五四、韻鏡の發見


 韻鏡は漢土に何時頃に出來たかは詳かならぬが唐末だらうと云はれる。四十三圖より成り毎圖二十三行(即ち七音)十六段(即ち四聲で、毎聲に四段)に分ちて漢字を配置し、上下左右相照して音韻を正し得るから音韻の明鏡といふので此の名が有る。この四十三圖に容れ得べき文字の數は23行*16段*43圖=15824で有るが、實際に漢字の填てゝ有るは三八九〇字(古逸叢書の永祿本による)のみで即ち圖の成立當時の發音數だらう(現今の漢土の發音は四百有餘と算へられる、其に四聲の別ありとしても千六百を過ぎぬから三八九〇とは餘りに違ふ。或は理論より推し出した音も加はったのか)。
 宋の張麟之といふ人が友人より此の一編を得て日々に資益ある所から紹興三十一年(一八二一、唐亡びてより二百五十四年)に印行し、慶元三年(三十七年後)に再刊し、又嘉泰三年(又七年後)に更に序作を撰して三板したことが其の序によりて知られる。紹興三十一年は吾が平治亂の翌々年、嘉泰三年は實朝任將軍の年だ。韻鏡は宋の初には避諱の爲に韻鑑と稱せられたと張氏の文に見えて居る、宋になつて出來たならば此かる名を定めまいから此の點でも唐代の作と知られる。
 この第三版本が吾が國に傳はつて南都に存した。享祿五年(二一九二)の奧書が有る指微韻鏡私抄略(家藏)に
 明了房云南都轉經院律師此韻鏡ヲ始而雖ドモ所持1スト未ル能讀傳コト之1ヲ間上總前司公氏ニ此序ヲ令點之處ニ蚤夜(ノミノヨ)ト假名ヲ付テ終ニ不v得v點v之1ヲ而返v之テ申云此書ハ非悉曇ノ師ニ雖得其意1ヲ云々其後終ニ無2點之ヲ之仁1ト者也爰明了聖人爲小川ノ嫡弟1ト而傳テ悉曇韻鏡微旨ヲ辭西洛之風1ニ入テ東關之霞1ニ反音之法悉曇之説都鄙無比1依v之テ染筆1ヲ初而加點ヲ自爾以來切韻之妙義如鏡1反音之奧義無曇1故唯有2リ釋門之相傳1ノミ更無儒家之握翫者也因v茲彼序云胡僧ニ有トモ此妙義1儒者ニハ未タス之聞二1[文]又ハ凡儒ハ不得其傳1[文]此言誠哉可私1云々
絶海和尚(應永十二年「二〇六五」寂す)の私抄を書寫したといふ韻鏡略抄には
 日本傳來の事是又誰人日本へ傳るとも不知是に南都傳鏡院律師經藏より見出す然ども無點なる間不能讀傳析節上總前司公氏と云人あり是第一の文者也律師彼方へつかはす心は無點なる間點を付て給れと云意也公氏此書を見て蚤夜の二字にノミノヨと假名を付て返事に此書は悉曇師に非んば不能點ルコト謂て則ち返す也けにも儒道の書に非れば不點理也律師ノ遣事不堪ノ故也其後小川の信範明了上人辭西洛風東關の震に入給ふ折節大和の極樂院にて見相ひ此書の點を指し玉ふ其より以來人能讀傳也明了上人は悉曇の妙義と通じ給ふ事治定也公氏の返事の如也公氏は儒力にて不知推知の分に云爾乞と云々
と有るのが當時の傳らしい。
 岡本保孝翁の韻鏡考に韻鑑古義標注に舊記として此の説を出して有るのを引いて「此の舊記の出典考ふべし」と有る。大矢博士の韻鏡考に韻鏡看拔集(寛永十一年の奧書あり)に此の説ありとて古義よりも百餘年の前だと有るが、本文に擧げたのは寛永よりも更に百餘年古い。又古義には明了房信範能悉曇掛錫於南京極樂院とあるを見ると韻鏡略抄あたりが其の所據だらう。極樂院は竝河氏の大和志に添上郡「元興寺の子院に極樂院あり」と見ゆ。
 又私抄略には此の公氏を菅家の人らしく書いて有る。菅原氏系圖(續類從本)には五種も有りて必すしも一致せぬが
(一)定議−在良−清能−在清−公輔−在公−公良
                     公氏
      在公
(二)公輔−公氏
      公良−公長
      在公
(三)公輔−公綱[初公氏改]
      公良(尊卑分脈、之と合ふ)
 公輔の子、在公公良の同胞と見るべきらしい。然るに在公は後宇多院(第九十一代)公良は後深艸龜山(第八十九・九十代)の侍讀を仕うまつりし由だから公氏も其の頃(後深艸の初「一九〇七」−後宇多の季「一九四七」に活動したと見れば文應弘安(一九二〇−一九四七)の著作を遺して居る明了房よりも稍先輩となりて尤らしいから此の公氏を菅家とするのは正しいことだらう。明了房には又建長四年に寫した韻鏡が有ると云はれる。即ち一九一二年の事で後深艸の初で有り、これが韻鏡に加點した時としても房が丁度三十歳の時に當る。
 磨光韻鏡餘論に「或る人の曰はく皇世八十九龜山院の文永年中(一九二四-三五)南都の轉經院の律師某、韻鏡を唐本の文庫に得」云々とあるが此の文永といふは怪しい。建長四年(一九一二)に既に韻鏡を寫して居るのに、之よりも十數年後の文永に加點するべきで無いから。宜なる哉私抄略にも略抄にも文永とは云はぬ。
 此く發見せらるれば自ら學習するにも至ったらうが寫本の私の見聞に入ったは極めて少くて僅に三種。
一は東京帝國大學國語研究室に藏せられた物に明了房信範の寫本から傳寫したといふ奧書が有ったさうなが、大正癸亥の震災で亡くなった。橋本博士の燒失主要書目録に
 韻鏡    一册
   彌勒二年の奧書が有り、終に別筆で慶長年間の傳得の奧書が有って室町末期の寫本と認められる。この書に於て特に注意すべきは圖の終に「本云」として信範が建長四年に書寫した由の奧書を載せた事で有りて、韻鏡流布の歴史に一新資料を加へたものといふぺきて有る。
と記されて有る分だが、幸に奧書の全文が大矢博士の韻鑑考に有る。
  本云 建長四年二月十二日書寫了 明了房信範
  彌勒二年丁卯三月十五目書寫了 主什舜
    韻之字假名私印融付之了
  武州多西郡小河内峯 於曇華菴 書之了
  慶長十年九月求是
  高野山徃生院於寶積院深秀房從手前是傳者也
  生國讚州屋島之住僧也 龍巖 俊善房之 今ハ俊之
又考にはこの本と享祿本との異同を四十餘條擧げて有る。
 和田氏の訪書餘録第五編の「佛書以外の古版影寫標本」第五十八號に韻鏡永録本を出されたが、其には卷尾の欄外に
本云印融假名私付之以本寫之點信範上人云々
と有るから、其の點は信範の舊を存するらしい。惜しい哉その藏者を記さぬ。
二は同書の第二編の「舊鈔影寫標本」第十八號に韻鏡元徳本を出された奧書に
 元徳三年正月二十三日子刻於悉地院以明本
 聖人之本終書寫交點之功了
           (梵文二字)玄惠卅
と有るものが有る。元徳三年(一九九一)は本文に引いた建長四年よりも五十年の後であるが、今日は之を最古とすべきだらう。「雲村文庫藏」とあるが、今何處に在るのか。
三は醍醐三寶院に現存する嘉吉元年(二一〇一)の寫本。著者は明治三十九年八月就きて一覽したが、卷尾には
  嘉吉元年仲春候       權律師俊慶
と奧書し、表紙の右下には 慈心院常[以下蟲喰]と有る。必ず俊慶の手で寫されたのを慈心院が傳得したのだらう。
 序例では點を施し、時には送假名を附し、又讀方をも加へて居る。大した異同も無いが三十六字母と歸納助紐字とには逐一某韻何等の字たること(例へば幇に唐一とある類)を註し、喩母には廣作裕韻同喩と有るも廣韻では裕を音切の字として喩は其の字子たることを明したものだ。

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