國語略史

藤岡勝二

國語系統説總論

自國語の崇敬

 古來何れの國に於ても、われの國語を優秀完全のものとなし、外國語を下劣、不具 のものとなす習慣あらざるはなし。我國亦此例に洩れず、國學者の多くは我國語 を以て神來の靈語となして尊敬し、萬國に比類なしと稱揚し、師弟相傳へて今日に 至れるあり。元和偃武の後漢學大に勃興し、儒道甚だ盛んなるに及んで、一方我國 本來の典籍を研究すべき必要に想到し、努めて國學なるものを鼓吹せんとせる當 時に在つては、國語を崇敬の封象となすまでに至れる、蓋し怪しむに足らず。然れ ども國語を愛育する所以と、之を研究する所以とを混同せる者あるは、遺憾なりと 云ふべし。

外人の日本國語論

 我國に於て國語と外國語との關係を科學的に研究する業は、前述の如き傳承の 謬見に遮られて、更に著手せられたることなかりしが、明治時代に入りて、西洋文運 の波及と共に、漸く其發程を促せり。明治十九年九月帝國大學に博言學科を置き たるが如きは、ことに與つて力あり。我國人の業は斯く遅れたりと雖、外國人は夙 にこゝに著眼し、かのクラップロトー(一千八百二十年、文政三年に)及びポラー(一千八百五十七年、安政四年に)の如きは、日本語のウラル,アルタイ語族に屬する事を説き、 後者の如きは特に北部サモエード語と類似する所多き事を稍具躰的に説明せり。 爾來此説を祖述する者更に多きを加へ、ガベレンツの日本語、満洲語間に互に類似 の點あるを説ける、又アストンの日韓兩國語の比較研究を公にせる、近くは明治三 十九年二月露人ボヅドネエフが華族會館に於て蒙古語と日本語との間に存する 親族的關係を論じて、兩國語の後置詞使用法が全く一致せることを説ける、皆此系 統論に光明を與へたるものなり。さればローウェルが、A compirison of the Japanese and Burmese languages " (1891) に於て日本語と緬甸語との關係を論じたるが如き、近時 印度日耳曼語と日本語との系統的關係を説くものを生したるが如き、異説なきに あらずと雖、今日にありてはウラル・アルタイ語系統最も勢力を得つゝあるに似た り。然しながら一方に於ては尚ほ之を疑ふ者も亦少からず。これ此系統論が未 だ充分確實なる論據を提供せずして、他説を抱持するものが論難を敢てする程の 虚隙あればなり。かの印度日耳曼語族が同一系統に屬することを立論する迄に、 先輩諸學者が大に勉めたるが如き、精細の研究が未だ此語系説の上に施されざれ ばなり。之を要するに、國語系統問題の解決は尚ほ多種の材料と精細なる調査と に待つべき所多しと謂ふべし。

第一節 最古より平安朝末葉に至る

國語系統問題

最古の國語は如何なる状態にありしかを説かんとせば、勢ひ系統問題に觸れざ るを得ず、而も此問題は遺憾ながら未決の状態にあるを以て、主として我日本語と 其近隣國語たる韓語、支那語、梵語、アイヌ語とは根本的に親族的關係を有したりし や否やに就いて、諸説を擧げて聊か之を論じ、次に日本語が國語として獨立の地位 を保ちてより、此期間に於て如何なる程度まで外國語の影響を蒙りたるか、又其内 部に於て自ら如何なる變遷、發達をなし來りたるか等に論及する所あらんとす。 而して此時代に當りて、我國語に最も著しき影響を與へたるものは、支那語なるこ と論を待たず。即ち彼と交通の結果は漢字、漢書の輸入となり、漢字より脱化した る片平兩假名の製作となり、漢語は滔々として國語の中に侵入して、恰も其底止す る所を知らざる如くなりき。此時代を以て支那文明吸収時代と稱するも過言に あらざるべし。

其一 韓語と國語との關係

韓語との關係

 日本語と韓語との間には根本的に類似の點あるを立證確信する學者は、其數未 だ多からずと雖、この學説は今や勢力あるものとなれり。ことに一千八百七十九 年(明治十二年)アストンが英國の亞細亞協會雑誌に載せたる『日韓語の比較研究』 と云ふ論文は、兩國語比較研究の先鞭者として、吾人の最も尊敬を拂ふものたり。 近來我國の諸學者が漸次此に注意するに至れるも、亦陰に此影響を被れるものに して、啻に語學自身の方面よりのみならず、或は法制に、或は歴史に、諸種の方面より 種々の學者によりて日韓兩國語の類似を唱道せられつゝあるは、實に盛なりと云 ふべし。

同根の眞僞

 然れども、吾人は両國語の音韻組織を見、單語を眺め、語形を察して争ふべからざ る同根關係の存せるを認ひること、夫の印度日耳曼語族間に認むるが如くなるこ と能はず。是れ兩國語の同系統に出づるを疑ふものある所以なり。况んや之を 同系統なりとしても、もと/\同一なるものが、何時如何なる經路をとつて、何故に 斯く相離隔したるかに就いては、主唱者と雖亦充分明快なる答を與ふるに苦しむ といふに至つては、今尚ほ疑の下に横はるの然るべきを思はしむ。之と史乗に索 むるに、雄略の七年(西暦四百六十三年)には譯官を置きたる事見え、白鳳九年(六百八 十年)に新羅の使者來朝の際言を學ぶもの三人從うて至るとあり、天平寳字五年(七 百六十一年)には美濃、武蔵に於ける新羅の歸化人漸次増加して村落を成すに至り しかば、此二國の少年二十人に命じて新羅の語を學ばしめたりとあり、又弘仁四年 (八百十三年)には對馬に新羅の語學生を置きたる事あり。是を以て之を觀れば、此 時代已に兩國語は容易に類似を知り難き程、全く分離して彼我不通なりしものに して、吾人の歴史時代以前に溯つて考察せざる限りば、同一源なりしや否やの判定 を得難きなり。而もこゝに至つては典據の信ずべきものなきが爲、自ら推測に走 るを免れず、從つて信疑の迷を招くに至る。この説を持する研究者が困難と感ず る實に故あるなり。

彼我の交通

 國語としての關係は此の如くなりと雖、兩國民が相関に交通せしことは、最古已 に存せしこと疑ひなく、素盞嗚尊が韓國に往來し給ひし古傳に徴するも亦明かな る事實なり。書紀崇神の十一年(紀元前八十七年)には異俗多歸と児え、同十二年(紀 元前八十六年)には異俗重v譯來、海外既歸化(黒川眞頼氏は此異俗を以て韓人の事な るべしと言はれたり)と見え、同六十五年(紀元前三十三年)には任那國遣2蘇那曷叱知1 令2朝貢1とあるが如き、凡て古代兩國民間に交通の存せしを知るに足る。其後の史 上にも亦絶えず交通のありしことを記せり。是を以て觀れば言語も亦其結果と して彼我相交渉する所ありしを推知するに難からず。故にもと/\兩國々語が 同一なりしと云ふを得ざるにしても、亦其後甚だ親密なるものありきと云ふを得 べし。

神代文字

 次に文字上の關係に就いて云はんか、漢字の渡來以前、我國に固有の文字ありし や否や、所謂神代文字なるものゝ存否如何は、古くより幾度となく我國學者の間に 討論せられなる問題なり。而して此争論は韓國の文字に相關する所甚だ多し。

阿比留文字

 抑所謂神代文字と稱するものゝ書體は頗る多種にして、學者によりて其擧ぐる 、所各異なり。然もこれを據として存在の如何を説明せんとせり。阿比留文字(日 文傳に『日文四十七音』と稱し、神代字辨に『甲本眞字體』と稱したるもの)は一見韓 國の諺文と同形なるを以て、神代文字存在論者の一部は、韓國の諺文は我神代文字 に傚ひて製作したるものなりと稱し、非存在論者の多くは、此所謂神代文字は我國 人が後世の諺文にならひて捏造したるものなりと云へり。これ全く反對の論結 なり。又肥人の書と稱するものあり、之を以て日本固有の文字なりとなすあり。 或は諺文と關係を有すとなすものあり。而も説者の云ふ所、兩ながら不確實にし て、未だ充分なる自信の存するを認めず。其他薩人の書と稱するものあれども、今 は其字形を確に認むること能はざれば、これを以て神代文字を講ずることを得ず。

神代に文字なし

 之を要するに、阿比留文字等を以て或は我國固有の文字なりとし、或は韓國の文 字に用りて作りたるものとせるなど、其由來に就いて諸説紛々たりと雖、今日の學 術的見地よりしては、少くとも我が所謂神代文字の或者は、諺文の影響によりて發 生したるものなりと云ふべし。但しこれ決して神代のものにあらざるなり。固 より我國に或るものが存在したりきと説くものは、多く足利時代以後の神道家及 び國學者の一部にして、何れも我國上代に文字なしと談じては、一種の耻辱なるが 如く考へたるより、種々詮索の末、後世の推測を以て神代文字なるものを具體的に 羅列したるに過ぎざるが如くなるを以て、幾多の所謂神代文字は普く萬人の使用 するものとして、十分に文字本來の意義を發揮し得たりと思ふことを得ず。只僅 に或地方一部のものが、或時使用したるもの、或はあるべしと云はるゝのみ。地方 的のものゝ一として、後世諺文に傚つて作りたるものありと云ふべきのみ。され ば吾人は神代の名を冠らしめて文字を説くことを否定し、併せて國字の資格を具 したるものゝ此等の中にあらざるを信ず。

其二 支那語と國語との關係

支那語との關係

 支那語と日本語とは其音韻組織、語形式、語根、措辭法等、凡ての點に於て全然趣を 異にせるば言ふ迄もなく、兩國語の親族的關係は遂に之を論ずるの無益なるを知 るべし。然れども日、韓、滿、支等の言語はもと/\同一の語原に屬したりしものな りしが、後斯の如く相離れたるものなりとなす者ありて、日本、韓國、滿洲等に於ける 遊牧の民はその本來の措辭法を改めたるに反し、夙に農業時代に入りたる支那人 は、獨り原形を保持する事を得たりしものにして、此等の國語間に間〃語根の共通な るものを發見する事あるは、即ち之を證するに足ると稱す。エドキンスは實に此 説の鼻祖にして、"On the Japanese Vocabulary" に於て之を明言せり。(その所謂 語根の共通なるものとはpak(剥)とやpaguhagu(剥ぐ)の如く、名詞に在りてはma(馬)uma, mma(馬)の如をといふ、其例甚だ多し。)然れども此等の中には後世支那文物の輸入 と共に國語中に侵入せるものも多かるべく、從ってこれ等少数の單語の比較より して、直に兩國語の系統に論及せんとするば、頗る危険なるものなれば、吾人はかゝ る論法によれる兩國語同系説を採らざるなり。

漢字の傳来

 今少しく漢字の傳來及び漢字音論(漢音、呉音、古音)に就いて説く所あらざるべか らず、普通の説に從へば、漢字が我國に輸入せられたるは、應神天皇第十五年(二百十 五年)百済の王子阿直岐入朝し、翌年王仁渡來して論語、千字文を献じたるに始まる といへり。然れども一方我國と支那との交通を攷ふるに、應神の朝より以前已に これありたるが如く、韓國との關係は古く素戔嗚尊の事蹟によつて知らるゝが如 くにして、垂仁の十年(紀元前二十年)にも我國人の彼地に渡りたることも見ゆれば、 史籍に現はれたるもの以外、彼我の往來は古昔絶えざりしが如し。されば伴信友 の讀史竊述に云へるが如く、孝靈(紀元前二百九十年−二百十五年)の朝我國に歸化 したる新羅の王子天日槍が支那文字を輸入したりと見ることは妥當ならずとす とも、恐らくは崇神の朝已に漢字は傅來したるなるべし。之を要するに、文字の傳 來と經書の傳來とは、必ずしも時を同じうせざるべからざる理由は毫も存せざる を以て、正史に載する處なしと雖、應神以前既に之を傳へたりとなすの寧ろ穏當な るを信ずるなり。

漢字音問題

 此の如く文字の傳來は已にこれありと雖、讀書音として我國人が正式に漢字音 を學習せしは、阿直岐及び王仁の渡來に始まると言ふを得べし。然らば當時用ゐ たる音は漢呉何れの音なりしか、古來學説區々にして一ならず。されど應神以後 繼體の七年(五百十三年)に、百済より五經博士段揚爾を送り、同十年(五百十六年)五經 博士漢高安茂を貢して段揚爾に代はらしむとあるより見れば、當時の漢字音は韓 國化せられたる字音なりしが如し。而して韓國當時の事情を推察するに、漢字の 高勾麗、百濟等に入りしは、東晋簡文帝及び孝武の朝に南方支那より佛教の傳來し たると時と同じうすれば、我國に傳へたる字音は、所謂呉音の韓化したるものにあ らざりしか。白石の如きは『只文献の徴とするに足れるを取つて、漢音の傳はれる は佛像經論の來りし日に始れりとするには如くべからず』とて、所謂漢音なりとす れども、宣長は漢音の傳來を欽明朝(五百四十年−五百七十一年)の頃なるべしとい ひ、和訓栞、衝口發等は推古の御代(五百九十三年−六百二十八年)遣唐使派遣以後の 事なるべしといひ、三音正譌には元明帝の時(七百八年−十四年)に至る迄は只呉音 のみなりきといひ、又延暦以前漢音なしと言ひ、其他多くの學者の説は年代上の差 違こそあれ、一般に呉音は漢音渡來以前に行はれたるものなることを認むるに於 て一致せるが如し。

異音の混用

 呉音先づ傳來したりしと雖、爾後漢字の音は全然一様に讀まれたるものにあら ずして、傳授者の時代、生國により、受業者の音感覺によりて、種々の音は自ら行はれ たるものゝ如し。されば古事記(七百十二年)は概ね呉音を用ゐたれど、時として異 を見る。或學者が古書中漢呉音以外に一種特別なる古音又は高麗音など稱すべ きものゝ存したるを云ふ、蓋しこれがためなり(漢魏時代の北方古音を傳へたるも のなりとも云ふ。)

漢呉音

 然れども其最も行はれたるは尚ほ漢呉兩音なり。而して延暦の頃よりはこと に漢音に重きを置きたり。これ即ち支那との交通益〃頻繁となり、文物の輸入年を 追うて盛なりし結果として、前數朝以來支那人を師として學習せる當代の言語發 音を以て時代に相應せるものと思惟し給ひし桓武帝の明見に由るものなり。、然 しその所謂漢音は呉音に對しての稱なると同時に、亦宣長の説の如く(漢字三音考) 『漢國の音』即ち支那當代の音なりとせざるべからざるを以て、漢音とは決して一 地方、一時代の一定音と見難さが如く、呉音(又一に對馬音と稱せるあり)といふも、世 間通常傳ふる如く、支那南方江左の音なりと簡單に説き去るべからざるが如し。 只一時如上の努力ありたるに拘はらず、所謂呉音は我國語の内に深く侵入したる を見れば、甚だ古くより其勢の衰へざりしを知るに足る。

三内音

 當時我國に於て漢字の音を寫したる跡を見るに、其漢音たると呉音たるとに論 なく、著しく支那の原音を變化したるを知る、而して其特に注意すべきは、所謂三内 音の使用法なり。此用法は初め之を明かに區別したるものゝ如く、和名抄、萬葉集 其他の諸書に於ては概ね其例外を認むる事なし。漢語に起源せるものを我國人 が讀むに當りても、此三内と明かに區別したるが如し。然れども是等自然的の法 則は平安朝の末葉に至り漸く破壞せられんとする傾向を生じたり。類聚名義抄、 伊路波字類抄等に用ゐたる書方は、之を證すべきものなり。

假名

 次に假名の發達及び倭字の製作に論及すべし。抑〃我國に漢字渡来してより、言 語書寫の方法を學び其字訓によりて國語を寫したると共に、亦字音をとりて國語 の音を寫すの便なるを覺り、漢字を以て標音的のものとして使用するに至れり。 後者は實に韓國に於ける吏道(りと)との起源と全く其動機を同じうするものにし て、古事記、萬葉集以下の古書多くは此方法によりて記載せり。故に之を萬葉假名 とも云ひ、又普通の假名に對して真字(まな)とも稱せらる。斯の如く漢字は我國民 間に益〃廣く使用せられたると同時に、漢字の眞體は日常の用字としては、餘りに煩 雜に失する嫌あるを以て、漸次其漢字の約體(草書)を用ゐ、更に一歩を進めて單に其 片傍等を採りて、簡單なる省略體を案じ、草字を變じて、音字を製作するに至れり。 前者は即ち平假名の起源にして、後者は片假名の起源をなすものなり。

平假名

 平假名は草假名(さうがな)母假名(いろはがな)女假名(をんながな)女手(をんなで)と も稱せられ、漢字の草體より轉成せられたるものなり。古來弘法大師の作なりと 傳ふるものあれども、これ偏に其能筆なりしが爲に起れる傳説に過ぎずして、毫も 確實なる論據を有するものにあらざる事は、既に諸學者の認むる所なり。人々思 ふまゝに用ゐ來れる種々なる漢字の略體が長日月の間に競争を經、遂に適者たる べき字體が最も普遍的に使用せらるゝに至りたるものにして、決して一個人の力 によりて决定せられたるものにあらず。吾人が間〃古書中に珍奇なる書體を發見 する事あるは、實に之を證するものなり。

片假名

 片假名は大和假名とも稱し、漢字の扁傍沓冠等の一部分を採りたるものにして、 五十音圖と共に吉備大臣の作なりと稱せらるれども、一も確證の存する事なし。 平假名の場合の如く、各人によりて異體の假名を用ゐなりしが、いつしか有力なる ものが残りたるものにして、决して一人の手に成りたるものにあらず。されば時 代によりて種々の書體あるは勿論なり。

 漢字の使用盛にして世人の漸く之に習熱するや、我國に於ても漢字に類する文 字を製作する至れり。之を倭字といふ、蓋し支那字書中に存せざる字なり。

其三 梵語と國語との關係

梵語との關係

 梵語は印度日耳曼語族に屬し、『ウラル・アルタイ』語族に屬する我日本語との間 には、根本的に何等の開係を有せざる事は萬人の承認する所なるべし。若し吾人 が國語中に梵語と類似せるを發見することあらば、そは確に後世彼我の交通によ りて生じたる結果と見るを最も穏當とすべきなり。印度人若くは印度に關する 知識を有せる支那人が我國に渡來し、又は歸化したること、併びに我國人の支那に 於て印度人に接したることは、之を知るに難からずと雖、これとても奈良朝に於て 佛教が盛に行はれたるに始まるのみならず、彼我民族の歴史より觀て同語族なる べしとの證據は、未だ更に認むることを得ざればなり。而も上に云へる時代以後 我國に輸入せられたる梵語は多少ありと雖、多くは佛教と共に漢譯經典より傳來 したるものにして、一度漢字にて音譯せられたる上、更に我國固有の讀み方を施し、 或は其語の一部を省略したるを以て、我國語に於ける梵語なるものば甚しく原音 に遠かり居れり。然れども悉曇學の影響は甚だ大なるものありて、五十音圖の製 作の如き、これに與れりと云はざるべからず。これを以て我國固有のものなりと 云ふもの古來少からず。從って音の排列法は諸書相異にして一様ならざるもの ありと雖、今日傳へらるゝ所のものは確に印度『デウァナーガリー』の影響を蒙りた るものと見ざるべからず。即ち悉曇學が示すところの音の配列順に據りたるこ と疑ひなし。然れども其製作は何時なりしか、その時點を確示し難し。或は元慶 (八百七十八年−八十四年)以後なるべしと云ひ、或は片平兩假名の一定したる後な るべしと論ずと雖、弘法大師の『在唐記』の一部として傳ふる書に、大師が彼梵字の 發音法を日本音を以て説明したるものあり。慈覺大師は初め唐の宗睿を師とし、 梵書を習得し、後南天竺の寶月三蔵に就きて悉曇の聲韵を學習し、大に之に熟した る事見え、元慶の頃僧安然が悉曇蔵八卷を作れるを以て見れば、遅くとも八百年代 に於て悉曇學は僧侶の間に甚だ盛となり、從つて此圖の製作を見るに至りしもの と云ふを得んか。

其四 アイヌ語と國語との關係

アイヌ語との關係

 兩語間の根本的關係如何は從來屡〃論ぜられたりと雖、吾人は未だその同族たる を確認すべき時期に達せざるを遺憾とす。バチェラーの如きはチェンバレンの説を 賛して、兩語間には全く根本的關係あらずと説けども、尚ほ一方に於ては語根の一 致を認めたり。されども其引例中甚だ如何はしきもの多く、且つ後世我國語より 彼に傳播したるに相違なしと思はるゝものをも含めるが如し。

兩語の交渉

 アイヌ人種は我大和民族より以前に本島に居住し、其後相ついで我國民との間 に接觸を保ち、種々なる關係を生じたることは史に徴して明かなれば、古く彼我の 間に言語の交渉ありたる事は疑ふべからず。而して我より彼に入れるものは文 化に關する語に多く、彼より我に入りしものは動植物の、一部及び地理上の名目等 に存するもの多し。殊に地理上の名目に就いては、チェンバレンは頗る詳細なる調 査をなし、進んでアイヌ語が日本化せらるゝに當りて、兩語間に行はるゝ音韻變轉 の規則を定め、我内地の地名をも亦アイヌ語にて解釋し、昔時アイヌ人種の南下し て中國及び九州の各地に迄も廣まり居たりし事を證せんとせり。然れどもアイ ヌ語によりて地名を説明すること廣きに失するの嫌あり。此説の拙づるや、三宅 米吉氏は其危險極まるものなることを一々反駁せられたるは、蓋し吾人の多とす る所なり。

其五 國語自身の變遷

國語の内的變遷

 以上我國語は如何なる言語と親族的關係を有すと見られしか、他の言語よりは 如何なる影響を蒙りたるかの一般を述べたり。今は專ら我國古書中に現れ居る 言語現象に重きを置き、一方に於ては國語成立以前の歴史を稽へ、他方に於ては其 後内部に起れる變遷、發達の經路を辿らんと欲す。内的變遷といふ、而もその半面に 於ては絶えず外國語の影響を蒙りつゝあれば、國語の變遷、發達を叙述するに當 り、兩々相分つべからざるは言ふを要せずと雌、今は先に論じ來れる外的要素以外 に、如何に國語自身が變遷したるかを骨子として記述せんと欲す。

 古事記、日本書紀、萬葉集、祝詞、宣命、新撰字鏡、和名類聚抄等の諸書は、此時期に於け る言語の變遷を知るに甚だ重要なる材料を與ふるものなり。只奈良朝以前即ち 上代に於ける言語の状態に至りては、殆ど其事實を窺ふに由なく、單に記紀中に存 せる歌に就きて、其一斑を推測すべきのみ。今此時期に於ける言語現象の大概を 説くに當り、便宜上之を音韻、品詞、文章法の三方面より觀察せんとす。

音韻

 第一、音韻 此時期に於ける音韻現象に就ては、古來議論紛出して容易に其可否 を決すべくもあらず、ことに近來は從前國學者が金科玉條視したる五十音圖は、決 して當時存在せる音の全部を網羅したるものにあらざる事を一般に認めるに至 り、母音に關しては、彼等の考へたる五母音以外に他の母音は存在せざりしか、當時 ぱ果して短母音のみにして、長母音は存せざりしか、鼻母音の存在を認め得ざりし かの論起り、子音に關しては、シの古音はsiなりしが、shiなりしか、チの古音はtiなし か、chiなりしか、ツの古音はtuなりしか、tsuなりしか、也行音中のyi,ye和行音中の wuは實際上存在したりしや否や、特に波行音に關しては、其古音をパピプペポに歸 せんとする所謂『P音考』主張の可否如何等の如き、内外人によりて屡〃論ぜらるゝ 所なり。されどもこれ等は近時漸く研究の緒に就きたるのみにして、未だ明確な る最後の解決に接すること能はず。從來の國學者が言へる如く、此時期に果して 所謂濁音、拗音、促音、撥音等の音現象の存する事なかりきといふも亦疑はざるを得 ず。之を要するに、今や古學説は漸く改められんとする時に在りて、着々其要を得 るに至るべし。只現時學問の立脚地より見て、當時の言語のみに限らず、日本語本 來の性質として二箇の子音を重用する事を許さず、音節が子音に終る事なく、濁音、 良行音の語頭に立つ事少き事、濁音は清音よりも後に發達したる傾向ある事等は、 信憑するに足るべきものならん。

品詞

 第二、品詞 今日の所謂品詞に相當すべきものが當時の日本語にいかに發達し 來りたるか。即ち弖爾乎波の起源は之を何に求むべきか。形容詞、動詞、助動詞、副 詞、接續詞等の發達は如何なる經路を經て、一定の形式を採るに至りたるか、未だ十 分に透徹せる研究に接する能はず。例へば弖爾乎波等の如き虚辭(又は助辭)の起 源を名詞の如き實辭に求むるが如きあり、形容詞及び動詞は其根本に於て全く同 一のものなりし事を説く人あり、動詞活用形に關しても、其原形を四段活用に歸す る人あり、四段、下二段活用の二元論を唱ふる人あり、又奈行變格活用一元論を唱ふ る人あるが如き、未だ終極の議論を見ず。

 抑〃品詞を八種、九種或は十種等に分類する事は、近く面洋文典の影響に基けるも のにして、日本人自らの分類は此頃見るに足るべきものあらざりしなり。只祝詞、 宣命等の書法に於て弖爾乎波又は形容詞、助動詞、動詞等の語尾變化に屬する部分 を小字となし、右方に傍記せるが如きは、多少実辭、助辭の區別を認めたるものとな す事を得べきか。降つて悦目抄(藤原基俊)、八雲御抄(順徳院)、弖爾波大概抄(藤原定家 なりといふ)等に於て弖爾乎波の事を論ぜるも、其弖爾乎波たる、今日の所謂弖爾乎 波以外に助動詞の如き他の品詞に屬すべきものをも含ましめたれば、品詞分類の 觀念は久しく我國人の脳中に發達せざりしを知るに足る。

文章法

 第三、文章法 日本語の一般的性質として、主語が文の初めに立ち、客語之に次ぎ、 最後に説明語來るを常とし、其他修飾語は被修飾語の上に來り、助辭は實辭の後に 添加せらる。主格語を表彰せざる事多く、無生物に所相の語を用ゐる事なく、接續 詞乏しくして、或は弖爾乎波を用ゐ、或は助動詞等の語尾變化によりて、數多の單文 章を結合して限りなく文章を延長するを得るが如きも、亦國語の特徴と云ふべし。 奈良朝以前にありては、一定の格をあらはす弖爾乎波の省略せらるゝ事著しきが 如く、又所謂中古文法が示せる如き係結の法一定する事なかりき。尋常の係りを 終止言にて結び、『ぞ』の係りを連體言にて結び、『こそ』の係りを已然言にて結ぶ習 慣は平安朝に現はれたるものにして、其以前にありては毫も斯の如き制限ある事 なし。詞の玉緒卷七、古風の部に以上の規則に反けるものを列擧して、これ上代の 一格なるべしと言へるも此事を指せるなり。要するに係結の法則は上代にあり ては決して一定したるものにあらざりしなるべく、却つて種々の形式併存したり しが、其後に至り、特に或ものが發達して、所謂平安朝の規則を生じたるものなるベ し。此期に當りて大に著しき言語現象は所謂枕詞の發達なり。『久方の天』、『鳥が 啼くあづま』、『蘆が散る難波』に於ける、『久方の』、『鳥が啼く』、『蘆が散る』の如き云ひ 方にして、其起原に就いては或人は單に韻文の語調を調べんが爲に挿入せられた る修飾的語句に過ぎずと言ひ、或人は同音異義の語を分たんが爲、必要上他語の上 に添加せられたるものなりしに、平安朝に至りては全く單なる修飾語となりたる ものなりと言へり。兎に角此時期の一特産たるを失はざるなり。

第二節 鎌倉、室町時代

鎌倉、室町時代

 此時代は平安朝の後を承け、前後戰亂の絶えざりし時代なり。從つて文學も大 に衰へ、假名遣は漸く亂調に陷らんとし、文體も亦所謂和漢混淆文を生じ、語法に於 ても多大の變化を來し、東西兩京方言分立の萠芽も此時に發するに至れり。外國 語よりの影響としては、當時禪宗の輸入と共に所謂唐音の傳來したる事、韻學研究 の端緒を開きたる事等以外に特筆するに足るべきものあるを見ず。

其一 漢語の融和(文體の變遷)并に語法の變遷(東西兩京方言混和)

文體の變遷

 我國上世に於ける純粋の古文體は、祝詞等に於て見るが如きものなりしが、漢字、 漢藉の渡來、佛教の傳播ありてより、漢學は漸く勢力を増し、聖徳太子の憲法十七箇 條の如き、實に純粹なる漢文を以て書かれ、全く漢土風に依れる大化の制度典章さ へ生ずるに至り、嵯峨、仁明の兩帝は最も漢文、詩賦を好ませられ、勅撰の漢詩集すら 公にせられたる程なり。此の如く漢文は隆盛を極めたりと雖、又一方に於ては我 國古文體の系統を引ける竹取物語、宇津保物語、源氏物語等所謂和文體の發達あり て、共に文學の盛時を成せり。然し此等和文體と稱するものにありても、漢語、漢文 の勢力の及ばざるもの稀にして、最も古文の面影を傳へたるものと稱せらるゝ宣 命の如きものすら、尚ほ多少漢文の分子の侵入し居る影跡を存せり。爾後宇多天 皇の朝遣唐使を廢せられたる等の事ありてより、漢學は漸く衰微の徴を現はし、鎌 倉時代に至りては和漢學共其特質を失ひ、國文中に漢語の語彙、語法等を混用し、遂 に一種の文體を形成するに至れり。是れ即ち世に和漢混淆體と稱するものにし て、源平盛衰記、太平記等の文體は皆之に屬す。

 此時代に於て注意を拂ふべき他の重要なる事項は、前時代に比し語法上大なる 變遷を生じ來りたること、東國方言が政治文學の上に漸次勢力を及ぼし來れる事 等なり。

東西方言の混入

 上代の言語は暫く之を措き、かの奈良、平安兩朝の言語は言ふ迄もなく畿内地方 の言語にして、文學は總べて此上に建設せられ、當時の標準語として尊崇せられ、其 他の方言は皆卑俗なるものとして輕視せられたる事は、萬葉集、古今集(九百五年)等 に東歌(あづまうた)と稱して地方の歌を集め、中央語と區別しあるを以ても、其一斑 を察する事得べし。爾後此標準語は今日に至るまで連綿として持續し、帝國方 言中の一大勢力たると失はざりきと雖、源平時代より鎌倉時代に推移するに及び、 前日の東方語は忽然として其勢力範圍を擴張し、京畿の言語に封し、少からざる影 響を與へたること間〃史上に散見する所なり。即ち太平記に當時鎌倉武士の盛に 京都に入りしより、京都の風俗一變したることを述べ、更に彼等が公卿の言を嘲り、 公卿も坂東語を使用したりとの記事あるは、之を證するに足る。要するに是等兩 方言の混入により、此時代には一種特別なる言語を形成するに至り、五山の僧の抄 物類、即ち應永(一千三百九十四年−一千四百二十四年)の頃出でたる論語の抄、文明 九年(一千四百七十七年)に出でたる桃源の史記抄、其他三河物語、沙石集、狂言記、節用 集等に於て認むるが如き姿となれり。

其二 唐音(宋音)

唐音

 吾人は漢音、呉音に對して唐音なる名目を屡〃耳にする事あり。唐音とは禪宗の 我國に傳來するに伴ひて、新に傳はりたる當時の漢字音を指して言ひし者なり。 唐音の外、宋音といふ名目を立てゝ、之を相異なりとするものあれども、其實兩者の 別は存せざりしが如く、單に同一音に對して唐宋朝の名を冠らしめて稱する者な るべし。然れば唐音行はれたりと云ふ當時、宋との交通は唐時代よりも盛にして、 先には僧然、寂照等の入宋せるあり、覺阿(一千一百七十一年歸る)榮西(一千一百九 十一年歸る)等が歸朝して、所謂唐音(宋代の音)を傳へたるあり、徳治元年(一千三百六 年)に出でたる虎關禪師の聚分韻略には唐音にて假字を附し、其以後の韻書等これ に倣へるもの頗る多し。降つて室町時代に至りては、五山の僧徒等が盛に詩文を 弄し、茶湯等に日を過し、專ら將軍の意を得ん事をのみ力め、民間に於ける勢力も大 なるものなりしかば、當時盛に傳來したる唐音は專門語としてのみならず、普通語 としても、爾來我國語の一部を占領して、永く使用せらるゝに至れり。

其三 韻學、悉曇の研究

韻學

 韻鏡の始めて我國に知られたるは、亀山天皇の文永年中(一千二百六十四年−七 十四年)にあり。是よりさき支那音韻の事を論ぜるもの、我國に於ては室海あり。 即ち彼は唐徳宗の時入唐して音韻の學を學び、歸朝の後『文鏡秘符論』を著はして 四聲の事を述べたり。其後韻鏡我國に傳はりしも、永く世人に知られざりしもの の如し。文永年中に至り、奈良轉經院の律師某始めて之を唐本の文庫中より發見 したりしが、當時此の書の何たるかをも知ること能はざりき。此時明了房信範と いふ者あり、悉曇の學に通ぜしかば、之に和點を施して世に公にせり。其後徳治元 年(一千三百六年)に至り、虎關禪師『廣益三重韻』を著はして反切の事をも論じたり。 後奈良天皇享禄年中(一千五百二十八年−三十一年)に至り、清原宣賢信範の韻鏡を 飜刻して世に公にせしより、引續き徳川時代に入り韻鏡の學大に隆盛を極め、安永 (一千七百七十二年−八十年)の頃に至るまで、其刻本數十種の多きに達したり。さ れども俗本頗る多くして、享禄本、永禄本等の外は信ずるに足るべきものなし。

悉曇學

 悉曇の學も當時支那より間接に傳へられ、稍〃深きに入らんとせり。即ち南北朝 の頃に道玄と云ふ僧の八轉聲鈔を著はして、梵語の名詞變化に言及せる所ありし が如きは、大に多とすべきものなり。其他宥快(一千三百四十五年−一千四百十六 年)の『悉曇學記聞書』、長覺(一千三百四十六年−一千四百十年)の―『悉曇決擇鈔」等あ り。爾後悉曇の學は時を追うて盛なるに至れり。

第三節 豊臣及び徳川時代

豊臣、徳川時代

 此時期に於ける國語發達の状况は如何なりしか。室町時代より戦國時代を經 て東國語の勢力増加し、徳川時代に入るに及びては、江戸方言の基礎漸くこゝに樹 立し、漸次其勢力範圍の擴張せられんとする傾向を生じたり。初め文學上の用語 としては獨り大阪方言有力なりしと雖、元禄(一千六百八十八年−一千七百三年)と 經て享保(一千七百十六年−三十五年)の頃に至るに及び、東國の方言は益〃其新生面 を開き來り、遂に文學上の語として長く一異彩を放つに至り、茲にまた東西兩京方 言の確實なる對立を見るに至れり。

葡萄牙語

 次に當時欧洲の言語の影響は如何なりしかと云ふに、欧洲諸國中最も早く我國 に通商を求めたるは葡萄牙人にして、從って葡語は最も早く我國に輸入せられた り。當時彼我文明の程度著しく懸隔せるを以て、邦語の適譯を得ざりしものか、種 種なる日用器具の名稱、及び基督教に關する宗教上の用語の或は普通語として或 は專門語として我國語中に侵入せるもの尠からず。宣教師が布教の側日本語を 研究し、其文法書或は辭書を著述したるもの數種に上る。又此頃日本語を羅馬字 にて書き記したる宗教に關する書今日と雖間〃存在せり。此等は其當時長崎又は 其附近の地に於て印刷せられたるもの多し。アーネスト・サトーが我國に來れる 宣教師の一千五百九十一年(天正十九年)より一千六百十年(慶長十五年)に至る間本 國に發送したる報告の歐洲に存するものを蒐集し、The Jesuit Mission Press in Japan として刊行したるものは、これによりて當時我國語(少くとも長崎附近の方言)の有 したる音韻、語法、單語等の今日と異なれる所を比較することを得べく、國語の歴史 的研究の外國史料として、一日も缺くべからざるものとなれり。

西班牙語

 日葡間の交通によりて國語中に其侵入を見たること甚だ多きが如く、日西の交 通によりて亦國語中に其侵入せしもの尠からず、書籍としては一千六百十年(慶長 十五年)マニラにて出版せられたる日西語對譯辭書等あり。

和蘭語

 蘭語は我國が西欧科學に觸接する導火となりしものにして、當時鎖港國禁の巌 なりしに拘はらず、吉宗將軍天文の學を好み、西洋の學術を輸入せんとする念深か りしかば、享保五年(一千七百二十年)遂に學術に關する諸書に限り、洋書の繙讀を許 可せり。是より蘭學俄然として勃興し、日本語に關する文法辭書等の刊行せらる るもの頗る多きを致せり。是等は多く醫學者の手に依りて研究せられたるもの なり。然れども和蘭語は單に專門語に止まらず、深く國語中に侵入して普通に使 用せらるゝもの亦頗る多し。

英語

 英語に至りては、英米との交通に從ひ漸次傳播せられ、文久二年には已に英和對 譯字書の出版あり、慶應元年には所謂薩摩版辭書の成るを見たり。是れ明治に於 ける英語普及の濫觴を成せるものなり。

佛蘭西語

 佛國は弘化年中其軍艦が英艦と共に我琉球に來りて貿易を請求せしより、屡〃我 國に交通せしが、シャッポ(chapeau)等只二三の普通語を残せる外、當時言語上さした る影響と見る事なかりき。

露西亞語

 露西亞人とは以前より我北方に於て常に接觸したり。或は松前に或は長崎に 露語を學ぶものありたれども、蘭語の如く盛なるに至らず、蓋し彼が如く學術上に 影響を與へざりしに由る。從って露語は國語に入ることなくして止みたり。

獨逸語

 シーボルドは獨逸人として早く(一千八百二十三年、文政六年)我國に來り、我醫學 並びに博物學に貢献したる所頗る多しと雖、當時和蘭醫官たりしを以て、從前蘭語 を學べる者が、傍ら獨逸語を辨じたるに止まるが如し。然れども後日我醫學界は 殆ど獨逸語を以て充たさるゝに至りたるもの、蓋し此等に因せるにあらざるなき か。其他普通言語として獨逸語の我に入れるもの甚だ多からず。

支那語

 此時期に於ける日支の交通は甚だ自由なりし爲、支邦語が輸入物と共に傳りた るもの甚だ多し、これ今九州地方に尚ほ存せるを以て知るべし。又學術界に於 ては韻鏡の研究に關する著書漸次多きを致し、研究上の進歩亦著しきものあり、僧 文雄の如き太田全齋の如き學者を得たるも亦此時代なり。而して支那韻學より 來れる悪影響も亦大なるものありて、反切法の濫用の弊の如き甚だ忌むべきもの を生じたり。悉曇の研究大に詳密に進み、悉曇三密鈔、梵學津梁等の大著此時代に 出でたり。韓語に至りては、韓人にして日本語との對譯書を著作せしものあれど も、我國語に影響したることなし。

梵語、韓語

第四節 明治時代

東京方言

 徳川時代に勢力を得たる江戸方言は、明治遷都以後全國文化の中樞たる帝都の 言語となり、これを基礎としたる各地方言の混體はこゝに東京方言を形成し、交通 機關の發達、教育制度の具備に連れて益〃擴布せられ、今日に在つては我國標準語の 制定はこれに歸據を求むるの至當なるを認むるに至れり。

近代語の発展

 而して前時代に始めて渡來したる西洋の文物は、王政維新後益〃其勢を得て續々 輸入せられたれば、當代の國語は内容甚だ豊富となり、各種專門の語は各其模範を 採りたる原土の言語を用ゐるもの多く、從って普通の用語中諸邦の言語を加ふる に至り、文章法の如きも亦過去に見るべからざる異觀を交ふ。殊に英語は夥しく 普及し、日常の言語中これに基けるもの數百に上り、看板、商標の類其字を用ゐて之 を記せるもの少からず、數字の如きはアラビヤ字を知らざるもの甚だ稀なるに至 れり。而して此變化に伴うて更に著しきは、日本化したる漢語を以て此等西洋語 を飜譯せるもの日を追うて多きを致せることにして、所謂新熟語なるもの是が爲 に愈〃増加せり。一時國學の隆盛なりしに拘はらず、在來文學あるものと云はゞ、漢 語、漢文を知れるものに限られたれば、新思想に對する新語の製作上、蓋し已むを得 ざることなるべし,かゝる状態に在ると共に、一方印刷術は年々長足の進歩を爲 したるを以て、此等の言語は諸種の出版物上に現はれ、國民等しく之を理解するに 及んで、少くとも現代文字あるものゝ言語は、賃に欧漢同鋳の語を以て充たさるゝ に至れり。明治二十七八年の戰役後、この新語が續々支那に輸入せらるゝも亦奇 観と云ふべし。

現代の文章

 言語已に此の如くなるが故に、當今の文章も亦消化せられたる欧洲文明の思想 を表彰し、漢字の使用は前代に比して筆ろ多數にして且つ廣大となり、俗間讀者の 爲にせる徳川時代の草雙紙の頼が平假名のみを用ゐたるに反し、今の小説類は振 假名を施したる漢字を交ふることゝなれり。これ一は漢字の難解なるが故にし て、而も時勢は未だ漢語の跋扈を防遏することを得ざればなり。

國字改良論

 漢字學習の困難は火を睹るよりも明かなれば、慶應三年前島密が國字改良の議 として、これが廢止意見を幕府に上りし以來、相繼いで諸説を生じ、假名專用説を主 張せる假名の會は明治十六年に起り、翌年羅馬字採用論者より成れる羅馬字會起 り、漢字排斥の聲愈〃盛なるに至れり。此等の會は共に長く持續すること能はず、漢 字廢止反對の説も亦出でたりと雖、明治二十七八年戰役の後、再び國字論起り、明治 三十二年には帝國教育會内に國字改良部の成るあり、翌年文部省に羅馬字綴方調 査委貫會の設けらるゝありて、漢字の處分に就いては益〃世人の注意を惹きたるが 如し。教育當局者も亦之に感ずるところありて、明治三十四年より小學枝にて教 授すべき漢字の數を節減せり。三十五年高等教育會議が中學致科書中より漢文 を削除するの議を可決したるが如き、この大勢に鑑みたるものと云ふべきか。爾 來漢字、漢文に對する國民一般の智識の稍〃衰へたるは、蓋し自然の勢なるべし。

假名

 假名は今尚ほ前代の遺風を繼承して、官報其他公文には漢字に片假名を混用せ り。雑誌、新聞紙の類も一時片假名を加へたるものあれども、遂に全く棄却するに 至れり。但西洋語は之を片假名にて記することは殆ど例外なるが如し。平假名 の字體は從來多様なりしが、明治三十三年の文部省令により全く一定せられたり。

假名遣

 假名遣は既記の如く平安朝の末期より漸く亂調に赴き、爾後甚だ不統一の觀あ りしが、徳川時代國學の勃興と共に復古流大に用ゐられ、明治の文學教育も亦久し く之に則りたり。然れども是れ偏に或有數の學者の使用に止まり、庶民は從來已 に口音に從へるものと記すこと多きを以て、明治三十三年に文部省は先づ字音假 名遣の古用を撤し、爾後國語仮名遣も亦古流を變更し、新法を用ゐて教科書を編せ んと試みつゝあり。

文體

 文體は尚ほ書簡に在來の候文を遺し、公文の類に漢文書き流しの變體を存し、所 謂雅文即ち平安朝の女流文も未だ全く跡を絶たず、所謂雅俗混淆體の勢力亦頗る 大なり。然れども文語が現代の口語に接近する傾向は漸次強きを加へ、明治二十 年以來國字論に伴ひて盛に鼓吹せられたる言文一致の主義は益〃これを事實に見 ることを得るが如し。

結辭

 之を要するに、此時代は言語、文字、文章共に最も多様、多種の分子を包容せるを以 て、何れも其統一を全うする迄には、猶ほ多くの時日を要すること勿論なり。而し て諸學術の進歩と一般社會の發達とは、自ら此目的を達するに助くる所あるべく、 官府の事業として明治三十五年四月に設置せられたる國語調査委員會も亦同十 二年學士會院に生じたる意志を繼ぎて、方言の調査、標準語の制定、文字の改良、國民 言語の辭書編纂等大に其効を擧げんことを希望して已まず。
明治四十一年二月二十六日印刷
明治四十一年二月二十九日發行

編修兼發行者
東京市牛込區早稲田南街九番地
副島八十六

發行所
東京市牛込区早稲田大學出版部内
開國五十年史發行所