八二、韻鏡によらざる字音の研究


 漢字の音を扱ふものとしては韻鏡が重用せられ、本書も韻鏡につきては節を改めて之を記して居るが、別に又韻鏡圖を用ひざる研究も起つて居る。今その主なものを擧げる。
 漢呉讀音法
 九弄和解(僧盛典の條に)
 九弄十紐口訣
 反切捷径指南
 聲音對
 字彙卷末解(河野漣窩の條に)
 韻鏡正義編
 假字反切
 九弄辨(僧文雄の条に)
 音例
 漢音正辨
 解経秘蔵
 韻鏡藤氏傳
 發字便蒙解
 韻学傳記
 和漢字名録
 發音發
 音韻假字格
 字音仮名辨
 音〓[音英]
 韻鏡發揮
 發音辨義
 康煕字典等韻指示

 漢呉讀音法は寫本で帝國圖書館に存する。慶長十二年(二二六七)に松尾重理が編したものゝ寛文中の寫本だが、行文も慶長頃の物と思はれる。延暦十一年の官宣を引いて桓武以前には儒書佛書によりてさのみ呉音漢音の差別なく人々の心次第だつたが此の官宣以後今に至るまで儒書を漢音に讀むことゝなつたが、暗に云ふ時(按するに會話語の意)は呉音を用ふるので論語もリンギョとは云はすにロンゴと讀むと有る一節が一卷の骨子だが、延暦十二年の制に年分度者にも漢音を習はしめられたことを考慮の中に入れぬらしいはいかゞ。

 九弄十紐口訣は穂積以貫の撰、首に梁沈約の張字九弄十紐圖、唐神〓の征字九弄反紐圖、日東湯浅重慶の家字叶韻九弄圖、以貫の一字協韻九弄圖、その門人上田尚志の中字九弄十紐圖の五種を出し、次に九弄の語義を釋し九弄反方を解き最後には叶韻辨にまで及んで居る。寫本

 反切捷径指南は穂積以貫の序に享保二年(二三七七)と署し、その末段に「坊人の請によりて爲に其の首に序す」とあるのみで著者は分らぬ。先づ三十六字母を出して黒白の圏で其の輕重を明し、次に本文となりて音和、類隔、双聲、疉韻より廣通、偏狭、互用、往來(八種)、憑切(五種)に及び寄聲、通借など三十の場合を説明して居る。

 聲音對 但馬豊岡の僧天産の著で享保五年(二三八〇)の刊行。漢文にて記せるが行文難澁その意を得るに苦しむ。すべて十五篇より成り、第六篇では七音略に華梵音を辨したる處に缺くるありとて之を補ひ、第十一篇では復古禪師の著した對客閑話の誤を正して居るが、其の他は客の問に答へる仕組だから此の名が有らう。「漢音は彼土の通語・呉音は江左の音だから、王仁や法明が百濟より傅へたは呉音でも漢音でも無い」といふ如き類。天産は支那音を操った同人の錚々たるもの。

 韻鏡正義編は摩頂上人の著で寛延四年(二四一一)に成る。この書、中間に韻鏡の序列につきて辨じたるの外には直に韻鏡の末書とも云ひがたきが、さりとて韻鏡を離れた者でも無い。三山張麟之と有るにつきて大明一統志九十卷の内で三山と號するが十五處あるから張の傳の詳かならぬに之を福州と定むるも疑はしと云ひ、韻鏡を名字反切の書とするは鶏を割くに牛刀を用ひる類だ(この書は古義標注よりも二十五年の後)と云ふの類。全部漢文。

 假字反切は寫本一巻、静嘉堂文庫にありて撰人も年月も分らぬ。三十六字母、五音拗音五位、指折反、唐人反などゝ出して有るが、オヲの所屬もまだ舊式のまゝ。

 音例一卷、齋静齋の口授を門人の録したもの、静齋名は必簡・字は大禮、安藝の人、寶暦十二年(二四二二)の刊。四聲に分ちて升音登咎音羔麗力知反の如き類五百三十字を出し各字一二條の證を列するも其の出典を缺いて居るが陸氏の經典釋文に本づくらしい。

 漢音正辨は伊勢經峯(安濃郡の西)の僧素真の著で明和九年(二四三二)の序。二卷が五篇に分れて或は吾が國史に傳ふる漢音の何なるかを辨じ、或は聲音對和學辨和讀要領の非を明して居る。素眞は天台宗に傳へて例時作法や懺法などに用ひる漢音を以て純なるものとし、普通に漢音と稱するものを其の雑なるものとし、此等に對して俗なるものが今日の南京の音だと主張するのだから和讀要領などに今日の支那音を貴ぶのとは正面衝突ぜざるを得ぬので有る。今日の支那音よりも吾が國に伝はった音が古に否正に近いと看破したは卓見だが、しかし素眞の意は自家の漢音を貴む以外の根據には気附かなかったらしい。

 解經秘蔵三卷、寺尾正長の著で安永四年(二四三五)の自序が有る。正長は東海と號して讃岐の人、「天の靈に頼りて用字の法を悟りたれば此の書を著して上は孔子の忠臣となり下は吾徒をして一字にも無窮の義有るを知らしめんとす」との意気だったが、門人羽富謙は「此書既に梓行すれども世に學ぶ者少し」とて態々大旨の一篇を添へたも皮肉だ。卷一には六書、形聲、仮借、字體變更、音韻、四聲、五音、字音輕重兼備、韻母の九論、十二疇、古音徴、四聲動静の十二目を收め、韻母論では上古韻十四(痕と眞との四聲一聯と〓[口台]と齊との三聲一聯)中古韻八十四(東、終、唐、陽、庚、清、寒、先、覃、嚴、歌、支、麻、奢、模、虞、豪、蕭、侯尤の二十の四聲一聯にて八十の内、重出せる十を除きて上古韻を加ふ)なりと云ひ、十二疇とは左の類と云って居る。

正直音訓  晋進  離麗  五音も清濁も韻母も輕重も皆同じ
傍 〃     萃聚  禮埋    五音も清濁も輕重も同じく、韻母は通ず
正同〃     乾健  春出    四字一紐の中に在る
傍 〃     序射  俗常    五音も清濁も呼吸も輕重も皆同じくして傍紐なる者
類 〃     順養  奉通    五音も清濁も輕重も皆同じく呼吸は不同
協同〃     遯退  師衆    呼吸を問はず、惟五音も輕重も皆同じくして清濁は不同
正同韻訓  乾天  〓成    五音、清濁を問はず、惟輕重同じして一韻母に列す
傍同〃   屯盈    經實    五音清濁を同じくせす、惟輕重同じくして通韻母に列す
音義二合訓 盍何不  〓不可  一字が二義を兼ぬる故に二字を以て訓す
合音訓   扶搖飆  不律筆  二字が一義を存する故に一字を以て訓す
同字訓   蒙々也  比々也 他字の訓詁を假らず直にその本義を用ふ
措義訓   艮止也  夷傷也 他字の音韻を假らず惟同義を借る
なる程借義訓が一方に有ればすべての訓詁は之に攝せられようが果して正しきや否やは疑問だ。又前の九疇で協はぬ者あるは上古の音聲を失ったからだとて古音徴で其の二三の例を擧げて有る。卷二には五音圖廿六(三内聲)、卷三には同廿二(無尾韻)を收めて其の圖は又獨・廣・前後の三種に分れる。圖中の文字は多く韻鏡と符合するが全同では無い。蓋し漣窩の流を汲んで更に其の波を揚げたものだらう。

 韻鏡藤氏傳二巻は藤原直養の著だから此の名が有るらしいが、富森一齋の序文も亦著者らしい口吻で直養と一齊との関係は分らぬ。乾卷には七音直拗改正圖、本邦漢音清濁輕重字母定局、四十三轉の圖を、坤卷には圖及び門法の説明を收めて居る。各轉の圖には毎字の右に邦音・左に唐音、下に反切を出したも磨光と同じいが、明和六年(二四三二)の序が有るから彼よりは後出。安永五年(二四三六)の板行だが、於乎輕重義にはこの書に再板が有ると云って居る。著しく韻鏡に據って居るが系統不明ゆゑ此處に。

 發字便蒙解は水戸守山の藩主源黄龍公が命によりて成りたもの。發字とは上記正義に「字に數音あれば義を観て點發す」とあるもので義によりて聲の轉するのを示す圏發で有る。公が之を類集せしめて一書となされたは元文の末(二四〇〇)らしいが再板に増補し、戸崎允明が両君の命によりて更に校正したのが此の書で安永五年(二四三六)の刊。たとへば丁の字はヒノトアタルの時も木を伐る聲の時も平聲、合の字は合フの時も合ハセルの時も入聲だが、倶に下の場合(聲が變る場合には本音で無いのに)にのみ圏發することになつて居る事を明にしたもので巻首には畫引の索引が有るなど親切に出來て居る。
 この書には新訂發字便蒙解といふも有る。廣部精の明治十二年の撰で字を増し且つ各字に韻を標して無かつたのをも補ったもの

 韻学傳記は寫本一巻、帝國圖書館の蔵。「國字五十字母五音直拗」と書き起して別に内題とても無いから姑く此く標したのだらうが、この書名は内容を示さぬのみか、語そのものゝ意義も明確で無い。アヤワの三音はア太極ヤ陽ワ陰で太極が兩儀を生ずだといふ風で一巻を成して居る。寫されたは安永九年(二四四〇)だが内容はもっと舊式の物。

 和漢字名録は紀州の醫藤井常枝の著で天明六年(二四四六)の刊。字は文字、名は其の音訓をいふので上巻に和訓の、下巻に字音の假名遣を論じて居る。字音は虎關の三重韻、毛利の會玉篇を準とぜよといふのだから大體の相場が分るが、漢呉兩音の関係を左の如く指摘したは其の苦心を諒とすべきだ。

 堅通 差 サ シ  孝 カウ ケウ 禮 レイ ライ
 横通 微 ビ ミ 馬 バ メ 内 ダイ ナイ
 直拗 客 カク キャク 叉 サ シャ 惟 ヰ ユイ 香 キャウ カウ 呂 リョ ロ 須 シュ ス
 歸納 有 イウ ウ 頭 トウ ヅ 恭 キウ ク 力 リョク リキ 役 エキ イヤク 八 ハツ ハチ
 略音 和 クヮ ワ 重 チヨウ チウ 世 セイ セ
 アヤの通 酒 シウ シュ 株 チュ チウ
 發音發は寫本一巻、佐藤一齋の輯で寛政七年(二四五五)の序が有る。漢字を畫數別に出して本音と圏發の音義とを簡明に出したもの。既に便蒙解が有るに復この業あるは其の仮名交り文たるに慊らぬ爲か。

 音韻假字格は菅原古人の音韻略、僧安然の音韻格といふものを出し、次に関根爲寶が韻鏡によりて其の音の文字を填めたもの。古人は弘仁十年(一四七九)安然は延喜十五年(一五七五)に亡くなった人で倶にこの書の上代の末に屬する、その時分に略とか格とかいふものが有ったらうか。

 字音假名辨一本は高橋残夢の著、首に

古しへ人の漢音と云ひしは漢書讀聲と云ばかりの事にて漢書讀には此くて讀めと定め給へるにて猶和音なリ、其和音に中華の人の云なるウフツクインの六音を結びて字音と和訓とを分てるものなり云々訓と音と同じ名詞あるものなり、音訓同じとて皆字音なりと思ふべからす。
と云へるは一家の見の如きも、各々の音につきて述ぶる所は例證を無視した妄説に過ぎぬ。

 音〓[音英]は若槻敬の撰で文化十一年(二四七四)の自叙が有る。先づ附言三十四則ありて韻学につきて深造せしを述ベ、ついで圖となる。圖は平声三十韻を用ひて韻部と云ひ、其の東冬江魚虞蕭肴豪尤侵覃鹽咸の十三は一圖づゝ他の十七は二圖づヽ即ち四十七圖より成り、字母は三十六なれども文字を更め、四聲は明の葉秉敬の説に從ひて二等としたから圖面の〓數も韻鏡の約半分となったのを簡約便捷と誇って居る。四聲一紐も韻鏡と異なる多いが其の理由は述べてない。

 韻鏡發揮一巻は江戸の大澤〓の攷定せる所で天保壬寅(二五〇一)の刊。韻鏡は服虔が基を立て周〓沈約が潤色し陸法言が集成したらしく經典釋文も之に背馳せるは百に二三と無いから其の缺を傳へたものと断言し、もと師口より徒耳に傳ふる所の訣だから今本には倒誤多しとて、字母にも于(喉清濁)流(舌歯)を増して卅八とし四十三轉は同じきが之に收むる文字には改増少からす、韻鏡を發揮せるでは無く其の一家の見を發揮して居る。此の書には又易索二巻が件ひ、發揮に出した文字を畫數別にして各字の下には右に訓、中に反切、左に轉數を註して居り、静嘉堂文庫には又 韻鏡發揮同音考九卷が有る。

 發音辨義は星野多仲の輯で明治十年の出板。一字數音あるものを蒐め、畫數に之を序でゝ音變る毎に大字を出し、音と義と例證とを註したもので、發字便蒙は四聲に別けて出したのを今は一字の下に併看するの便が有るやうにして有る。之によると敦の八音(度官反を出さぬは詩集傳の説と用ひたのか)が最も多く、賁辟厭数の七音之に次ぎ、從隋單填が六音で、この九字以外は五音を越ゆるものは無いやうだ。收むる所六百二十九字。

 康煕字典等韻指示は飯島道寶の撰で明治二十年刊行。字典の第二巻は等韻を收めて迦結等十二圖と通止等二十四圖とに分れるが二十四圖は切韻指掌圖の二十圖の一變化に過きず、十二圖は更に又之を約したもので要するに音韻の轉變に應ずる爲の修正だらう。この書は悉曇などを持出して説明はして有るが、どれ丈の理念を有したかは判斷に苦しむ所だ。


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