寺によって法式を異にし、一般性に乏しい故に、追々廢れて、その代りに假名や返點が用ゐられるに至り、室町時代には、大體今日用ゐるのと同樣なものになった。
【祝詞及び宣命の文】
 漢文の訓讀の語は、漢文の讀み方としての日本語であり、漢文に伴ふものである。それでは、純粹の日本語に基づく文語はどうであったかといふに、漢字が傳はり漢文が用ゐられる時代になっても、語部があって、古事を語り傳へてゐたのであって、その一部は、古事記や出雲風土記などの中に文字に寫されて存すると考へられてゐるが、多くは滅びて傳はらない。その言語には、普通の口語には用ゐないやうな古語をも混じてゐたらうと考へられる。神祇を祭る時奏する祝詞の言語は、奈良朝以後のものもあるが、多くは古い時代から傳はったもので、一種の文語的口語ともいふべき性質をもったものであらうと考へられる。これは、平安朝になってから漢字に寫されて今に傳はってゐる(延喜式にあるのが最古いが、これは多分弘仁式にあったものであらう)。平安朝以後、祝詞は次第に文字に書いたのを讀む事となり、又、時々の必要に應じて従來のものに彷って新に作り、今日にいたるまでも絶えない。
 又、天皇の詔を天下に宣布する宣命は、奈良朝前から之を漢字で書いて、宣命使が讀む事になったが、その最初や各段の終などの慣用の語句は、多分、よほど古い時代から傳はったものを、そのまゝ用ゐてゐたものであらう。これは、その時に應じて、種々内容の違った事實を述べる必要上、その語句はその時代の言語の色彩を帶びる事は免れず、漢文訓讀式の語をも用ゐ、又、平安朝以後は、之を用ゐる場合が次第に少くなったが、猶特殊の場合には必用ゐられ、江戸時代まで全く絶える事なく、慣用の語句には昔のまゝの語を用ゐてゐたのである。明治以後、詔勅發布の方式が全く變化すると共に宣命は全く廢れてしまった。祝詞及び宣命の書き方は、漢字のみを用ゐ、大概日本語の順序のままに書き、助詞助動詞活用語尾の類を萬葉假名で小書するのであって、この小書した部分を假名文字に改めれば、大體今日の漢字假名まじりの文と似た形になるのである。
#  御年皇神等#################(略)(祈年祭祝詞)

@かやうな書き方を宣命書(センミャウガキ)といふが、これは宣命にかぎらず、奈良朝前後に行はれた日本語の書き方の一種である。祝詞も宣命も、後世にいたるまで常にこの書き方を用ゐた。かやうにして、祝詞及び宣命は、奈良朝以前からの古い詞と、はじめて文字に書かれた時の書き方とを特徴として永く行はれた。
【變體の漢文及び書簡文】
 「奈良朝以前から漢文が正式の文語として用ゐられ、官府の公用文は勿論、私人の手紙や記録のやうな實用的の文も漢文で書くのが正式であった。萬葉集卷五の藤原房前の手紙の如き、立派な漢文である。しかし、正しい漢文を書くのは容易でなく、學殖の無いものは、動もすれば文字の用法を誤り、順序を違へ、漢文としては不用な文字を加へなどして、變則な書き方をした。正倉院文書中の小治田人君の不參屆の如きその一例である。
   賎下民小治田人君誠惶誠恐謹白 石尊者御曹邊不參事
   右以人君今月十一日利病臥而至今日不得起居若安必爲參向然司符隨淨衣筆直進上今間十死一生侍恐々謹白賎使女竪付進上事状具注以白
    天平寳字二年七月十四日
 「以」は「今月」の上にあるべく、「利病」は「痢病」である「隨」は「司符」の上にあるべく、「侍」は敬語であって、漢文としては不當である。「付」は「賎使」の上にあるべきである。この種の文は既に奈良朝にもあり、以後も絶えなかったであらうが、平安朝も初期を過ぎて、漢文學が漸く衰へる頃になると、日記、記録、書簡等には、右のやうな變體の漢文が次第に一般に行はれ、以後時を經ると共に、正式の漢文に用ゐない俗語や句法を用ゐる事が益多くなって行き、形は漢文であるが(時には假名を交へたものもある)、日本人の間にしか通ぜぬ變體の漢文となったのである。平安朝中期以後の男子の日記類や東鑑など皆この體の文である。
 男子の用ゐる書簡文の模範として作られた藤原明衡の消息往來(明衡往來といふ)以下の往來の類も亦この體の文であるが、書簡文は、院政時代以後には、當時口語に多く用ゐられた「候」といふ敬語を用ゐる事が次第に多くなり、室町初期に作られて、以後書簡文の手本として久しく行はれた庭訓往來にも盛に用ゐられ、この種の書簡文の著しい特徴となってゐる。室町時代から江戸時代を通じて、正式の書簡文は、右の如き變體の漢文から出た文を用ゐ、すべて漢字で書く事になってゐた爲に、假名で書くのを適當とする處も宛字を用ゐて漢字で書いた爲に「候まじく」を「候間敷」,「候へども」を「候得共」、「めでたく」を「目出度」又は「芽出度」など書く事となったのである。しかし、漢字のみで書くのは不便である爲に、次第に假名を交へるやうになり、又江戸時代の漢學者などは、漢文に用ゐる語句をも交へ用ゐたが、猶慣用語句には、従來の逆りの字句や書き方を用ゐた。現代の書簡文はこの系統を承けたものであって、處々漢文式の書き方や、假名を用ゐない漢字のみの語句を用ゐるのは、この種の文が、もと變體の漢文であった名殘を留めてゐるのである。
 書簡の文は古くから多く行草の書體を用ゐたが、江戸時代に於ても、行草體で書くのが例となってゐた。さうして、昔の庶民教育に於ては一般に書簡文の讀み書きを教へたから、この種の文は、單に手紙に用ゐられたのみならず、庶民の記録覺書などにも用ゐられ、又一般に對する布令の文などにも用ゐられた。
【和歌及び和文】
 漢字を用ゐ慣れるに従って、純粹の日本語をもこれで書くやうになった。推古時代からの銘文の類に、漢文でなく、日本語を寫したものと認められるものがある。和歌は文字の無い時代からあったであらうし、文字が出來てからも、必しも文字に書かなかったが、漢文が盛に行はれる時代になると、之を文字に書くやうになった。また奈良朝の初には、古事記の如き口誦の語も漢字に寫されるに至った。その書き方を見るに、箇々の語句については、(一)全部萬葉假名を用ゐるもの。「之良受(シラズ)」「美留比等(ミルヒト)」(二)漢字漢文の訓讀法によるもの。「不知(シラズ)」「見人(ミルヒト)」(三)右兩種を混用したもの。「知受(シラズ)」「見流人(ミルヒト)」以上の三種にわける事が出來るが、一篇の文としては、(甲)全部萬葉假名で書いた萬葉假名文と、(乙)主として漢文式に書いて、之を訓讀すれば、その日本語となるやうに書きながら、處々、その語句を寫すに適切な、誤讀の憂なき漢字が無い爲に(一)又は(三)の方法をまじへ、又は漢文としては不必要な文字を加へた古事記のやうな文と、(丙)日本語の順序のまゝに、各の語句を(三)の方法を主とし、時として(一)(二)等の方法をまじへて寫したものと、以上の三種がその最著しい種類である。前に述べた宣命のやうな記法は(丙)の中の一種であって、この書き方は、宣命に限らず、實用的の文には用ゐられた。
 和歌の用語は、古くからその當時の口語によったもので、支那の詩賦の影響を受けて歌に技巧をこらした藤原宮以後にいたっては、普通の口語には無いやうな古語や句法も多少は混じたであらうが、猶大體に於て口語と差異が無かったものと考へられる。平安朝に入っても、初の内は大體同樣であったが、和歌が盛になり、歌合なども屡行はれるやうになると、歌には用語を撰擇するやうになり、詞の雅俗をわかって、口語には用ゐても歌には用ゐない語が生ずるにいたった。音便の如きも口語にはあらはれたけれども、歌には用ゐられず、かやうにして、歌詞と口語との間に多少の差異を生ずるに至ったが、歌はこの時代に出來た古今後撰拾遺以下の勅撰集が模範となり、詞もこれが標準的のものとして、後世までも襲用せられた。
 歌の書き方は、奈良朝に於ては、古事記や日本書紀に見るやうな一字一音の萬葉假名書きの外に、種々の方法を用ゐたものが萬葉集には見えて、文字の上の巧を弄したものさへあるが、平安朝に入って平假名が發達すると、平假名で書くのが本體となり、特別な場合にのみ萬葉假名を用ゐる事となった。この書き方も後世まで襲用せられた。
 散文は、奈良朝に於ては、上に述べたやうな種々の方法で書かれたが、平安朝に入って平假名で書いた假名文の文學が起って隆盛を極めた。その用語は、宮廷を中心とした上流社會の口語であって、對話の部の如きは、ほとんど當時の口語を寫生したものと思はれる。この假名文が大に行はれて盛に讀まれた結果、この種の文學は、後世にいたるまでその語を用ゐるやうになったが、鎌倉室町と時代の下るに従って、その時代の口語や他の種の文語の影響を受けて、語の用法や語法が漸く變化し、平安朝のものに比してかなりの差異を生ずるに至った。
 江戸時代の中期以後、國學の興起と共に、古文學の研究が隆盛に趣くに従ひ、國學者は平安朝のものを模範として歌を詠み文を綴るやうになり、後世の歌文の用語の語法の誤を指摘して、平安朝の古に復す事を目的とした本居宣長の玉霰、藤井高尚のさき草、萩原廣道の小夜時雨などの書もあらはるるにいたった。この種の假名文を、今は擬古文といってゐるが、國學者は之を雅文といひ、明治以後は多く和文と稱した。
 かやうに、後世までも行はれた和歌及び和文の語は、平安朝の口語から出たものであるが、和歌の語は、平安朝の中でも古い時代の形を留め、假名文はやゝ後の口語の面影を殘すものであって、その間に幾分の相違はあるが、一致する部分は非常に多く、ことに兩者とも初から平假名で書くものとして發達し、後までもその性質を失はない點に於て、文語として同種のものと見て差支ない。この種の文は、明治以後、ことに明治廿年代に古文學の研究が復興した以後にもあらはれたが、なるべく純粹な本來の日本語を用ゐて漢語などをあまり用ゐない事、平安朝の語法による事、平假名を主として用ゐて、漢字は平易なものの外用ゐない事などが、その特徴である。
 現代の文語の文法として説かれて居るのは、主としてこの種の文語、殊に和歌の詞の文法に基づいたものである。
【女子の書簡文】
 平安朝に於て、男子は變體漢文の書簡文を用ゐたに對して、女子は平假名を以て消息を書いた。これは、當時の口語に依ったもので、假名文と全く同性質のものである。もし違ふ所があるとすれば、假名文は對話の部分の外は對話體でないのに對して、消息はその性質上常に對話體である事だけである。女子ばかりでなく、男子も女子又は近親に送る手紙には假名文を用ゐたのである。これも院政時代以後、當時の口語に用ゐられた「さふらふ」といふ語を用ゐるに至ったが、鎌倉時代以後、口語は漸く變化して行ったに拘らず、この種の書簡文は、大體従來の假名文の體を守って一種の文となり、後には敬語を用ゐる事もます/\多く、用語にも特殊のものが出來て、いよ/\特殊の文となり、女子の間に行はれた。江戸時代に於ては、この種の文に「まゐらせ候」といふ語を用ゐる事多く、また最後には「かしく」と書き、且つこれ等の語を假名の合字から出た特別の文字を以て書く習慣となってゐた爲に、これ等がこの種の文の著しい特徴と考へられてゐた。この文語は、明治以後も行はれた。
【假名交り文と和漢混淆文】
 上に述べたやうに、平假名が出來てこれで和歌が書かれ、又假名文が起ったが、一方之と同時代に片假名が出來て、これを以て日本語を寫すやうになった。片假名は、漢文に伴って用ゐられ、主として漢字の傍に訓や捨假名を書き入れたのであって、漢文を訓讀する語の一部分を表はすに過ぎなかったが、かやうなものは、つまり、本文の漢字と傍の假名とによって訓讀語を表はすのであり、一方宣命書きに於て萬葉假名を補助的に用ゐて日本語を寫す形式があったのであるから、こゝに漢字の下に片假名を小書して日本語を表はす法式が生じたのである。その最古いのは、平安朝初期の訓點を附した佛經の書入に見えるものである(「日本文學論纂」所收春日政治氏の論文「金光明最勝王經註釋の古點について」參照)。恐らくは、かやうな法式が、僧侶など漢文を講ずる人々の間に次第に發達して、遂に今昔物語や打聞集などの説話集に見るやうな、漢字の間に活用語尾、助詞、助動詞などを片假名で小書して加へた文を成すに至ったものであらう。今昔などの文は、漢文に親しんだ人の手に成ったものであらうから、漢文にのみ用ゐるやうな語も混じて、必しもすべて當時の口語のまゝではなかったかも知れないが、しかし、大概は當時の口語に基づいたものであらうと思はれる。この種の文は、後には、漢字のかはりに片假名をも用ゐ、又小書した假名も必しもすべて小書せずして、全體に假名を交へる事が多くなり、言語も、他の種の文語の影響をも受けて、鎌倉時代の諸種の佛教説話集や愚管抄のやうな文になったものと考へられる。
 保元平治や平家物語など、鎌倉時代の新興文學に用ゐられた文を、明治以後、和漢混淆文の名を以て呼んでゐるが、これ等の文は、漢文訓讀の語や、平安朝の假名文や、変體漢文の語や、當時の俗語までもまじへた一種の文學語であるが、大體から見れば、この種の假名交り文に屬するもので、その書き方も、恐らくは延慶本平家物語に見るやうな、漢字に片假名を交へた體であったらうと思はれる。
 この種の文は、その後室町江戸時代を通じて、各種の文語(殊に漢文)や、各時代の口語を交へ、またその影響を受け、又その書き方も、片假名の代りに平假名を用ゐるものも出來たけれども、猶、その言語は大體に於て鎌倉時代以來の特徴を保ち、口語と分れて、通俗の文として行はれたのである。江戸時代の小説の類や隨筆雜記なども特殊のものの外は、多くは、この體の文に屬する。勿論精密に見れば、その中にも種々の相違があって、江戸時代の新興文學には、當時の俗語や口語の語法をまじへた所が少くないが、讀本の文の如きは、概してその代表的のものと見る事が出來よう。
 以上、江戸時代までに行はれた各種の文語の主な種類について略敍した。その中、漢文の系統を承けたものは、漢文、變體漢文、男子書簡文、假名交り文及び和漢混淆文であって、これ等は專ら漢字を用ゐ、又は主として漢字を用ゐた。純粹の日本語の系統を承けたものは、祝詞宣命の文、和歌及び和文、並に女子書簡文であって、これ等は、漢字專用時代には種々の書方を用ゐたが、假名文字が出來てからは、祝詞宣命の外は專ら平假名を用ゐ、又は主として平假名を用ゐた。さうしてこれ等の文語は、その起源の遠いものもあり、比較的新しいものもあるが、祝詞宣命の如き奈良朝以前の言語を殘したものの外は、概して平安朝までは口語の變遷に伴って變遷して來たが、院政鎌倉時代以後口語が次第に變化して行ったに拘らず、これ等の文語は、多少とも時代時代の變化はあったとは言へ、猶大體に於て(殊に其の語法に於て)平安朝又は院政鎌倉時代の言語の特徴を失はずして後世までも行はれたのであって、爲に、文語と口語との間にかなり大なる相違を生ずるに至ったのである。
【明治以後の文語】
 以上の各種の文語は、宣命及び變體の漢文を除くの外は、明治以後にも行はれ、現今に至っても未だ全く廢れるに至らない(祝詞の如きも今猶之を用ゐ、又必要に應じて新に之を作る)。明治以後の文語の歴史に於て著しい事は、普通文が起った事と、口語文が出來て盛んに用ゐられる事とである。
【普通文】
 普通文はその形から云へば、漢字を主として假名を交へて書くもので、江戸時代にも行はれた假名交り文と同樣である。江戸時代に行はれた假名交り文は、明治以後にも小説などに用ゐられたが、論議の文には、幕末以來、佐藤一齋や後藤芝山が訓涜したやうな漢文訓讀式の語を漢字に片假名を交へて書く事が流行となった。この漢文直譯體の文は、漢文にしか用ゐないやうな漢語を多くまじへて、耳に聞いては難解な處もあり、日本語としては語を成さない處もあるが、世に喜ばれて、明治以後諸種の文に用ゐられた。また一方、明治以後洋學が盛であって、西洋の文を讀み、之を翻譯するに、一種の形式的な翻譯語を用ゐたが(例へば、過去の形wentを「行キシ」、goingを「行キツヽ」、proveを「證據立てる」と譯す類)、一部の人々は、文語にもこの西洋語直譯式の語を用ゐた。明治廿年代に至って、國文學の復興と共に、中古の假名文に基づく和文體の文も亦唱道せられて、この派のものは中古の歌文に基づく文法を以て、文語文法の標準とした。
 かやうに、諸種の文語が用ゐられて歸する所が無かったが、明治卅年頃からは、諸體を折衷して、雅にも俗にも偏せず、耳に聞いて理會し得べき文語を以て標準的のものとすべしとの考が漸く有力になり、江戸時代の學者の文でこれに適ふやうなものを取って學校の國語教授に用ゐるやうになり、新聞や雜誌などの文も、次第にこの傾向に向って、現代の普通文の體が大體定ったのである。さうして、その文法も、專ら平安朝の文法を以て律するのは現代に適しないとして、文部省でも、
「文法上許容すべき事項」を發表して、中古文法と現代の文語の文法との調和をはかるにいたった。
【口語文】
 口語文は、現代の口語に基づく文である。もし、その當時の口語に基づく文を口語文とするならば、平安朝の假名文の如きは口語文であるが、しかし當時は口語と文語との間に大した差異が無かったから特に口語文といふべきではない。口語と文語との差異が著しくなった室町及び江戸時代に於て、漢籍佛書の講義の筆記、師説の聞書、佛者の説教、心學や神道の講説などの書には、口語をそのまゝ筆にしたものがあって、これ等は口語文といふべきであるが、當時は之を正式な文とは考へなかった。
 明治以後、國語國字論の一として、口語のまゝに文に書くべしとの論、即ち言文一致を唱へるものがあらはれたが、明治十九年二十年の頃に至って、はじめて小説に口語文が試みられた。一は山田美妙の
武藏野であり、一は長谷川二葉亭の浮雲である。引き續いて、硯友社一派の小説家に口語文を用ゐるもの多く、尾崎紅葉などもその有力な一人であって、用語についても種々の工夫を凝したが、しかし、當時は猶、文章語が勢力があり、紅葉の小説も口語文のものとさうでないものと相半してゐる。日清戦争後、國語國字問題がまた盛になり、卅年代に入ると口語文典などもあらはれ、芳賀矢一博士の國民性十論其他の如き、小説以外にも口語文を試みるものもあったが、世間普通の文としてはまだ勢力を得るに至らなかった。然るに、日露戦争後、自然主義の文學が起るに及んで、その作家は、小説にすべて口語文を用ゐたが、これより後は、小説はすべて口語文による事となり、用語も次第に洗錬せられて行った。さうして、その餘波は次第に他に及び、大正年間には新聞雜誌も漸次に口語文を用ゐるやうになり、口語文で書いた學術書もあらはれ、遂に今日に至っては、口語文は種々の方面に於て文章語體の文に代って用ゐられ、普通の文語として巌勢力あるものとなった。
【參考書】
 日本文章史 大町芳衛
 日本文章史 長連恒
 文藝類纂(文志)榊原芳野
 古事類苑文學部 神宮司廳
 國語史概説 吉澤義則
 訓點復古 日尾荊山
 文教温故 山崎美成
 點本書目(附録)吉澤義則(岩波講座日本文學)
 尚書及び日本書紀古鈔本に加へられたる乎古止點に就きて 吉澤義則(國語國文の研究)
 眞言宗の乎古止點 吉澤義則(同上)
 雅俗語識別の時期 吉澤義則(同上)
 語脈より觀たる日本文學 吉澤義則(國語説鈴)
 假名交り文の起源 吉澤義則(同上)
 消息文の變遷 横井時冬
 文章研究號(國語と國文學、昭和五年四月特別號)

後記。簡約を旨としたが、それでも豫定の紙數を遥に超過した上に、最後にいたって執筆の時間を失ひ、日本語と他國語との交渉及び日本語の系統に論き及ぶ事が出來なかったのは、讀者と編者とに陳謝する次第である。猶第五章の前に一章を設けて日本語の音聲について説明すべきであったが、本講座中の國語音聲學に讓って省略した。
全編簡略に過ぎて敍述が抽象的になり理解し難くなった事をおそれる。箇々の事項については、日本文學大辞典に執筆したものの方がやゝ委しいものもある。


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