初演當時の主なる役割──夜叉王(市川左團次)娘かつら(市川壽美藏)かへで(市川莚若)春彦(市川市十郎)源頼家(市村羽左衛門)下田五郎(中村又五郎)金窪兵衞尉(市川荒次郎)修禪寺の僧(市川左升)など。
(伊豆の修禪寺に頼家(よりいへ)の面といふあり。作人も知れず、由來もしれず、木彫の假面(めん)にて、年を經たるまゝ面目分明ならねど、所謂古色蒼然たるもの、觀來って一種の詩趣をおぼゆ。當時を追懷してこの稿成る。)
登場人物──面作師(おもてつくり)夜叉王。夜叉王の娘かつら。かへで。かへでの婿春彦。源左金吾頼家。下田五郎景安。金窪兵衞尉行親。修禪寺の僧。行親の家來など。
| かつら | (軈て砧の手をやめる。)一〓(.とき)餘りも擣ちつゞけたので、肩も腕も痺(しび)るゝやうな。もうよいほどにして止(や)めうでないか。 |
| かへで | とは云ふものゝ、きのふまでは盆休みであったほどに、けふからは精出して働かうではござんせぬか。 |
| かつら | 働きたくばお前ひとりで働くがよい。父樣(とゝさま)にも春彦どのにも褒められようぞ。わたしは嫌ぢゃ、嫌になった。(投げ出すやうに砧を捨つ。) |
| かへで | 貧の手業に姉妹が、年ごろ擣ちなれた紙砧を、兎かくに飽きた、嫌になったと、むかしに變るお前がこの頃の素振は、どうしたことでござるか喃(なう)。 |
| かつら | (あざ笑ふ。)いや、昔とは變らぬ。ちっとも變らぬ。わたしは昔からこのやうな事を好きではなかった。父(とゝ)さまが鎌倉においでなされたら、わたし等も斯うはあるまいものを、名聞(みゃうもん)を好まれぬ職人氣質とて、この伊豆の山家に隱れ栖(ずみ)、親につれて子供までも鄙(ひな)にそだち、詮事(せうこと)無しに今の身の上ぢゃ。さりとてこのまゝに朽ち果てようとは夢にも思はぬ。近いためしは今わたし等が擣ってゐる修禪寺紙、はじめは賤しい人の手につくられても、色好紙(いろよしがみ)とよばれて世に出づれば、高貴のお方の手にも觸るゝ。女子とてもその通りぢゃ。たとひ賤しう育っても、色好紙の色よくば、關白大臣將軍家のおそばへも、召出されぬとは限るまいに、賤の女がなりはひの紙砧、いつまで擣ちおぼえたとて何とならうぞ。嫌になったと云うたが無理か。 |
| かへで | それはおまへが口癖に云ふことぢゃが、人には人それ%\の分があるもの。將軍家のお側近う召さるゝなどと、夢のやうな事をたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとならうやら、わたしは案じられてなりませぬ。 |
| かつら | お前とわたしとは心が違ふ。妹のおまへは今年十八で、春彦といふ郎(をとこ)を有った。それに引きかへて姉のわたしは、二十歳(はたち)といふ今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家に、住み果つまいと思へばこそぢゃ。職人風情の妻となって、滿足して暮すおまへ等に、わたしの心はわかるまい喃。(空嘯(そらうそぶ)く。) |
| 春彦 | 桂どの。職人風情と左も卑しい者のやうに云はれたが、職人あまたあるなかにも、面作師といへば、世に恥しからぬ職であらうぞ。あらためて申すに及ばねど、わが日本開闢以來、はじめて舞樂のおもてを彫(きざ)まれたは、勿體なくも聖徳太子、つゞいて藤原淡海公、弘法大師、倉部の春日、この人々より傳へて今に至る、由緒正しき職人とは知られぬか。 |
| かつら | それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公といふ、その人々が尊いのぢゃ。彼の人々も生業(なりはひ)に、面作りはなされまいが……。 |
| 春彦 | 生業にして卑しいか。さりとは異(い)なことを聞くものぢゃの。この春彦が明日にもあれ、稀代の面をつくり出して、天下一の名を取っても、お身は職人風情と侮るか。 |
| かつら | 云(お)んでもないこと、天下一でも職人は職人ぢゃ、殿上人や弓取とは一つになるまい。 |
| 春彦 | 殿上人や弓取がそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。 |
| かつら | はて、くどい。知れたことぢゃに……。 |
| かへで | あゝ、これ、一旦かうと云ひ出したら、飽くまでも云ひ募るが姉さまの氣質、逆らうては惡い。いさかひはもう止(よ)してくだされ。 |
| 春彦 | その氣質を知ればこそ、日ごろ堪忍してゐれど、あまりと云へば詞が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つれば附け上り、やゝもすれば我を輕しむる面憎さ。仕儀によっては姉とは云はさぬ。 |
| かつら | おゝ、姉と云はれずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に有ったとて、姉の見得にも手柄にもなるまい。 |
| 春彦 | まだ云ふか。 |
| 夜叉王 | えゝ、騷がしい。鎭まらぬか。 |
| 春彦 | 由なきことを云ひ募って、細工の御さまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡くださりませ。 |
| かへで | これもわたしが姉樣に、意見がましいことなど云うたが基(もとゐ)。姉樣も春彦どのも必ず叱って下さりまするな。 |
| 夜叉王 | おゝ、なんで叱らう、叱りはせぬ。姉妹の喧嘩はまゝある事ぢゃ。珍らしうもあるまい。時に今日ももう暮るゝぞ。秋のゆふ風が身にしみるわ。そち達は奧へ行ってタ飯の支度、燈火(あかし)の用意でもせい。 |
| 二人 | あい。 |
| 夜叉王 | なう、春彦。妹と違うて氣がさの姉ぢゃ。おなじ屋根の下にに起き臥(ふ)しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多からうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の公家(くげ)衆に奉公したもの、縁あってこの夜叉王と女夫(めをと)になり、あづまへ流れ下ったが、そだちが育ちとて氣位高く、職人風情に連れ添うて、一生むなしく朽ち果つるを悔(くや)みながらに世を終った。その腹を分けた姉妹、おなじ胤(たね)とはいひながら、姉は母の血をうけて公家氣質、妹は父の血をひいて職人氣質、子の心がちがへば親の愛も違うて、母は姉贔屓、父は妹贔屓。思ひ/\に子どもの贔屓爭ひから、埒もない女夫喧嘩などしたこともあったよ。はゝゝゝゝゝ。 |
| 春彦 | さう承はれば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌ひ、世にきこえたる殿上人か弓取ならでは、夫に有たぬと誇らるゝも、母御の血筋をつたへし爲、血は爭はれぬものでござりまするな。 |
| 夜叉王 | ぢゃによって、あれが何を云はうとも、滅多に腹は立てまいぞ、人を人とも思はず、氣位高う生れたは、母の子なれば是非がないのぢゃ。 |
| 春彦 | おゝ、取紛れて忘れてゐた。これから大仁(おほひと)の町まで行って、このあひだ誂へて置いた鑿と小刀(さすが)をうけ取って來ねばなるまいか。 |
| かへで | けふはもう暮れました。いっそ明日にしなされては……。 |
| 春彦 | いや、いや、職人には大事の道具ぢゃ。一刻も早う取寄せて置かうぞ。 |
| 夜叉王 | おゝ、職人はその心掛けがなうてはならぬ。更けぬ間に、ゆけ、行け。 |
| 春彦 | 夜とは申せど通ひなれた路、一〓(.とき)ほどに戻って來まする。 |
| 僧 | これ、これ、將軍家の御しのびぢゃ。粗相があってはなりませぬぞ。 |
| 夜叉王 | 思ひもよらぬお成りとて、なんの設けもござりませぬが、先づあれへお通りくださりませ。 |
| 夜叉王 | して、御用の趣は。 |
| 頼家 | 問はずとも大方は察して居らう。わが面體を後のかたみに殘さんと、さきに其の方を召出し、頼家に似せたる面を作れと、繪姿までも遣はして置いたるに、日を經るも出來せず。幾たびか延引を申立てゝ、今まで打ち過ぎしは何たることぢゃ。 |
| 五郎 | 多寡が面一つの細工、いかに丹精を凝(こら)すとも、百日とは費すまい。お細工仰せつけられしは當春の初め、其後已に半年をも過ぎたるに、いまだ獻上いたさぬとは餘りの解怠(けたい)、もはや猶豫は相成らぬと、上樣の御機嫌さん%\ぢゃぞ。 |
| 頼家 | 予は生れついての性急ぢゃ。いつまで待てど暮せど埒あかず。あまりに齒痒う覺ゆるまゝ、この上は使など遣はすこと無用と、予が直々(ぢき/\)に催促にまゐった。おのれ何故に細工を怠り居るか。仔細をいへ、仔細を申せ。 |
| 夜叉王 | 御立腹おそれ入りましてござりまする。勿體なくも征夷大將軍、源氏の棟梁のお姿を彫めとあるは、職のほまれ、身の面目、いかでか等閑(なほざり)に存じませうや。御用うけたまはりて已に半年、未熟ながらも腕限り根かぎりに、夜晝となく打ちましても、意にかなふほどのもの一つも無く、さらに打ち替へ作り替へて、心ならずも延引に延引をかさねましたる次第、なにとぞお察しくださりませ。 |
| 頼家 | えゝ、催促の都度におなじことを……。その申譯は聞き飽いたぞ。 |
| 五郎 | この上は唯だ延引とのみで相濟むまい。いつの頃までにはかならず出來するか、あらかじめ期日をさだめてお詫を申せ。 |
| 夜叉王 | その期日は申上げられませぬ。左に鑿をもち、右に槌を持てば、面はたやすく成るものと思召すか。家をつくり、塔を組む、番匠なんどとは事變りて、これは生なき粗木(あらき)を削り、男、女、天人、夜叉、羅刹、ありとあらゆる善惡邪正のたましひを打ち込む面作師。五體にみなぎる精力が、兩の腕におのづから湊(あつ)まる時、わがたましひは流るゝ如く彼に通ひて、はじめて面も作られまする。但しその時は半月の後か、一月の後か、あるひは一年二年の後か。われながら確(しか)とはわかりませぬ。 |
| 僧 | これ、これ、夜叉王どの。上樣は御自身も仰せらるゝごとく、至って御性急でおはします。三島神社の放し鰻を見るやうに、ぬらりくらりと取止めのないことばかり申上げてゐたら、御癇癖がいよ/\募らうほどに、こなたも職人冥利、いつの頃までと日を限(き)って、しかと御返事を申すがよからうぞ。 |
| 夜叉王 | ぢゃと云うて、出來ぬものはなう。 |
| 僧 | なんの、こなたの腕で出來ぬことがあらう。面作師も多くあるなかで、伊豆の夜叉王といへば、京鎌倉まで聞えた者ぢゃに……。 |
| 夜叉王 | さあ、それゆゑに出來ぬと云ふのぢゃ。わしも伊豆の夜叉王と云へば、人にも少しは知られたもの。たとひお咎め受けうとも、己が心に染まぬ細工を、世に殘すのはいかにも無念ぢゃ。 |
| 頼家 | なに、無念ぢゃと……。さらばいかなる崇りを受けうとも、早急(さっきふ)には出來ぬといふか。 |
| 夜叉王 | 恐れながら早急には……。 |
| 頼家 | むゝ、おのれ覺悟せい。 |
| かつら | まあ、まあ、お待ちくださりませ。 |
| 頼家 | えゝ、退(の)け、のけ。 |
| かつら | 先づお鎭まりくださりませ。面は唯今獻上いたしまする。なう、父樣(とゝさま)。 |
| 五郎 | なに、面は已に出來してをるか。 |
| 頼家 | えゝ、おのれ。前後不揃ひのことを申立てゝ、予をあざむかうでな。 |
| かつら | いえ、いえ、嘘いつはりではござりませぬ。面はたしかに出來して居りまする。これ、父樣。もうこの上は是非がござんすまい。 |
| かへで | ほんにさうぢゃ。ゆうべ漸く出來したと云ふあの面を、いっそ獻上なされては……。 |
| 僧 | それがよい、それがよい。こなたも凡夫ぢゃ。名も惜からうが、命も惜からう、出來した面があるならば、早う上樣にさしあげて、御慈悲をねがふが上分別ぢゃぞ。 |
| 夜叉王 | 命が惜いか、名が惜いか、こなた衆の知ったことでない。默っておゐやれ。 |
| 僧 | さりとて、これが見てゐられうか。さあ、娘御。その面を持って來て、兎もかくも御覽に入れたがよいぞ。早う、早う。 |
| かへで | あい、あい。 |
| かつら | いつはりならぬ證據、これ御覽くださりませ。 |
| 頼家 | おゝ、見事ぢゃ。よう打ったぞ。 |
| 五郎 | 上樣おん顏に生寫しぢゃ。 |
| 頼家 | むゝ。(飽かず打(う)ち戍(まも)る。) |
| 僧 | さればこそ云はぬことか。それほどの物が出來してゐながら、兎かう澁って居られたは、夜叉王どのも氣の知れぬ男ぢゃ。はゝゝゝゝ。 |
| 夜叉王 | (形をあらためる。)何分にもわが心にかなはぬ紬工、人には見せじと存じましたが、かう相成っては致し方もござりませぬ。方々にはその面をなんと御覽なされまする。 |
| 頼家 | さすがは夜叉王、あっぱれの者ぢゃ。頼家も滿足したぞ。 |
| 夜叉王 | あっぱれとの御賞美は憚りながらおめがね違ひ、それは夜叉王が一生の不出來。よう御覽じませ。面は死んでをりまする。 |
| 五郎 | 面が死んでをるとは……。 |
| 夜叉王 | 年ごろあまた打ったる面は、生けるがごとしと人も云ひ、われも許して居りましたが、不思議やこのたびの面に限って、幾たび打ち直しても生きたる色なく、たましひもなき死人の相……。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。 |
| 五郎 | そちは左樣に申しても、われらの眼には矢はり生きたる人の面……。死人の相とは相見えぬがなう。 |
| 夜叉王 | いや、いや、どう見直しても生ある人ではござりませぬ。しかも眼に恨みを宿し、何者をか呪ふがごとき、怨靈,怪異(あやかし)なんどのたぐひ……。 |
| 僧 | あ、これ、これ、そのやうな不吉のことは申さぬものぢゃ。御意にかなへばそれで重疊、ありがたくお禮を申されい。 |
| 頼家 | むゝ、兎にも角にもこの面は頼家の意にかなうた。持歸るぞ、 |
| 夜叉王 | 強(たっ)て御所望とござりますれば……。 |
| 頼家 | おゝ、所望ぢゃ。それ。 |
| 頼家 | いや、猶かさねて主人(あるじ)に所望がある。この娘を予が手許に召仕ひたう存ずるが、奉公さする心はないか。 |
| 夜叉王 | ありがたい御意にござりまするが、これは本人の心まかせ、親の口から御返事は申上げられませぬ。 |
| かつら | 父樣(とゝさま)。どうぞわたしに御奉公を……。 |
| 頼家 | うい奴ぢゃ。奉公をのぞむと申すか。 |
| かつら | はい。 |
| 頼家 | さらばこれよりその面をさゝげて、頼家の供してまゐれ。 |
| かつら | かしこまりました。 |
| かへで | 姉さま。おまへは御奉公に……。 |
| 頼家 | おゝ、いつの間にか暗うなった。 |
| かへで | 父さま、お見送りを……。 |
| 五郎 | そちへの御褒美は、あらためて沙汰するぞ。 |
| かへで | あゝ、これ、なんとなさる。おまへは物に狂はれたか。 |
| 夜叉王 | せっぱ詰りて是非におよばず、拙き細工を獻上したは、悔んでも返らぬわが不運。あのやうな面が將軍家のおん手に渡りて、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と寶物帳にも記されて、百千年の後までも笑ひをのこさば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮夜叉王の名は廢(すた)った。職人もけふ限り、再び槌は持つまいぞ。 |
| かへで | さりとは短氣でござりませう。いかなる名人上手でも細工の出來不出來は時の運。一生のうちに一度でも天晴れ名作が出來ようならば、それが即ち名人ではござりませぬか。 |
| 夜叉王 | むゝ。 |
| かへで | 拙い細工を世に出したを、さほどに無念と思召さば、これからいよ/\精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥を雪(すゝ)いでくださりませ。 |
| 五郎 | 上樣は桂どのと、川邊づたひにそゞろ歩き遊ばされ、お供の我々は一足先へまゐれとの御意であったが、修禪寺の御座所ももはや眼のまへぢゃ。この橋の快にたゝずみて、お歸りを暫時相待たうか。 |
| 僧 | いや、いや、それは宜しうござるまい。桂殿といふ嫋女(よをやめ)をお見出しあって、浮れあるきに餘念もおはさぬところへ、我々のごとき邪魔外道が附き纏うては、却って御機嫌を損ずるでござらうぞ。 |
| 五郎 | なにさまなう。 |
| 僧 | 殊に愚僧はお風呂の役、早う戻って支度をせねばなるまい。 |
| 五郎 | お風呂とて自づと沸いて出づる湯ぢゃ。支度を急ぐこともあるまいに……。先づお待ちやれ。 |
| 僧 | はて、お身にも似合はぬ不粹をいふぞ。若き男女がむつまじう語らうてゐるところに、法師や武士は禁物ぢゃよ。はゝゝゝゝ。さあ、ござれ、ござれ。 |
| 頼家 | おゝ、月が出た。川原づたひに夜ゆけば、芒にまじる蘆の根に、水の聲、蟲の聲、山家の秋はまた一入の風情ぢゃなう。 |
| かつら | 馴れては左程にもおぼえませぬが、鎌倉山の星月夜とは事變りて、伊豆の山家の秋の夜は、さぞお寂しうござりませう。 |
| 頼家 | 鎌會は天下の覇府、大小名の武家小路、甍(いらか)をならべて綺羅を競へど、それはうはべの榮えにて、うらはおそろしき罪の巷、惡魔の巣ぞ。人間の住むべきところで無い。鎌倉などへは夢も通はぬ。(月を仰ぎて云ふ。) |
| かつら | 鎌倉山に時めいておはしなば、日本一の將軍家、山家そだちの我々は下司にもお使ひなされまいに、御果報拙いがわたくしの果報よ。忘れもせぬこの三月、窟詣での下向路、桂谷の川上で、はじめて御目見得をいたしました。 |
| 頼家 | おゝ、その時そちの名を問へば、川の名とおなじ桂と云うたな。 |
| かつら | まだそればかりではござりませぬ。この窟(いはや)のみなかみには、二本の桂の立木ありて、その根よりおのづから清水を噴き、末は修禪寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を女夫の桂と昔よりよび傳へてをりますると、お答へ申上げましたれば、おまへ樣はなんと仰せられました。 |
| 頼家 | 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありさうな……と、つい戲れに申したなう。 |
| かつら | お戲れかは存じませぬが、そのお詞が冥加(みゃうが)にあまりて、この願かならず叶ふやうと、百日のあひだ人にも知らさず、窟へ日參いたせしに、女夫の桂のしるしありて、ゆくへも知れぬ川水も、嬉しき逢瀬にながれ合ひ、今月今宵おん側近う、召出されたる身の冥加……。 |
| 頼家 | 武運つたなき頼家の身近うまゐるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じて居らう。予には比企(ひき)の判官,能員(よしかず)の娘、若狹といへる側女ありしが、能員ほろびし其,砌(みぎり)に、不欄や若狹も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのまゝに若狹と云へ。 |
| かつら | あの、わたくしが若狹の局と……。えゝ、ありがたうござりまする。 |
| 頼家 | あたゝかき湯の湧くところ、温かき人の情も湧く。戀をうしなひし頼家は、こゝに新しき戀を得て、心の痛みもやうやく癒えた。今はもろ/\の煩惱を斷って、安らけくこの地に生涯を送りたいものぢゃ。さりながら、月には雲の障りあり、その望みも果敢なく破れて、予に萬一のことあらば、そちの父に打たせたる彼のおもてを形見と思へ。叔父の蒲殿は罪無うして、この修禪寺の土となられた。わが運命も遲かれ速かれ、おなじ路を辿(たど)らうとも知れぬぞ。 |
| かつら | あたりにすだく蟲の聲、吹き消すやうに止みましたは……。 |
| 頼家 | 人やまゐりし。心をつけよ。 |
| 行親 | 上、これに御座遊ばされましたか。 |
| 頼家 | 誰ぢゃ。 |
| 行親 | 金窪行親でござりまする。 |
| 頼家 | おゝ、兵衞か。鎌倉表より何としてまゐった。 |
| 行親 | 北條殿のおん使に……。 |
| 頼家 | なに、北條殿の使……。扨はこの頼家を討たうが爲な。 |
| 行親 | これは存じも寄らぬこと。御機嫌伺ひとして行親參上、ほかに仔細もござりませぬ。 |
| 頼家 | 云ふな、兵衞。物の具に身をかためて夜中の參入は、察するところ、北條の密意をうけて、予を不意撃にする巧みであらうが……。 |
| 行親 | 天下やうやく定まりしとは申せども、平家の殘黨ほろび殲(つく)さず。且は函根より西の山路に、盜賊ども俳個する由きこえましたれば、路次の用心として斯樣にいかめしう扮裝(いでた)ち申した。上に對したてまつりて、不意撃の狼籍なんど、いかで、いかで……。 |
| 頼家 | たとひ如何やうに陳(ちん)ずるとも、憎き北條の使なんどに對面無用ぢゃ。使の口上聞くにおよばぬ。歸れ、かへれ。 |
| 行親 | これにある女性は……。 |
| 頼家 | 予が召使ひの女子ぢゃよ。 |
| 行親 | おん謹しみの身を以て、素姓も得知れぬ賤しの女子どもを、おん側近う召されしは……。 |
| かつら | 兵衞どのとやら、お身はト者(うらや)か人相見か。初見參のわらはに對して、棄姓賤しき女子などと、迂濶に物を申されな。妾は都のうまれ、母は殿上人にも仕ヘし者ぞ。まして今は將軍家のおそばに召されて、若狹の局とも名乘る身に、一應の會釋もせで無禮の雜言は、鎌倉武士といふにも似ぬ、さりとは作法をわきまへぬ者なう。 |
| 行親 | なに。若狹の局……。して、それは誰が許された。 |
| 頼家 | おゝ、予が許した。 |
| 行親 | 北條どのにも謀らせたまはず……。 |
| 頼家 | 北條がなんぢゃ。おのれ等は二口目には北條といふ。北條がそれほどに尊いか。時政も義時も予の家來ぢゃぞ。 |
| 行親 | さりとて、尼御臺もおはしますに……。 |
| 頼家 | えゝ、くどい奴。おのれ等の云ふこと、聽くべき耳は持たぬぞ。退れ、すされ。 |
| 行親 | さほどにおむづかり遊ばされては、行親申上ぐべきやうもござりませぬ。仰せに任せて今宵はこのまゝ退散、委細は明朝あらためて見參(けんざん)の上……。 |
| 頼家 | いや、重ねて來ること相成らぬぞ。若狹、まゐれ。 |
| 兵一 | 先刻より忍んで相待ち申したに、なんの合圖もござりませねば……。 |
| 兵二 | 手を下すべき機(をり)もなく、空しく時を移し申した。 |
| 行親 | 北條殿の密旨を蒙り、近寄って討ちたてまつらんと今宵ひそかに伺侯したるが流石(さすが)は上樣、早くもそれと覺(さと)られて、われに油斷を見せたまはねば、無念ながらも仕損じた。この上は修禪寺の御座所へ寄せかけ、多人數一度にこみ入って本意を遂げうぞ。上樣は早業の達人、近習の者どもにも手だれあり。小勢の敵と侮りて不覺を取るな。場所は狹し、夜いくさぢゃ。うろたへて同士撃すな。 |
| 兵 | はっ。 |
| 行親 | 一人はこれより川下へ走せ向うて、村の出口に控へたる者どもに、即刻かゝれと下知を傳へい。 |
| 兵一 | 心得申した。 |
| 春彦 | 大仁の町から戻る路々に、物の具したる軍兵が、こゝに五人、かしこに十人,屯(たむろ)して、出入りのものを一々詮議するは、合點がゆかぬと思うたが、さては鎌倉の下知によって、上樣を失ひたてまつる結構な。さりとは大事ぢゃ。 |
| 五郎 | 常はさびしき山里の、今宵は何とやらん物さわがしく、事ありげにも覺ゆるぞ。念のために川の上下を、一わたり見廻らうか。 |
| 春彦 | 五郎どのではおはさぬか。 |
| 五郎 | おゝ、春彦か。 |
| 五郎 | や、なんと云ふ。金窪の參入は……。上樣を……。確(しか)と左樣か。むゝ。 |
| 五郎 | やあ、春彦。こゝはそれがしが受け取った。そちは御座所へ走せ參じて、この趣を注進せい。 |
| 春彦 | はっ。 |
| かへで | 父樣。夜討ぢゃ。 |
| 夜叉王 | おゝ、むすめ、見て戻ったか。 |
| かへで | 敵は誰やらわからぬが、人數はおよそ二三百人、修禪寺の御座所へ夜討をかけましたぞ。 |
| 夜叉王 | 俄にきこゆる人馬の物音は、何事かと思うたに、修禪寺へ夜討とは……。平家の殘黨か、鎌倉の討手か。こりゃ容易ならぬ大變ぢゃなう。 |
| かへで | 生憎に春彦どのはありあはさず、なんとしたことでござりませうな。 |
| 夜叉王 | 我々がうろ/\立騷いだとて、なんの役にも立つまい。たゞその成行を觀てゐるばかりぢゃ。まさかの時には父子(おやこ)が手をひいて立ち退(の)くまでのこと、平家が勝たうが、源氏が勝たうが、北條が勝たうが、われ/\にはかゝりあひのないことぢゃ。 |
| かへで | それぢゃと云うて不意のいくさに、姉樣はなんとなされうか、もし逃げ惑うて過失(あやまち)でも……。 |
| 夜叉王 | いや、それも時の運ぢゃ、是非もない。姉にはまた姉の覺悟があらうよ。 |
| かへで | おゝ、春彦どの。待ちかねました。 |
| 春彦 | 寄手は鎌倉の北條方、しかも夜討の相談を、測らず木かげで立聽きして、其由を御注進申上げうと、修禪寺までは駈け付けたが、前後の門はみな圍まれ、翼なければ入ることかなはず、殘念ながらおめ/\戻った。 |
| かへで | では、姉樣の安否も知れませぬか。 |
| 春彦 | 姉はさて措いて、上樣の御安否さへもまだ判らぬ。小勢ながらも近習の衆が、火花をちらして追っ返しつ、今が合戰最中ぢゃ。 |
| 夜叉王 | なにを云ふにも多勢に無勢、御所方とても鬼神ではあるまいに、勝負は大方知れてゐる。とても逃れぬ御運の末ぢゃ。蒲殿といひ、上樣と云ひ、いかなる因縁かこの修禪寺には、土の底まで涼氏の血が沁みるなう。 |
| かへで | おゝ、おびたゞしい人の足音……。鎬(しのぎ)を削る太刀の音……。 |
| 春彦 | こゝへも次第に近づいてくるわ。 |
| 春彦 | や、誰やら表に……。 |
| 春彦 | これ、傷は淺うござりまするぞ。心を確かに持たせられい。 |
| かつら | (息もたゆげに。)おゝ妹……。春彦どの……。父樣はどこにぢゃ。 |
| 夜叉王 | や、なんと……。 |
| 春彦 | や、侍衆とおもひの外……。 |
| 夜叉王 | おゝ、娘か。 |
| かへで | 姉さまか。 |
| 春彦 | して、この體は……。 |
| かつら | 上樣お風呂を召さるゝ折から、鎌倉勢が不意の夜討……。味方は小人數、必死にたゝかふ。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面をつけてお身がはりと、早速の分別……。月の暗きを幸ひに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼(よば)はり呼はり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上樣ぞと心得て、うち洩らさじと追っかくる。 |
| 夜叉王 | さては上樣お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、こゝまで斬拔けてまゐったか。 |
| 春彦 | 我々すらも侍衆と見あやまった程なれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。 |
| かへで | とは云ふものゝ、淺ましいこのお姿……。姉樣死んで下さりまするな。(取縋りて泣く。) |
| かつら | いや、いや。死んでも憾(うら)みはない。賤が伏屋でいたづらに、百年千年生きたとて何とならう。たとひ半〓(.とき)一〓でも、將軍家のおそばに召出され、若狹の局といふ名をも給はるからは、これで出世の望みもかなうた。死んでもわたしは本望ぢゃ。 |
| 僧 | 大變ぢゃ、大變ぢゃ。かくまうて下され、隱まうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見て又おどろく。)やあ、こゝにも手負が…。おゝ、桂殿……。こなたもか。 |
| かつら | して、上樣は……。 |
| 僧 | お悼(いた)はしや、御最期ぢゃ。 |
| かつら | えゝ。(這ひ起きて屹(きっ)と視る。) |
| 僧 | 上樣ばかりか、御家來衆も大方は斬死……。わし等も傍杖の怪我せぬうちと、命から%\逃げて來たのぢゃ。 |
| 春彦 | では、お身がはりの効(かひ)もなく……。 |
| かへで | 遂にやみ/\御最期か。 |
| かへで | これ、姉さま。心を確かに……。なう、父樣。姉さまが死にまするぞ。 |
| 夜叉王 | おゝ、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であらう。父もまた本望ぢゃ。 |
| かへで | えゝ。 |
| 夜叉王 | 幾たび打ち直してもこの面に、死相のあり/\と見えたるは、われ拙きにあらず、鈍きにあらず、源氏の將軍頼家卿が斯く相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覺った。神ならでは知(しろ)しめされぬ人の運命、先づわが作にあらはれしは、自然の感應、自然の妙、技藝神に入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴(あっぱれ)天下一ぢゃなう。(快げに笑ふ。) |
| かつら | (おなじく笑ふ。)わたしも天晴れお局樣ぢゃ。死んでも思ひ置くことはない。些とも早う上樣のおあとを慕うて、冥土のおん供……。 |
| 夜叉王 | やれ、娘。わかき女子が斷末魔の面、後の手本に寫しておきたい。苦痛を堪へてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。 |
| 春彦 | はっ。 |
| 夜叉王 | 娘、顏をみせい。 |
| かつら | あい。 |
−幕−