七三、韻鏡の刊行


 既に韻鏡の發見を敍し又其の古注を録す、今や其の刊行に及ぶも亦自然だらう。享祿戊子即ち元年(二一八八)その發見よりも約二百四十年後に當時海外貿易を以て一時の盛をうたはれた堺で出版せられた。
 經籍訪古志に
韻鏡一卷享祿戊子覆宋本
首に紹異辛巳張麟之の識語あり又嘉泰三年麟之の序あり、次に調韻指徴・三十六字母歸納助紐字、歸字例、横呼韻、(こゝに上聲去音字を脱す)五音清濁、四聲定位、列圍ありて末に韻鑑序列終と題し、次に本文内轉第一より第四十三に至る。識語の後に慶元丁巳重刋の木記あり。卷末に享祿戊子清原朝臣宣賢の跋ありて泉南宗仲論師の鏤梓始末を謂ふ。聞く又永祿刋本ありと未見
と有る物で明治以後は木村正辭博士と東京帝國大學國語研究室とに各々一本を藏せられたと聞くが、博士のは何處に傳はつたか不明となり、研究室のは大正十二年の震火災に亡びた。
 この跋の泉南宗仲論師を普通には「泉南ノ宗仲論師」と讀んだが、岡本況齋は韻鏡考に於て
宗仲ト云人有ルニ非ズ。和泉大鳥郡ニ南宗寺ト云寺アリ、其頃ハ等ニハアラデ庵主ナリ、其庵主ニ仲論師ト云ブガ有ルナリ。
と正した。此は當時通人の説だったと見えて増島蘭園の隨筆も同意見だ。所が近年堺の光明院(南宗寺とは全く別)の寺中の普門院に宗仲といふ僧が居って、三條西實隆がこの人にあてゝ新板の韻鏡一本を懇望した文書が發見ぜられたので南宗とは續けてならす、宗仲は切りてはならぬことゝ定まった。尤も普門院の事は夙に知られたので寶暦七年に成った全界詳志に
徃年光明院の枝院の普門院主韻鑑年代記の二書印板せし由、其頃西三條實隆卿より來書に其事あり、何れの本なりや未詳云々
と有るを黒川春村の音韻考證にも引いて居る。實隆は天文六年(二一九七)に歿し、二條家再興と云はれた逍遙院堯空で、後柏原天皇踐祚の時本願寺主に説きて即位式の資を獻ぜしめ、又親ら史記百三十卷を寫されたので有名な人(大正四年贈從一位)。
 永祿本は徃々世に存し、古逸叢書にも刊入せられたが、揚守敬は日本訪書志に於て
韻鏡 一卷
其の書撰人の名氏を著さず。紹興辛巳張麟之其の本を得て別に之が序列を爲りて之を刋す。初名は指微韻鏡。嘉泰三年に逮んで麟之又重ねて之が序を爲る、蓋し即ち鄭樵の七音略に七音韻鑑といふ所のものならん。是宋代に已に三刋を經たるに何故に元明以來遂に傳本なくして著録皆之に及ばざるかを知らす。日本享祿戊子清原諸傳鈔本を合せて重刋して頗る更改ありしかば、永祿七年のに又得慶元丁巳所刋原本重校之始還其奮と云ふ。共の書直に十六等(平上去入各四)を列ねて大致は切韻指掌圖、四聲等子と略何じく簡にして漏さず詳にして雜ならず、等韻書中にて最善本と稱す云々
と云って居る。蓋し揚の云った七音韻鑑は通志略の中に收められて居るもので、此と趣を同じうせるものの、同一とは云はれぬ。
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