六二、韻鏡の古注


 佛教各派の中でも眞言宗では殊に諷誦を重じて音聲即妙乘と立てた。隨て聲明に對する關心も深かった所へ韻鏡の一書が發見せられて聲韻に關する幾多の術語を供給したから明了房信範の悉曇私抄[文應元年十月]調聲要決抄[弘安六年五月]悉曇宇記明了房記[同八年七月]にも悦んで之を利用し、高野の三寶と呼ばるゝ一人の杲寶の悉書字記創學鈔(庚安「二〇二〇」−康暦「二〇四〇」に成る)にも數ケ所韻鏡を用ひて其の講述を助けて居るが、而も其等は韻鏡を利用したといふに止まりで韻鏡其の物の研究では無かった。
 韻鏡を註したものは今日は至徳四年(二〇四七)の奧書有る物まで泝られる。この奧書にして眞ならば一方で悉曇の講述に之を利用すると相竝んで一方では韻鏡其の物についても研究せられたので有る。
 至徳の奧書あるは福井縣丹生郡糸生村眞宗大谷派の末寺淨勝寺の經庫に存する指微韻鑑略抄で有る。此の書は二部より成りて、其の後半は
  權僧正實嚴記之卅四
 至徳四年丁卯八月七日從旦那院僧正御房受訓記之同十日雨中書寫ス 惠鏡
より始まって、應永、永享、文安、永正[五年と十三年との二]享祿[二年と四年との二]の七條の奧書を有する永祿四年の古寫本で有る。此の分は廣く世に傳へられたのか、東寺觀智院に今卷子本で「七種反音者」と書き起したものが有るが其にも殆ど同樣の事が載せられて居る。
 淨勝寺とは有名な丹山師の寺で有る。師は僧義門の男信(書名)にも丹山法兄とて其の説が引かれて居る程の學僧だが、特に建仁寺に有った宋藏によりて黄檗板の一切經を三校し、天晴一宋藏を成したので有名だ。其の事は柿堂存稿に述べて置いた。
 至徳四年より十八年の後の應永十一年の口授を筆記した指微韻鏡私抄略といふ享祿五年(二一九二)の寫本は著者の架上に存する。其の奧書に
于時應永十一甲申八月十八日始之、同十月十九日至序計大繩聞之 師ハ鎌倉雪下八幡供僧慈月房安察法印覺算 于於悉曇者小河僧正餘流總シテ出門寺門東寺三流悉曇相承之家也 依爲寺法師潅頂之時正護院之覺僧親王ニ悉曇ヲ奉教畢然間覺僧出御悦之御書 彼坊在テ今愚僧俊叡隨分致懇望韻鏡切韻等相承竝書籍等少々寫之相傳之時ノロ筆也未授之後見可有制捨者也彼書相傳下愚人之由師御物語也
 應永十二年は僧絶海の寂した年だが、其の作と稱ぜられる韻鏡略抄(寛永六年の寫本)が京都帝國大學圖書館に藏せられる。
 同十五年(二〇六八)に僧照珍の艸した反音抄といふもの續類從第八八八に收められて居るが、其の内容は前述の指微韻鑑略抄の前半と殆ど同じい。
 同二十五年(二〇七八)に太宰府で僧聖清が僧道惠の指微韻鏡抄を寫した。抑々道惠の此の書は承應三年(二三一四)に至りて刊行せられたが、磨光韻鏡餘論にも「道惠の鈔は蓋し湮滅せり」と云ひ、且つ此の刊本をば
世に指微抄五卷有りて人の跋して是道惠之所抄也と曰へる有りて承應三年に新刋せり。余按するに此の書は道惠の鈔する所ならざるなり、知る所以は切要抄及び開區に道惠抄を引けるが、今之を指微鈔に校すれば其の説同じからず、故に贋書たるを知る。
と斥けた。然るに昭和五年二月京都の大谷大學圖書館で此の古寫本が發見せられて左の識語が有る。
余欲鉤悉曇之幽深嘗九弄韻鏡之二書先有師示以沈約之意旨後有客授以張氏之口實也既雖得其網未能解其支條也遂入西郊之紫府居聲明之業時有友人懷斯序解五卷來日是僧道惠之所抄也忽一覽猶泥惠公之志因請轉寫友乃聽也反切之要蓋無捨此而所得而己須置之心腑徒不可抛几案矣
   應永二十五年戊戌九月十日                       悉曇末資左寺聖清
惜しい哉前半を失って、横呼韻の後半から上聲去音字、五音清濁、四聲定位、列圍を釋して長さ約一丈二反の長卷・其の内容は承應刊本と全同だから今日は疑ふ餘地が無い。畏友龜田學士によりて學界に紹介せられたもの。
 應永は三十五年も續いたからでも有るが今一本が傳はる。故大槻文學博士の藏せられた韻鏡字相傳口授(寫本)には左の奧書が有る。
應永三十年二月九日於敦賀氣比之社頼勢ノ御本ヲ以テ此書寫申也爲無上菩薩也求法桑門實慶
この頼勢御本について大矢博士の韻鏡考に
韻鏡看拔集は寛永十一天甲戌三月廿一日午刻書寫了の奧書あり。書中に頼勢傳云などありて「空炎ニツ同ク聲氣入v鼻ヨリ出v鼻ヨリ故爲2一韻1也と引けるは韻鏡字相傳口授に其ノ聲韻入2于鼻1聲與v息倶亦從v鼻出云々梵音空點也亦入聲ハ炎點也などあると同意異文なるは筆記の人を異にせるが故にて同傳なる事明かなり。
と有るは此の書の價値を證するものだらう。
 寶徳元年(二一〇九)に僧宗杲の寫した七種反音者云々とある卷子本が今、東寺觀智院に存する。此は書名とて無いから姑く發端の一句で表すのだが、其の本づく所を至徳四年の惠鏡の寫本とするに於て前述の指微韻鑑略抄と同系だ。
 五韻反は美濃紙十一枚に記された假綴の物で、高野山金剛三昧院の藏本が、今同山大學圖書館に寄託せられて居る。奧書によれば薩摩の人任堯が文明十七年(二一四五)二月に同山小田原中島坊にて書附けたもの。初行には 五韻反重々ロ決一卷 とあるから、五韻反とのみいふは略稱らしい。
  倒翻反 對座反 雙聲反 紐聲反 疉韻反付對座、此三重在之 雙聲 紐聲
  二重反 三五相通反 中略反付假名ノ三字中略 眞字ノ三字中略 一字反
   已上十二反音在之 此外ノ反者多之、大概記之
とあるは目次とも見られるが、反と名づけたは九に止まるから雙聲、紐聲、三字中略をも數へるのだ。以下各々の場合を例示して有る。
 倒翻反とは可意反喜となるもので一音(キ)となるもの、之を何散倒翻と名づくるかの説明は無い。梵字にて例示しても有る。對座反どは大落反澤となるもので反切の二字の音首が同段なるもの。雙聲反とは空海反海となるもので反切の二字が同行のもの。紐聲長とは大寶反幢で同段でも同行でも無い二字が反切となって居るもの。疊韻反には例の文字が出て無いが反切の二字が首尾を同しうするものたるは其の名稱で知られる、これを又音首につきて對座雙聲紐聲に分けると見える。二重反とは道觀反ではッワンとなるを再び反してタンとするものと有るが畢竟後世にいふ次音原音の關係で反切に用ひた字は原音、歸納の字は次音が常呼となつて居るのを通する方途で有る。三五相通反とは東福反にてはツクとなるを實はトクの音とする類、これも福に(ホクヒョク)の音ある其のボクより歸納ぜられるのだがボクが普通でない爲此う説明せざるを得ぬ。中略反とは寶春反はヒュンとなるをヒンとする類が假名中略の例になって居る、韻鏡第十八轉は春と同段に椿倫が有りて(チンリン)と發音するから寶春ノ反でもヒンとなるので有るが形からは中略と云はれる。又其字の中略では「大傳法院を大法と配りてトウと反す」を例として居るが、さる稱へ方が有ったとしても假名の中略とは聊か違はう。一字反どは徳の一字をタヲク、クイヲク、クウホクなどの類と有るが何の意か解しかねる の如くに。その次に四聲、三内空點假名、三内空點、通摩多別摩多を梵字を用ひて説明して卷を畢へる。
 反切を此の如く分類するのは他書には見ぬ所だが、こゝに述べた場合は實際に有り得る事だからさる研究も行はれたといふべく貴き一文獻で有る。
 この前後享徳四年(二一一五)に沙門照春が提公の祕訣を傳へた。
 延徳四年(二一五二)源孝法師が七種反音の聞書を傳へたが、此の二種は前記の反者抄に附載。
 永正十六年(二一七九)に印融法印が寂したが、融には三四反切拂抄の著が有りて亦東寺觀智院に存する。高野の無量光院・武藏鳥山の三會寺に住した學僧で世壽八十有五。私抄には道惠五卷抄を二囘、覺算の三切抄・一卷記を各一囘づゝ引いて居るから種々の古注が有ったと知られる。
 韻鏡珪〓集も高野山大學圖書館に傳はれる半紙五十枚の寫本、書中に
印融の記には十二反切の義など有れども今用ふる所には立てぬ事なり。只韻鏡の表ばかり守りて決すべきなり。
と有るから大永(印融の歿した永正の次の年號「二一八一−)以降の物とは知られるが、其の他には筆者も年月も知られぬ、上下二本に分れる。内表紙には「韻鏡私」と有るが、開卷第一行には「韻鬱珪〓集」と標し、この名の因由を
珪とは踊傳、〓とは愚の書けるなり、〓又捨つ可からざる故に師傳の裏に愚解を加ヘたるは白珪に〓玉を加へたるが如し。この故に珪〓集と名づく。
とも説明して有る。主として韻鏡の序例のみを釋したもので、先づ
  重彫字母括要圖指微韻鏡竝序
の「上七字は張麟之が題する所、次四字ば本題、誰人の作と云ふ事未詳なり、并序は是又張麟之の言なり」から始まるを見ると此く標題した韻鏡が存したかに見えるが字母括要圖とは張氏序例の中に字母歸納字を出したのによりて序例をさう稱へたのだらう(切韻指掌圖には反切の説明した部分を指掌圖要括といふ)から別途の物が有ったでも無からう。序例を解して後に各韻に用ふべき音を出(平上去)入兩聲に亘りて出したが、之を乾坤乃至複用の十二に分けたは聚分韻略と同じい。點畫少異字(推椎の類)や韻鏡に於ける出入聲の比較が之に次ぐ。さて歸字例の條で其の例として張氏の出したのを
芳弓反−對座反  息中反−不同反  祖紅反−同音切  慈陵反−單行反  先候反−上下同位切  諸氏…弭盡反−去聲上韻反  千竹反−二重切
と名づけて居るが前に述べた五韻反と同じいは對座、二重の二に止まる。但し之に由りて當時種々の名目を以て反切を分類することが流行したことは證せられる。前に引いた如く印融の十二反切に對抗した云ひ方なるは印融のが切韻指掌圖のと同じい樣に之も亦漢士から傳來のものだらうか。此等の點から、成書の年月は知られぬが姑く此處に序でる。
 元龜二年(二二三一)に僧孝山の跋せし韻鏡が東京の佐藤仁之助氏に藏せられると聞くが未見。
以上著者の見聞したものでも十指に餘るから當時は相應に此の種の物の存したことゝ思はれる。

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