#精選名著複刻全集近代文学館『運命』による。
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#國木田 獨歩(1871〜1908)著
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#入力:川口眞女(京都府立大学女子短期大学部、1993年度国語学演習3受講生)
#校正:岡島空山
#仮名遣は原文のママだが、拗音を表す「やゆよわ」促音を表す「つ」は現代仮名
#遣に使う小さな文字を使った。
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#底本のルビは、漢字の後に、()に入れて示した。但しそのルビが、直前の漢字連
#続すべてに懸るものでない場合には、次の様に示した。
#(1)単語の切れ目のある場合。「,」で切れ目を示す。
# 例  うはべ
# 只 上 邊
#   ↓
# 只,上邊(うはべ)
#(2)単語の切れ目のない場合。ルビのない漢字の数だけ「.」を打つ。
# 例  ぢやう
# 不 定
#   ↓
# 不定(.ぢやう)
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#GNU準拠ということで御願いします。
# 岡島空山 NLF06372@pcvan.or.jp
# MGh03027@niftyserve.or.jp
# okajima@edu00.f-edu.fukui-u.ac.jp


巡査

 この頃(ごろ)ふとした事(こと)から自分(じぶん)は一人(ひとり)の巡査(じゅんさ)、山田銑太郎(やまだせんたらう)というのに懇意(ちかづき)になった。年齡(とし)は三十四五でもあろうか、骨格(こっかく)の逞(たくま)しい、背(せ)の高(たか)い堂々(どう/\)たる偉丈夫(ゐぢゃうぶ)である。
 自分(じぶん)は人相(にんさう)のことはよく知らぬが、圓(まる)い顏(かほ)の、口髭(くちひげ)頬髯(ほうひげ)ともに眞黒(まっくろ)で、鼻(はな)も眼(め)も大(おほ)きな、見(み)た處(ところ)は柔和(にゅうわ)の相貌(さうばう)とは言(い)へないがさて實際(じっさい)はなか/\好人物(かうじんぶつ)なのが世間(せけん)には隨分(すゐぶん)ある、この巡査(じゅんさ)も其(その)種類(しゅるゐ)に屬(ぞく)するらしい。
 若(も)し其(その)人(ひと)が沈默(むっゝり)であったなら斯(か)ういふのは餘(あま)り受(うけ)の可(い)い人相(にんさう)ではない。處(ところ)が能(よ)く語(かた)り能(よ)く笑(わら)ふ、笑(わら)ふ時(とき)は其(その)眼元(めもと)に一種(.しゅ)の愛嬌(あいけう)がこぼれる、語(かた)る時(とき)は相手(あいて)の迷惑(めいわく)もなにも無頓着(むとんぢゃく)で、のべつに行(や)る。そこで思(おも)ひもつかぬ比喩(たとへ)など用(もち)ゐて、それを得意(とうき)で二度(.ど)も三度(.ど)も繰返(くりかへ)す、如何(どう)だらう、斯(か)ういう人物(じんぶつ)は他(ひと)の憎惡(にくしみ)を受(う)けるだろうか。
 或日(あるひ)、明日(あす)は非番(ひばん)で宅(たく)に居(ゐ)ますから是非(ぜひ)入來(いらっ)しゃいと頻(しき)りに促(うな)がされたから、午後(ごゞ)一時(.じ)ごろ自分(じぶん)は山田巡査(やまだじゅんさ)を訪(たづ)ねて見(み)た。
『ね、是非(ぜひ)入來(いらっ)しゃい、何(な)にもないが寒(さむ)いから……これをやつて饒舌(しゃべ)りましょう。』
とグイ飮(のみ)の手眞似(てつき)をして見(み)せた。
 指物屋(さしものや)の二階(.かい)の一室(.ま)が先生(せんせい)の住居(すまゐ)である。仕事場(しごとば)の横(よこ)から急(きふ)な狹(せま)い梯子段(はしごだん)を上(あが)ると、直(す)ぐ當面(つきあたり)に炭俵(すみだはら)が置(お)いてある、靴(くつ)が蟇(がま)のやうに一隅(すみっこ)に眠(ねむ)って居(ゐ)る、太(ふと)い棒(ぼう)が其傍(そのわき)に突立(つきた)って番(ばん)をして居(ゐ)る、多分(たぶん)ステッキといふのだらう。別(ほか)の一室(ひとま)には書生(しょせい)でも居(ゐ)るか、微吟(びぎん)の聲(こゑ)が洩(も)れて居(ゐ)たが其(その)前(まへ)の薄暗(うすぐら)い板間(いたのま)を通(とほ)ると突當(つきあたり)の部屋(へや)が山田巡査(やまだじゅんさ)の宅(たく)。
『やッ、よく入來(いらっ)しゃいました。サア此方(こちら)へ、サアー』と言(い)ひながら急(きふ)に起(た)って押入(おしいれ)から座蒲團(ざぶとん)を一枚(.まい)、長火鉢(ながひばち)の向(むかふ)へ投出(なげだ)した。
 先生(せんせい)一杯(.ぱい)やりはじめて、やゝ醉(ゑひ)の廻(まわ)って居(ゐ)る時分(じぶん)であった。
『獨身者(ひとりもの)の生活(くらし)は斯(こ)んなものでしてナ。御覽(ごらん)の通(とほ)りで狹(せま)いも狹(せま)いし、世帶道具(しょたいだうぐ)一切(.さい)がこの一室(ひとま)にあるのだから、まア何(なん)のことはない豚小屋(ぶたごや)ですな、豚小屋(ぶたごや)で……』と其處(そこ)らをきょろきょろ、何(なに)か探(さが)して居(ゐ)るやうであったが、急(きふ)に前(まへ)の杯(さかづき)をグイと呑干(のみほし)して
『まア一ツ!御飯(ごはん)が濟(す)んだのなら酒(さけ)だけ一ツ、この酒(さけ)は決(けっ)して頭(あたま)へ來(く)るやうな酒(さけ)じゃア御座(ござ)いませんから。』
 自分(じぶん)は受(う)けてちゃぶ臺(だい)に置(お)いた。成程(なるほど)狹(せま)いが、狹(せま)いなりに一室(.ま)がきちんと整理(かだづ)いて居(ゐ)る。作出(つくりだ)しの押入(おしいれ)が一間(.けん)、室内(しつない)にはみ出(だ)して其(その)唐紙(からかみ)は補修(はぎ)だらけ、壁(かべ)はきたなく落書(いたづらがき)がしてある、疊(たゝみ)は黒(くろ)い、障子(しゃうじ)は煤(すゝ)けて居(ゐ)る、成程(なるほど)むさくるしい部屋(へや)であるが、これ又(また)何處(どこ)となく掃事(さうじ)が屆(とゞ)いてサッパリして居(ゐ)る。どうして、豚小屋(ぶたごや)どころか!
 窓(まど)の下(した)に机(つくゑ)、机(つくゑ)の右(みぎ)に書籍箱(ほんばこ)、横(よこ)に長火鉢(ながひばち)、火鉢(ひばち)にならんでちゃぶ臺(だい)、右手(みぎて)の壁(かべ)に沿(そ)ふて箪笥(たんす)鼠(みずみ)入らず、其(その)上(うへ)に違棚(ちがひだな)、總(すべ)てが古(ふる)いが、總(すべ)てが清潔(せいけつ)である、煙草箱(たばこばこ)、菓子器(くゎしき)茶入(ちゃいれ)、蓋物(ふたもの)、帙入(ちついれ)の書箱(しょせき)、總(すべ)てが其(その)處(ところ)を得(え)て、行儀(ぎゃうぎ)よく並(なん)んで居(ゐ)る書籍箱(ほんばこ)の上(うへ)には盆栽(ぼんさい)の小鉢(こばち)が三ツ四ツ置(お)いてある。
 自分(じぶん)は杯(さかづき)を返(かへ)しながら
『流石(さすが)警官(けいくゎん)だけに貴樣(あなた)は大變(たいへん)清潔(きれい)ずきですね』
『ハヽヽヽヽ、イヤ清潔(きれい)すぎていふ程(ほど)のこともないが、これが私(わたくし)の性分(しゃうぶん)でしてナ、どうも惡(わる)い性分(しゃうぶん)でしてナ、他人(ひと)のすることは氣(き)に入(い)らんていふんだから困(こま)って了(しま)います、殊(こと)に食器(しょくき)ですナア、茶碗(ちゃわん)でもなんでも他人(ひと)に爲(し)て貰(もら)うと如何(どう)も心持(こゝろもち)が惡(わる)い、それで悉皆(みんな)自分(じぶん)でやりますがね……。』
『ぢゃアいよ/\獨身者(ひとりもの)誂向(あつらひむき)といふ性分(しゃうぶん)ですね、ハヽヽヽヽ』
『全(まった)くさうです、だから國(くに)に女房(にょうぼう)もありますが决(けっ)して呼(よ)びません、一人(ひとり)で不自由(ふじゆう)を感(かん)じないんですから。』
『夫人(ふじん)がお有(あ)りンなるんですか、さうですか、それじゃア何(な)にも獨身者(ひとりもの)の詫住居(わびずまひ)を好(この)んでするにゃア當(あた)らないでしょう、そしてお兒(こ)さんは?』
『小兒(こども)もあります、五才(いつゝ)になる男(をとこ)の兒(こ)が一人(ひとり)あります、がです、矢張(やはり)一人(ひとり)のはうが氣樂(きらく)ですナア』と手酌(てじゃく)で飮(の)みながら『尤(もっと)も私(わたし)の妻(さい)を呼(よ)ばないのは他(ほか)にも理由(りゆう)がありますがね。』
『どんな理由(りゆう)がありますか知(し)りませんが、兔(と)も角(かく)妻子(さいし)があれば一家團欒(.かだんらん)の樂(たのしみ)を享(う)けないのは嘘(うそ)でせう? 貴樣(あなた)さびしく思(おも)ひませんか。』
『イヤ全(まった)く孤獨(さびし)く感(かん)じないこともないですがナ、ナニ私(わたし)も時々(とき%\)歸(かへ)るし妻(さい)もちょい/\やって來(き)ますよ、汽車(きしゃ)で日徃復(ひがへり)が出來(でき)ますからナニ便利(べんり)な世(よ)の中(なか)ですよ、御心配(ごしんぱい)には及(およ)びません夜具(やぐ)も二人前(ふたりまへ)備(そな)へてあります、ハッハッヽヽヽヽ』
『ハヽヽヽ先(ま)づさう諦(あきら)めて居(を)れば仔細(しさい)はありませんナ』
『サア何(なに)か食(く)って下(くだ)さい、ろくなものは御座(ござ)いませんがね、どうです豆(まめ)は、蜜柑(みかん)でも。』
 ちゃぷ臺(だい)には煮豆(にまめ)、數子(かずのこ)、蜜柑(みかん)、酢魚章(すだこ)といふ風(ふう)なものが雜然(ざらり)と並(なら)べてある。柱(はしら)にかけた花插(はないけ)には印(しるし)ばかりの松(やつ)ヶ枝(ゑ)、冬(ふゆ)の日脚(ひあし)は傾(かたむ)いて西(にし)の窓(まど)をまともに射(さ)し、主人(あるじ)の顏(かほ)は赤(あか)く眼(め)はとろりとして矢張(やはり)正月(しゃうぐゎつ)は正月(しゃうぐゎつ)らしい。
 主人(あるじ)は專賣特許(せんばいとくきょ)の廚爐(こんろ)にかけた鐵瓶(てつびん)から徳利(とくり)を出(だ)しながら
『全(まった)く一人(ひとり)のはうが氣樂(きらく)ですよ。サア熱(あつ)いところを一ツ、それに私(わたし)は敢(あ)えて好(この)んで妻(つま)を持(も)ったわけぢゃアないんですからナ。ふとした處(ところ)から養子(ようし)に貰(もら)はれたので、もしそれで無(な)かったら今(いま)でも獨身(ひとりみ)でサア、第一(だい.)巡査(じゅんさ)をして妻子(さいし)を養(やしな)って樂(たのしみ)をしようなんテ、ちっと出來(でき)にくい藝(げい)ですナ、蛇(へび)の綱渡(つなわたり)よりか困難(むつかし)いことです、エ、貴樣(あなた)は蛇(へび)の綱渡(つなわたり)を見(み)たことありますか、私(わたし)は一ツ見(み)ました。姓名(な)は言(い)はれませんが、私(わたし)どもの仲間(なかま)に妻(つま)と小供(こども)の三人(.にん)と母親(はゝおや)とを養(やしな)って、それで小(こ)ザッパリと暮(くら)して居(を)るものがある、感心(かんしん)なものでしょう、尤(もっと)も酒(さけ)は呑(のみ)ません、煙草(たばこ)もやりません。こんな男(をとこ)は例外(れいぐゎい)です。私(わたし)どもには到底(たうてい)出來(でき)ない藝(げい)です。』
『然(しか)し田舍(ゐなか)に細君(さいくん)を置(お)いて處(ところ)で費(いる)ものは費(い)るから同(おな)じ事(こと)でせう、文句(もんく)を言(い)はないで一所(.しょ)におんなさい、細君(さいくん)が可愛(かあい)さうだ。』
『ハヽヽヽヽッ貴樣(あなた)は大(おほい)に細君孝行(さいくんかう/\)だ、イヤ私(わたし)だってね、まんざら女房(にょうぼう)を可愛(かあい)がらないわけはないんだが、田舍(ゐなか)には多少(たせう)の資産(しさん)があるんです、それに未(ま)だ父母(ふぼ)も居(ゐ)ますから却(かへて)て妻(さい)は先方(あちら)に居(ゐ)たはうが相方(さうはう)の便利(べんり)なんです、まア私(わたし)なんざア全(まった)く道樂(だうらく)で斯(こ)んな職(しょく)をやって居(を)るんでサア、イヤになれば直(す)ぐ止(や)めて田舍(ゐなか)へ引込(ひっこ)んだって食(く)うに困(こま)るやうなことはないんですからナア』
『氣樂(きらく)ですねエ。』
『全(まった)く氣樂(きらく)です!だから酒(さけ)は石崎(いしざき)から斯(か)うやって樽(たる)で取(と)ってグイ/\飮(の)むのですが、澤之鶴(さはのつる)も可(い)いが私(わたし)どもにゃア少(すこし)し甘味(あまみ)が勝(か)って居(ゐ)るやうで却(かへっ)てキ印(じるし)の方(はう)が口(くち)に合(あ)ひます、どうも料理屋(れうりや)の混成酒(こんせいしゅ)だけは閉口(へいこう)しますナア。』
 と先生(せんせい)頻(しき)りに酒(さけ)の品評(ひんぴゃう)をはじめ、混成酒(こんせいしゅ)の攻撃(こうげき)をやって居(ゐ)たが醉(ゑひ)は益々(ます/\)發(はっ)して來(き)たらしい
『どうです、一ツ隱藝(かくしげい)をお出(だ)しなさい、エ、僕(ぼく)ですか、僕(ぼく)は全(まった)く無藝(むげい)、たゞ飮(の)めば則(すなは)ち眠(ねむ)る、直(す)ぐ寢(ね)て了(しま)います!』
 成程(なるほど)さも眠(ね)むさうな、とろんこな眼(め)をして居(ゐ)る、
『僕(ぼく)でも貴樣方(あなたがた)のやうにナア、文章(ぶんしゃう)が書(か)けるなら隨分(ずゐぶん)書(か)いて見(み)たい事(こと)があるんだが、だめだ!』
 と暫(しばらく)眼(め)を閉(と)ぢて默(だま)って居(ゐ)たが、急(きふ)ににっこり笑(わら)って、
『ウンさうだ!、一ツ見(み)て貰(もら)うものがある。』
 と机(つくゑ)の抽出(ひきだし)から草稿(さうかう)らしい者(もの)を五六枚(..まい)出(だ)して、其(その)一枚(.まい)を自分(じぶん)の前(まへ)へ突出(つきだ)した。見(み)ると漢文(かんぶん)で
『題警察法(けいさつはうにだいす)』といふ一編(.ぺん)である。
『夫(そ)れ警察(けいさつ)の法(はう)たる事(こと)無(な)きを以(もっ)て至(いた)れりと爲(な)す』
 と一種(.しゅ)の口調(くてう)で體躯(からだ)をゆりながら漢文(かんぶん)を朗讀(らうとく)しだした。
『事(こと)を治(をさ)むる之(これ)に次(つ)ぐ、エ、どうです。』
『贊成々々(さんせい/\)。』
『功(こう)無(な)きを以(もっ)て盡(つく)すと爲(な)す、功(こう)を立(た)つる之(これ)に次(つ)ぐ、故(ゆゑ)に、どうです、故(ゆゑ)に日夜(にちや)奔走(ほんそう)して而(しか)して事(こと)を治(をさ)め、千辛萬苦(.しんばんく)して而(しか)して功(こう)を立(た)つる者(もの)は上(じゃう)の上(じゃう)なる者(もの)に非(あら)ざる也(なり)。』
『だから臥(ね)て居(ゐ)るてンですか。』
『ハヽヽヽヽッまア先(さき)を聞(き)いて下(くだ)さい。最上(さいじゃう)の法(はう)は事(こと)を治(をさ)むるに非(あら)ず、功(こう)を立(た)つるに非(あら)ず、常(つね)に無形(むけい)に見(み)、無形(むけい)に聽(き)き、以(もっ)て其(その)機先(きせん)を制(せい)す、故(ゆゑ)に事有(ことあ)るなくして而(しか)して自(おのづか)ら治(をさま)り、功(こう)爲(な)す無(な)くして而(しか)して自(おのづか)ら成(な)る、是(こ)れ所謂(いはゆ)る爲(な)し易(やす)きに爲(な)し而(しか)して治(をさ)め易(やす)きに治(をさ)むる者也(ものなり)、どうです名論(めいろん)でしょう!是(こ)の故(ゆゑ)に善(よ)く警察(けいさつ)の道(みち)を盡(つく)す者(もの)は功名(こうみゃう)無(な)く、治跡(ちせき)無(な)く、神機妙道(しんきめうだう)只(た)だ其人(そのひと)に存(そん)す焉(えん)、愚者(ぐしゃ)解(かい)す可(べ)からざる也(なり)、夫子(ふうし)曰(いは)く人(ひと)飮食(いんしょく)せざる莫(な)き也(なり)、能(よ)く味(あぢはひ)を知(し)る鮮(すくな)き也(なり)!文章(ぶんしゃう)は拙(まづ)いが主意(しゅい)はどうです。』
『文章(ぶんしゃう)も面白(おもろ)ろい、主意(しゅい)は大贊成(だいさんせい)です!
『神機妙道(しんきめうだう)只(た)だ其人(そのひと)に存(そん)す、愚者(ぐしゃ)解(かい)すべからざるなりか、ハヽヽヽヽッ』と頗(するこ)る得意(とくい)である。
『先(ま)づ酒(さけ)でも飮(の)んで十分(.ぶん)精神(せいしん)を養(やしな)って其(その)機先(きせん)を制(せい)すと行(ゆ)くのです、エ、どうです熱(あつ)い處(とこ)を。』
『もう僕(ぼく)は澤山(たくさん)!何(なに)か外(ほか)に面白(おもしろ)いものはありませんか、詩(し)のやうな者(もの)は。』
『詩(し)ですか、あります、有(あ)りますもすさまじいが幼學便覽(えうがくべんらん)出來(でき)といふのが、二三ダースあります』
 と罫紙(けいし)に清書(せいしょ)したのを四五枚(..まい)出(だ)して見(み)せたが、
『イヤ讀(よ)まれちゃア困(こま)ります、一ツ二ツ僕(ぼく)が吟(きん)じます、さてと、どれもまずいなア、春夜偶成(しゅんやぐうせい)かナ、朦朧(もうろう)烟月(えんげつ)の下(もと)、一醉(いっすゐ)花(はな)に對(たい)して眠(ねむ)る、風(かぜ)冷(ひや)やかに夢(ゆめ)驚(おどろ)き覺(さむ)れば、飛紅(ひこう)枕邊(ちんぺん)を埋(うづ)むはどうです、エ、これは下田歌子(しもだうたこ)さんの歌(うた)に何(なん)とかいふのが有(あ)りましたねエ、そら何(なん)と言(い)ひましたなァ、今(いま)ちょっと忘(わす)れましたが、それを飜譯(ほんやく)したのですがまるで比較(ひかく)になりませんなア、あの婆(ばあ)さん、と言(い)っちゃア失禮(しつれい)だが全(まった)く歌(うた)はうまいもんですなア』と左右(さゆう)に身躯(からだ)を搖動(ゆすり)ながら今一度(いま.ど)春夜偶成(しゅんやぐうせい)を繰返(くりかへ)した、『それから此處(こゝ)に一ツちょっと異(をつ)なのが有(あ)ります、權門所見(けんもんしょけん)と題(だい)して、權門(けんもん)昏夜(こんや)哀(あい)を乞(こ)ふ頻(しき)りなり、朝(あした)に見(み)る揚々(よう/\)として意氣(いき)新(あらた)なるを、妻妾(さいせふ)は知(し)らず人(ひと)の罵倒(ばたう)するを、醜郎(しうらう)滿面(まんめん)髯塵(せんじん)を帶(お)ぶはどうです、エ。』
『痛快(つうくゎい)ですなア。』
『これは或大臣(あるだいじん)の警衞(けいゑい)をして居(ゐ)た時(とき)の作(さく)です、醜郎(しうらう)の滿面(まんめん)、髯塵(せんじん)を帶(お)ぶ――かね。』
『も一ツ。』
『さうですなア』と草稿(さうかう)を繰返(くりかへ)して居(ゐ)たが、突如(とつじょ)として『故山(こざん)の好景(こうけい)久(ひさ)しく相違(あいたが)う、斗米(とべい)官遊(くゎんいう)未(いま)だ非(ひ)を悟(さと)らず、杜宇(とう)呼(よ)び醒(さま)す名利(めいり)の夢(ゆめ)、聲々(せい/\)、復(ま)た不如歸(ふにょき)を喚(よ)ぶ――。ハッハッヽヽヽヽ到々(たう%\)本音(ほんね)を吐(は)いちゃッた!』
『ハッハッヽヽヽヽ到々(たう%\)本音(ほんね)が出(で)ましたね』
『ハッハヽヽヽ』と笑(わら)ったが山田巡査(やまだじゅんさ)は眼(め)を閉(と)じたまゝ何(なに)を考(かんが)へるともなくうつらうつらとして居(ゐ)る樣子(やうす)であった、半分(はんぶん)居眠(ゐねむ)って居(ゐ)るのである。突然(とつぜん)、
『イヤ矢張(やはり)この方(はう)が氣樂(きらく)だ!』と叫(さ)けんで、眼(め)を見開(みひら)き自分(じぶん)を見(み)て莞爾(にっこり)笑(わら)ったが、直(す)ぐ又(また)居眠(ゐねむり)を始(はじ)めた。
 自分(じぶん)は暫時(しばら)く凝然(ぢっと)として居(ゐ)たが起(おこ)すのも氣(き)の毒(どく)とそっと起(た)って室(へや)を出(で)た。
 指物屋(さしものや)の店(みせ)から四五十間(...けん)下(くだ)ると四辻(.つじ)がある、自分(じぶん)は此處(こゝ)に來(き)た時(こと)、後(あと)を振(ふ)り向(む)くと指物屋(さしものや)の二階(.かい)の窓(まど)から山田巡査(やまだじゅんさ)の髭髯(ひげ)だらけの顏(かほ)が出(で)て居(ゐ)た。頻(しき)りと點頭(おぢぎ)をして居(ゐ)た。
 自分(じぶん)は全然(すっかり)この巡査(じゅんさ)が氣(き)に入(い)って了(しま)った。

(了)